小満
五時間目の英語の授業は、教室の窓のカーテンが風に吹かれてふくらみしぼみを繰り返すのをひたすら眺めて過ごした。
それにも飽きて、うとうとしかけたところでちらりと時計を見ると、いつの間にか終業5分前になっていた。
やった。あとちょっとで放課後だ!
月曜日は週で唯一5時間目までしか授業がなく、その代わり、自主参加の委員会活動がある。委員会に入っていない子は、そのまま部活動に行く。
私は陸上部だけど、図書委員もやっているから今日は部活には遅れていくことになる。
放課後に思いを馳せたところで、私はふと、チャコのことを思い出した。
そういえば、あれからチャコの姿を見ていない。
あんな毛玉が校内をうろついていたら、目立ってしかたないと思うんだけどな。
だけど、どこからもそんな話は聞こえてこない。なにかうまく姿を隠しているのかそれとも学校にはもういないのか。
そんなことを考えていると、いつの間にかホームルームも終わり、解き放たれた生徒どもの話し声で教室が一気にざわめき始めた。
「ちかこ!部活いこ!!」
ぼーとしていると、千鶴が抱き着いてきた。
「わっ!千鶴。…もー忘れたの?私、今日は図書委員会だってば」
「あれ?そうだっけ?じゃぁ、先行ってるね!」
爽やかに千鶴が教室から駆けて出ていく。ひらりと揺れる黒スカートから覗く、引き締まった長い脚がまぶしい。長距離を走るために作られた脚だなぁ、と私は見るたびに思う。
本人も長距離走が大好きなようで、部活にも誰よりも一生懸命取り組んでいる。
私も部活は好き。自慢じゃないけど、私は短距離選手の中じゃ県でもかなり速いほうだ。
先生やチームメイトから寄せられる期待は大きいし、その分練習も頑張んなきゃと思う。
けど、だ。
今日だけは、部活はちょっとわきに置いておきたい。
図書委員会で過ごす時間は、譲れない。だって、それが今人生で何よりも楽しみな時間なんだもの。
なぜって?それは
「古河さん、こんにちは。今日もよろしくね」
図書室の貸し出しカウンターに座った男子生徒がにっこりとほほ笑んだ。後ろの窓から差し込む日の光が、彼のふんわりした髪を、茶色く光らせた。私にはそれが後光のように見える。あぁ、直視できない!
「あ、阿久津くん!そうだね、よろしくね!今日もガンバろー」
阿久津くんは、この春隣のクラスに転入してきた。中学3年男子とは思えぬ落ち着いた雰囲気が魅力的で、女子の中にファンも多い。ま、私もその内の一人なのだが。
全体的に線が細くて、学生服の裾から覗く手首は驚くほど華奢だ。The・美少年って感じ。
「僕、貸し出し簿の整理してるから、古河さんは新書の欄の番号順を確かめてくれる?」
「うん、わかった。任せて!」
図書委員は各クラス1人で、全学年合わせて12人いる。阿久津くんが委員長で、私は副委員長だ。副委員長なんてやる気はさらさらなかったが、阿久津くんが委員長になったのを見て、勢いで立候補した。
運の良いことに他に誰もやりたがる人はいなかったので、私はまんまと阿久津くんの右腕的ポジションを獲得することができた。
右腕と言っても、雑用のようなことしかやらないけど。
わりと広い図書室の中では、10人くらいの図書委員が作業している。
2人っきりってわけにはいかないけど、他クラスの阿久津くんとしゃべれる機会なんてほとんどないから、図書委員の時間は私にとって至福の時だった。
入口にほど近い新書の書架は、阿久津君のいる貸し出しカウンターの目の前だ。本を番号順に並べ替えようと一生懸命に動きながらも、時折、横目で阿久津君のほうを見てしまう。
