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やがてひとしきりを笑った後で、猫は甘えるような鳴き方をした。猫なで声というやつだ。
「ガストゥ、ここからは君との交渉だそうだ」
つまり、ジェシーが通訳ということだろう。このために彼女は生かされたに過ぎない。
「猫たちは、人間にも棲み分けの提案をしたいと思っているそうだ」
「それは、つまり……」
「地球に行って、人類の高官としかるべき話し合いをしたいと、そういうことだ」
「それはずいぶんと温情あふれる処遇で」
「それは比喩か、ジョークか?」
「いいや、嫌味さ」
今までの猫たちを見るに、ガストゥの言葉は間違いのないように伝わっているはずだ。しかしサビ猫は別に気を悪くした風もなく、大きく口を開けて身を折って笑い転げた。まるでアニメのキャラクターのようにあざとい笑い方だった。
笑いながら、猫は何かを鳴く。
「ガストゥ、彼はこう言っている、『この星で何が起こっているのか、君はその目で見たのだろう』と」
「ああ、見た。確かに人類は脆弱な生物だと思い知らされたよ」
「あれはパフォーマンスだと。私たちはその証人として地球に行く、そして地球高官の前でここで起きた恐ろしい出来事のすべてを語るのだと」
「それを断ったらどうなるのか、聞いてくれ」
ガストゥの軽口に、プロキオンが「しゃっ!」と短く威嚇の声を上げる。目の前で笑うサビ猫の気持ちは全く分からないが、かわいいわが子を危険にさらしながら威嚇することしかできない子の黒猫の気持ちはなんだかわかるような気がして、ガストゥは小さく肩をすくめた。
「そんなに怒るなよプロキオン、ちょっとしたジョークだ」
それからジェシーのほうに向きなおって、ガストゥは聞く。
「猫とネズミが手を組んでいたことを、プロキオンは?」
「知らされていなかった。うちの猫はみんな私に懐いていたから、計画を漏らす恐れがあると判断されたらしい」
「なるほどなあ、良く考えられてやがる」
「ガストゥ、レグルスが返答を要求している」
「返答っていうか、同意だろ」
ガストゥは降参の意を示すために両腕を上げて見せる。
「同意する、俺はあんたを地球まで運んでやる。そのかわり、ジェシーとジェンスも一緒だ、この条件は譲れない」
その後でガストゥはプロキオンのほうに体ごと振り向き、同行の大きなその目をじっと見つめた。
「プロキオン、『宇宙船に乗るまで』の彼女の安全は、これで確保された。もちろん『宇宙船に乗った後』の彼女の身は、俺が守る。これでいいか?」
プロキオンはぱたりと尻尾を落とすと、ひとこえだけ鳴いた。
「じゃあ、そういうことで、頼んだぞ」
ガストゥは片手をあげてそれに応え、あとはくるりと踵を返す。
「そうと決まったら、さっさと行こう。デクスト号は第五係留機につなぎとめてある」
ジェシーを助け起こし、大きなサビ猫の後について、彼は歩き出したのだった。
プロキオンは追ってはこない。ジェシーはこれを哀しく、そして心細く思ったのだが、何も言葉にはしなかった。
今の彼女にはジェンスを守るという使命がある。自分の胸のあたりに頭があるような小さな体を抱き寄せる腕を緩めるわけにはいかない。唇をぐっと噛んで、彼女は顔を上げた。
ここはもう係留区域へ向かう関係者通路、よけいな飾りなど一切ない鉄の壁が延々と続く無機質な空間だ。塗装すらされていない鉄の地金色が鈍く光るせいか、ひどく寒々しい。
貨物を運ぶカーゴを走らせるために天井は高く、道幅はかなり広い。その広い通路の端には壁に寄せるように乗り捨てられたカーゴや、積み込み前だったらしい段ボールや、これから交換するはずだった航船の部品なんかが置き忘れられているのだが、そのどれもに何匹ものネズミがとりついて、触手を揺らしてはこちらの様子をうかがっていた。
驚いたのはそのところどころに猫がいて、これがネズミより一段高い場所から油断ない目つきでガストゥたちを見下ろしていることだった。
もっとも、レグルスだってたった一匹でこの宇宙港内のネズミすべてを制圧できるわけがないのだから、仲間がいるのは当然だ。それにジェシーの家の猫にはネズミとの共闘の計画は知らされていなかったわけだが、ほかの家の猫たちがこれを知っていたのだとすれば協力するものがいてもおかしくはないのだし、すぐに納得はいった。
ただ一つだけ腹の立つことがあるとしたら、この猫たちが宇宙港内で起きている人類の凄惨な抗戦を楽しむように見ていたのだろうということだ。どの猫も油断なく光らせた眼の下で薄く口を開け、ガストゥたちを嘲笑するような表情であった。
それでもガストゥは人類としての尊厳を失ったりはしないようで、サビ猫のしっぽの先を目で追いながらも胸を張って歩いている。声も力強く、まるで同僚をランチに誘うような気さくさでジェシーに話しかける。
