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その猫は全身の毛を逆立てて、頭は顎が地面に付くほど下げて、尻のほうは尻尾が一ミリでも高く見えるようにと大きく突き上げていた。自分が弾き飛ばした巨体をにらんで威嚇の声を上げているが、これが甲高くて情けない。
サビ猫が身を起こすと、プロキオンの声はさらに甲高くなった。おびえきっていることは明らかである。
それでも彼女はジェシーを守ろうとしているかのように両足を精いっぱいに踏ん張り、顔が割けるほどに口を開いてわめいていた。
ガストゥはジェシーを呼ぶ。
「早く中へ!」
そういわれてもジェンスの体を抱え込んでいるのだ、走ろうにもスピードは出ない。そんなジェシーの行く手を阻もうと、ネズミたちはいっせいに触手を広げた。
「ジェシー!」
怒号一咆、ガストゥは電子銃をネズミたちのどまん中に打ち込む。幾匹かのネズミが焼かれて身もだえ、おびえた触手が一斉に道を開ける。
「いまだ、ジェシー!」
ガストゥの声に呼ばれて、ジェシーは触手の間を一気に駆け抜けた。これを受け止めてハッチの中に押し込んだガストゥは、今度は猫のほうへと向き直る。
「プロキオン、お前も……」
言いかけた言葉すら飲み込んで、彼は直感した。
(これはやばい)
二匹はいまだににらみ合っているが、プロキオンのほうが明らかに劣勢だ。威嚇のポーズのまま、じりじりと後ろへ下がっている。一方のサビ猫のほうは余裕の構えで、ただ静かに前足を一歩進める。プロキオンが戦いて飛び上がった。
プロキオンはレグルスよりも二回りも小さい。いとし子のピンチを救うべく飛び出したはいいが、自分よりも大きな敵の姿におびえて震えている哀れな雌猫だ。
対するレグルスは冷酷そうな面構えをしている。相手が自分より小さかろうが、雌だろうが情けなど一切かけないだろう。レクスンと対峙したときの、あの感じに似ている……
ぞっと背筋を走る戦慄におびえて、ガストゥはレグルスに電子銃を向けた。迷うことなくその眉間を狙って引き金を引く。レグルスは軽くバックステップを踏んでこれをかわしたが、一瞬の隙ができた。
「いまだ、プロキオン、はやく!」
彼女は身をひるがえし、漆黒の風となって触手を踏み砕いて走った。デクスト号のハッチまでは遠くない。
これを、やはり漆黒の風のように疾走するレグルスが追う。こっちは顔の皮をべろりと裏返して、無数の触手を伸ばしてまで執拗に、プロキオンをとらえようと走っているのだ。
ガストゥはもう一発、触手頭のど真ん中に電子銃を打ち込む。レグルスはその衝撃で散歩ほど後ろに飛ばされたが、倒れたりするようなことはなかった。すぐに足元を立て直して走り始める。
プロキオンはすでにハッチまでひと跳びの距離だ。ガストゥは内側からクローズボタンを押す。
「プロキオン、跳べ!」
黒猫は閉まるハッチの隙間にうまく飛び込んだが、それを追っていた触手は容赦ない機械仕掛けの鉄板の間に挟まれて、引きちぎられた。
ゴウンと静かに振動して、ハッチは完全に閉じる。船内に残された恐怖の痕跡は、床に散って痙攣している触手が数本だけ。
「よし、出航だ」
操縦室に向かおうとしたガストゥは、壁際に身を寄せ合って震えているジェシーとジェンスに気づいた。頼りなくおびえながらも互いに決して手を放さず、ガストゥにはその姿が何よりも美しいもののように思えた。
「ジェシー、さっきのなぞなぞの答えを教えてやるよ」
ガストゥは笑うが、ジェシーは不快そうに眉根をゆがめる。
「いま、このタイミングでか?」
「いま、このタイミングだからだ」
「そうか、ならば聞こう。生物的利害のほかに、他生物との共生を可能にする要素とは」
「それは……愛だ」
ジェシーがあきれたようにだらりと両手を垂らす。まるで今までの緊張感が嘘だったかのように、こわばっていたからだがぐにゃりと脱力した。
「愛だって?」
「そうだ、愛だ」
「なるほど、なぞなぞとしては難易度が高い」
ジェシーが笑う。声を立てて、顔中を緩めて、胸元は大きくのけぞって、笑う。
「ああ、こんなに笑ったのは生まれて初めてだ」
「そうだろうな」
「行こう、ガストゥ、出航だ」
「ああ」
こうして彼らを乗せたデクスト号は、ネスニア星を後にしたのである。
宇宙船の外側に張り付いていたネズミも、高速度で空へ上がるGには耐えきれずに振り落とされた。機体のくぼみにうまく潜り込んで難を逃れたものも、大気圏を抜ける摩擦熱ですっかり焼き尽くされたはずだ。
すっかり静かになったデクスト号の操縦席に座って、ガストゥは座るもののいないサブシートを眺めていた。
「デニス……」
そこにはかつて、良く太った陽気な男が腰かけていた。航行のさなかにいつも冗談を言って、バカバカしく騒いで、デクスト号の中には立った二人しか乗員がいないというのに、いつでも明るい気配が絶えたことはなかった。
彼がいない今、この船の中は必要以上に静まり返っている。