男の子なのに、本当にまつ毛が長いよなぁ。
そんなことを思って、再び視線を手元に戻そうとしたその時、視界の端にありえないものが写った。
「あ!!」
思わず、大きな声を出してしまって、図書室のみんなが一斉にこちらを振り向いた。阿久津君も顔をあげて、こちらを見た。びっくりしたように、阿久津君の目が少し大きくなる。
「古河さん、それ…け」「あ、ごめん、私教室に忘れ物してきちゃったから、とってくるね!!」
私は「それ」を拾いあげると脱兎のごとく図書室から飛び出した。
図書室で私がむんずとつかみあげたそれは、茶色のもじゃもじゃ…つまり、チャコだった。
あろうことか、チャコは「よっ」といいながら、とことこと図書室の入口から私のところに近寄ってきたのだ。
「チャコ!なにしてんの!あんなとこいたらみんなびっくりしちゃうじゃん!」
「なんだぁ、おおげさだなぁ。大丈夫だよ。俺の姿はちかこ以外見えないから」
「え?そうなの?」
「そうだよ。狛犬様なめてもらっちゃぁ困る。一般人には俺の姿も声も、言っちゃえば匂いだって感じ取れないだろうよ」
「し、知らなかった」
「そもそもが俺はこの世の存在じゃないし、見えないのが普通なんだ。ちかこが見えるのは、そういう霊力がそなわっているからだな。古河家はそういう家系だ。まぁ、古河家じゃなくても、全国、数多の人間の中にはたまーに見えるやつもいるけどな」
ふむふむ。なんとなく分かった。でもあれ?
「ちょっと待って、じゃぁ、さっき私、みんなには見えない何かを拾い上げて走り去った変な人みたいになっちゃってない?」
「パントマイムの才能があるって、話題になってるかもな」
「うそでしょーあーあー阿久津君にへんな人って思われたらどうしようー…」
ていうか、絶対ヘンだって思われてる。だって、あの時阿久津君は驚いたようにこっち見て『古河さん、それ…け』って。
…ん、あれ?古河君、あの時何を言いかけたんだろう。
その時、教室の戸ががらりと開いて、人が入ってきた。まずい、話し声、聞こえてたかな?
「古河さん、大丈夫?もう委員会活動の時間おわっちゃったから、みんな解散しちゃったんだけど…」
「阿久津君!」
私は思わずばっとチャコを隠すように立ち上がった。阿久津君は不思議そうな顔をしている。
「そっか、わざわざありがとね。じゃぁ、私も図書室には戻らないで部活行こうかな」
「そう思って、もう図書室には鍵かけちゃった」
にこにこと阿久津君が言う。あぁ、癒される。
でもよかった。何も不審に思われてないみたい。
「阿久津君、さっき、何か言いかけたよね?ごめん、忘れ物のことで頭いっぱいになっちゃってさえぎっちゃった」
「…あ、そうだっけ?古河さんがいきなり叫んだから、怪我でもしたのかなって、思ったんだけど…怪我したの?って聞こうとしてたかも」
なるほど。「古河さん、け」のけは怪我のけか。さすが阿久津君。私の奇声にドンびいたりしないで逆に心配してくれるなんて紳士の鏡じゃない?
その後も少しだけ他愛無い雑談を交わすと、阿久津君は教室から出て行った。
「なんか、変な人間だったな」
チャコがひょっこり机の上に乗っかって、ぽつりと言った。
「変とはなにさ!あんなにも素敵な人間、あんまりいないよ!?」
「なんだ、ちかこ、あいつに懸想してるのか?」
「懸想って!いやいや、ちがうよ、私のはただの憧れ…」
ふーんとチャコが鼻を鳴らす。
「なんでもいいけどよ、お前自分が仮葬者って自覚はあるのか?」
へ?自覚?