「平和な光景だと思わないか?」
「それは嫌味か?」
「いや、実感さ。人間同士の同盟だって、ここまで平和的ではないだろうさ」
猫たちはガストゥたちに範囲がないことをみとるや、すっかり退屈したように口を大きく開けて欠伸をする。そのまま前足に顎を乗せてくつろぎ始めるものもいて、その様子はダウンタウンのごみ箱周りに集まった猫のしぐさと何ら変わりはない。
ネズミたちも、深海の岩に張り付いたイソギンチャクみたいにだらしなく触手を揺らすばかりで声さえ上げない。
「タイトルをつけるなら、『深海に猫現る』かな」
ガストゥの軽口に、ジェシーは小さく微笑んだ。疲れを押して無理に口の端だけを持ちあげるような、嘘くさい笑いだった。
「センスのかけらもないな」
「なあ、ジェシー、もしも猫と同盟を組んだのがネズミじゃなくて人間だったら、この光景はあっただろうか」
「ないな、絶対にありえない」
彼女はきっぱりと言い切る。その表情には、もう笑顔はなかった。
「人間は長く自分たちだけが宇宙で唯一の選ばれた存在だと思い込んでいた。知性を持ち、ほかの生物を利用し、愛玩する立場にあるのだと。だから愛玩動物としての猫を受け入れることはできても、自分と比肩する知的生命体としての猫を受け入れることは難しいだろう」
「だったら、レグルスを地球に連れて行っても、人類との和解なんて無理なんじゃないのか?」
「だから私たちが必要なんだ。あの星で行われた猫とネズミによる軍事力パフォーマンスの生き証人として、そして人類の思い上がりを知らしめる見せしめとして」
「なるほどなあ、良く考えられている」
ジェシーは少し言葉を切って、長い長いため息をつく。
「人類はあまりにも愚かだったとは思わないか? 人間の姿が進化の終着形であるというのなら、ほかの生物の進化もそこへ向かって行くはずだと、そんな簡単な理屈にさえ気づかなかったのだからな」
「ネズミより先にそれに気づいていれば、あるいは……」
「ああ、猫と同盟を組むのは、われわれ人類だったかもしれない」
吐き捨てるようなこの言葉を聞いても、ガストゥは特に落ち込む素振りすら見せなかった。彼とて生物に関して全くの無知というわけではなく、デニスから聞きかじった知識がわずかにあるのだから。
「それは共存というやつだろ。お互いの生物的な利害が一致したから一緒に暮らすことができる、ただそれだけの話じゃないか」
「どちらかといえば共生だな」
「字面の話はどうでもいい、つまりは利害関係がなければ、協力もクソもないってことだ。だけどジェシー、知性のある生物は利害関係でばかり共存しているわけじゃない」
「よくわからないな、比喩か?」
「いいや、実にシンプルななぞなぞだよ。時にレグルス君、君はこのなぞなぞの答えがわかるかい?」
猫は尻尾を振ったきり、鳴き声すらあげなかった。ガストゥの話などバカバカしいと思っているのであろうことは、ジェシーに通訳されなくても明らかだ。
ガストゥは小さく微笑んで話を終わろうとしたが、ジェシーは食い下がる。
「ガストゥ、そのなぞなぞの答えは何だ、生物的利害のほかに、まったく異なる生物が協力する理由などあるのか?」
「そうだなあ、ヒントをあげるならば……君とジェンスは血のつながりのない赤の他人だ。それでも君はそうやってジェンスを手放そうとはしない。それは自分と同じ人間の、それの第二世代だから、ただそれだけの理由かい?」
ジェシーはそれでも不思議そうな顔をしていたが、会話はここで終わりだった。ちょうど目的とするデクスト号のハッチの前に行きついたからだ。
デクスト号はこの星にたどり着いた時と寸分たがわぬ姿でそこに置かれていた。外装は宇宙を飛んだ擦り傷で少々くすんではいるが美しい銀色で、搭乗用のハッチは固く閉ざされている。
サビ猫は満足げに鳴き声を上げてガストゥを促した。
「はいはい、いま開けますよ」
少しおどけた口調で、ガストゥは短いタラップを駆け上がる。ハッチの横についたパネルにいくつかのコードを打ち込んで、最後に実行キーを押して。
ネズミたちはわさわさと音を立ててデクスト号を取り囲み、猫たちものそりのそりと尻尾を振って集まる。まるで見送りの光景だ。
そんな中、デクスト号のハッチは軽い排気音とともに開いた。
その瞬間、ガストゥがここには居ないはずの猫を呼ぶ。
「プロキオン!」
ハッチが開ききらないうちに、天井から真っ黒い影が一条の矢のように飛び降りた。それはほかに何を狙うこともなく真っすぐにレグルスにとびかかり、その巨体をハッチの前から弾き飛ばす。
ジェシーも驚きの声を上げた。
「プロキオン!」
そう、天井から駆け下りてきた黒い影の正体は、先ほど別れたはずの、あの猫だった。