すでにネスニア星は後方遠くに小さな点となった。航行計の表示はすべて安定、機体は安定している。ネズミの脅威が去ったこの船は、きっと静かに宇宙を飛んで、一か月後には地球にたどり着くことだろう。
静寂に耐えかねて、ガストゥは通信機のスイッチを入れた。しかし妨害電波の届く息を脱していないのか、砂をばらまくような電子ノイズが聞こえるだけ。
その時、操縦室のドアが軽い音を立てて開いた。入ってきたのはジェシーただ一人で、彼女は両手に一つずつコーヒーを入れた紙コップを持っている。
「航行の調子は?」
質問とともに差し出された紙コップを、ガストゥは受け取った。
「ああ、安全運航。何も心配はない、そちらは?」
「ジェンスは、君のベッドに寝かせてある。相当疲れていたんだろう、ぐっすりだ。プロキオンによる船内巡回も終わった、ネズミの侵入はない。彼女は船倉が気に入ったらしく、そこをねぐらに決めたらしい」
彼女は無表情で可視モニターを覗く。そこには無数の光点となった宇宙の星たちだけが映し出されていた。
「これでは、どれがネスニアなのかわからないな」
そこでデニスは、モニターに指先を置いて光点をなぞる。
「特に明るく見える星が二つ、あるだろう、それがネスニアの太陽だ。そこから指節二つほど離れて薄く見えている星、あれがネスニアだよ」
ジェシーは紙コップを両手で抱えて、少しぼんやりとした目つきでモニターを見ていた。
「遠いな」
「ああ、遠い」
「あそこにはまだ、人がいる……ウェスカーや、メディルスや、集落のみんなも……」
「ジェシー」
ガストゥの声に、彼女が振り向く。あくまでも無表情で。
「とりあえず、君の身の振り方を先に考えよう。地球に帰ったら、まずは君とジェンスの移住許可を申請しようと思う。これは特に問題なく済むと思うんだが、そのあとが問題だ」
「移住をしても、私たちには住むところも、金もないからな」
「そこでだ、君が嫌でなければ、古くて間取りは少し狭いが、生活に必要な一式をそろえた住居を紹介しようかと思っている」
「むしろありがたい。私がなにを嫌がるというんだ?」
「その家には、君のことを好きで好きで仕方がない一匹のケダモノが住んでいるんだよ」
ガストゥは彼女の片手を引き寄せ、その甲に口づけを落とした。
「ケダモノだから、時々は君にキスをしたがるだろう。それ以上のこともね。ジェンスが学校に通うようにでもなったら、昼の間中ずっと君をベッドに閉じ込めて逃がさないかもしれない」
「ケダモノは君で、住居の使用料として私の肉体を提供すればいいと、そういう解釈で良いか?」
「ちょっと違うかな。俺が欲しいのは君の体じゃなくて、君の残りの人生のすべてだ」
ジェシーが大きく口を開けて「あはは」と空々しい声をあげた。
「面白いジョークだ、それじゃあまるでプロポーズじゃないか」
「ジェシー、俺は君にはジョークは言わないと約束しただろう、本気だ」
ジェシーがわずかに頬を赤く染め、一歩身を引いた。
「じゃあ、不謹慎だ。あの星にはまだ人が取り残されていて、私たちは彼らを救わなくてはならないというのに!」
「ジェシー、それは地球政府の仕事だ。もうすぐ、妨害電波域を抜けたら、俺はすぐに地球に救援信号を送る。それで俺たちの冒険はおしまいだ」
「でも!」
「ジェシー、なぞなぞの答えは教えただろ?」
「ああ、利害関係以外に生物が共生することを可能にするもの、愛だ」
「それは男と女にも当てはまる。俺には君に対する愛がある、だから君と共生するのに、これ以上の相手はいないと思うんだが?」
「それは私も同じだ、ガストゥ。私も君とならば生活を共にすることができると思っている」
「そして厄介なことに、愛は時として人を危険に向かわせる諸刃の剣だ。あの宇宙港で、レグルスに立ち向かったプロキオンの姿を覚えているかい?」
「ああ、あれには驚いた。プロキオンがレグルスに歯向かう姿なんて、初めて見た」
「あれも愛だ、プロキオンは、自分の子のように愛する君の身を守ろうと、自分の恐怖心さえ押しのけて、あそこへ駆けつけたんだ」
ジェシーが黙り込む。
「ジェシー、俺だって君への愛がある。君が危険な目に会おうというのなら、どこまでだって追いついて、君の盾になろうとするだろう。君は、俺を危ない目に会わせたいかい?」
それに応える彼女の声は。消え入りそうなほどに細い。
「そんなことは、させたくない」
「そうだろう、だったら、危ないことは考えず、幸せになることを考えてくれ」
「幸せになってもいいのか、私が」
「むしろ、君が幸せになってくれないと、俺が困るんだが?」
「そうか、わかった」
どちらが先に唇を差し出したのかはわからない。二人は深く、深くキスを交わした。
メディルスの妨害電波域を脱したのか、船内のスピーカーに荒れた雑音が混じる。
「……きゅ……こち……ち……」
地球の本社からの緊急通信だ。しかし、雑音が消えてクリアな音声でのやり取りができるようになるまでは、いましばらく時間がかかるだろう。
二人の唇が離れることはなかった。