「…自覚ならあるよ、でも屍神がいないもんだから、することがないんだよ」
「そう、わかってるじゃねぇか!お前の言う通り屍神なんてうじゃうじゃいるわけじゃない。だから、自分から探さないとだめなんだ。経験を積むことが何にも勝る成長へ近道。この一年は葬者としての基礎を身に着けるための研修期間なんだから、積極的に屍神に関わっていかないとな」
なるほどね。自分で模試に申し込んでしっかり演習しろと。
―――うん、今ちょっと忙しいから無理!
「おっけーおっけー。とりあえず、今日は部活行かなきゃだから、その話はまたあとでね!!」
私は鞄を背負うと、チャコには目もくれず、部室に向かって駆けだした。
空はすでに群青色に染まりつつある。地平線にかろうじて残るオレンジ色の光が、雲の下の方だけ照らして陰影を濃くしていた。
部室に荷物を置き、少しひんやりとした空気のなかを急いでグラウンドまで向かう。
私が着いたときにはすでにみんなアップを済ませ、それぞれの種目に散ってタイムを計っていた。
「あ、ちかこ!ちょうどよかった。今からみんなでリレーの練習するよ。入って入って!」
マネージャーの吉沢が遠くで手を振っている。私は小走りで駆けよって、促されるままに自分のポジションについた。
200m×4の、私は最後に走る。グラウンドのちょうど反対側から吉沢が、スタートの合図をするのが聞こえた。始まると、1分も経たずに私にバトンが渡る。
3走目の、後輩・藤代ちゃんがいいスピードでバトンをもってきた。受け渡しの体勢になって、私は助走を始めた。
手に滑らかなバトンの感触が伝わる。
あとはもう走るだけだ。走っている間は何も考えなくていい。ひたすらに足を動かして前に進む。景色がぐんぐん遠ざかっていくのが面白い。
吉沢が立っているゴール地点のちょっと向こうまで全力で駆け抜ける。
息を整えるためにしばらくゆっくりと走り続けて、それから結果を確認するために吉沢のもとへと向かった。
「どうだった?」
「全然だめ。あんた、バトン受け取るときにちょっとリズム狂ったでしょ」
あらら、よく見てらっしゃる。
「ちょっとね。でもその後の走りで挽回できたと思ったんだけどなぁ」
「本番はコンマ一秒を争う戦いなのよ?最善を目指してよね。…まぁ、確かにろくなアップもしないであの走りができるのはさすがだけどさ」
へへ、ほめられた。吉沢は自分にも他人にも厳しい鬼マネージャーだから、たまに褒められるとついにやけてしまう。
「何にやけてんの。別に褒めてないからね。ほら、今日はもう、時間ないから藤代と組んで、バトンの練習しなさい」
他の走者たちも吉沢のもとによって来た。自分のタイムの確認と、吉沢からのアドバイスをもらうために来たのだろう。
吉沢が一人一人に厳しいお言葉をかけていく。厳しいが、彼女はいつも的確な指摘をしてくれるので後輩たちの聞く姿も真剣だ。
私はそんな後輩のうちの一人、藤代に声をかけた。
「藤代、ごめんねぇ。バトンがちょっとうまくいかなかったわ」
「古河先輩のせいじゃないですよ。自分がタイミングつかめなかったせいですから」
2年の藤代は、ザ・体育会系なスポーツ少女で、上下関係とか、規律とかに対してすごく真面目である。いい子なのだが、チームに対する自分の責任とか、自分のタイムが伸び悩んでいることとか、深刻に考える傾向があって、先輩としては少し心配に思う部分もある。
今も、さっきのリレーの結果に、責任を感じているのか、暗い顔をしている。
「それに、メンバーのなかで、一番タイム遅いの自分ですし…」
「いやいや、こればっかりは練習あるのみだもん。吉沢も怖いから、今日はバトンの練習しよ」
「はい。よろしくお願いします」
部活は6時には終わる決まりになっている。
自主練をするという殊勝な何人かを残して、私はすっかり日が暮れた世界で帰途についた。
駅に近い高台に建つ学校から少し行くと、途端に喧騒が消え、代わりに虫の音がよく聞こえるようになる。私は田舎道にぽつんぽつんと立つ街灯を道しるべに、のんびりと自転車をこいだ。
通学路の途中に、田んぼ道がある。私は田植えの終わったばかりの真新しい水田を見ながら、今日の夕飯に思いを馳せた。
今日はなんとなく、ほかほかの真っ白なお米に、納豆をかけて、その上に卵の黄身とネギと梅干をトッピングし、一気にかき込みたい気分だ。
げこげこと、カエルの歌声がにぎやかだ。
住宅街にはいり、我が家の明かりが見えてきた。
自転車を車庫の隅に置き、石階段を駆け上った。私の家は坂道に沿って立っているから、家と道路の間に結構な高低差があるのだ。
鍵を開け、勢いよく玄関扉を開け放った。
「ただいま!」
入った瞬間、いい匂いが鼻をくすぐった。
この匂い、今日はカレーだな!
瞬時に、お腹が納豆モードからカレーモードに切り替わる。居間に入ると、すでにお母さんとよし兄はカレーを食べていた。
「おかえりなさい。カレー鍋に残ってるから、好きなだけよそってきなさい」
「はーい」
私はぼすんと鞄をソファに放り値げて、手を洗う。
その隙によし兄はさっさと食べ終えて、自分の部屋に戻って行ってしまった。よし兄は高校で部活に入ってないから帰りも早い。早く帰ってきて、家でも自室で勉強しているらしい。高校受験の時に第一志望で長男も通っていた県下一位の進学校に落ちたのがよほど悔しかったらしい、大学は長男よりもいいところに行くのだと息巻いていたのを聞いたことがある。
つくづく、私とは違う人種だと感じる瞬間である。
とろとろのカレーをご飯にかけて、さあいただこう、と思ったとき、ソファに投げ捨てた鞄が、ぼすぼすと跳ねた。
「な、なに?」
おそるおそるチャックを開けると、チャコがばっと飛び出してきた。
「俺もお腹すいた!」
「チャコ!いつの間に鞄の中に!?」
「あらあら、それじゃぁ、チャコちゃんの分も用意しなきゃねぇ」
お母さんが席を立って、台所に向かった。私との待遇の差よ。
あっという間に、子供用のいすに座るチャコと、私と、お母さんの3人で囲む奇妙な食卓が出来上がった。いやいや、もう驚かないぞ。
「…犬がそんなもの食べていいの」
「犬は犬でも狛犬だから問題ない」
さいですか。私はもう、何も言わないことにした。
ご飯も食べ終え、お風呂にも入り、部屋でごろごろしていると、チャコが部屋にすたすたと入ってきた。
扉が開いた音はしなかった、どうやって…と思い、扉を見ると、扉の下のほうに犬用の小さな出入り口が作られていた。
「いつの間に」
それには答えずに、チャコはちょっと真面目な声で、言った。
「ちよこ、放課後、グラウンドでお前が爆走する前に走っていたおなご、いただろう?」
「藤代のこと?」
「そのおなご、ちょっと気になる」
「なにさ、チャコ、犬のくせに人間の女の子に恋でもしちゃったの?」
チャコが少しむっとした顔をした。気がする。何分、毛に顔が覆われているから表情がわかりづらいのだ。
「そういう意味じゃねぇ!…遠くからしか見てなかったからよく分からんが、その子、なんか悪い気を発してたぞ」
「悪い気?」
「ああ。分からんが、もしかしたら、なんか憑りつかれているかもな」
藤代が?確かに今日はちょっと暗かったけど。
「明日また、近くで観察したい。部活に俺のこと連れて行ってくれな…もしかしたら、さっそく経験、積めるかもだぜ?」
チャコは嬉しそうにそれだけ言うと、またくぐり戸を抜けて出て行った。




