小満
これは1分1秒を争う戦いである。
8時。
私は黒いセーラー服を風にたなびかせ、自転車を鬼の形相で漕いでいた。登校時間は8時半。
家から学校までは4キロぐらいだろうか。ありがたいことにその道中に信号はひとつしかない。ただ、坂が多いので上り坂の時には体力が、下り坂の時は勇気が試される。
ああ、でも今日は久しぶりに、本格的にヤバそうな。
いろいろあったこの土日の疲れからか、なんとなく背中に背負った鞄が重く感じられた。
これは熱い戦いになりそうだ!
道程はすでに4分の3は過ぎている。勝負は、最終ラウンドに突入した。
始業五分前の鐘が聞こえた。
私は学校が建つ高台へ繋がる坂道を鼻息荒く登っていた。ちかこ選手、ラストスパート決められるか。
あと3分。
体感で、残り時間をカウントする。
自転車を駐輪所に停め、靴箱に駆け込む。上靴をはいている時間はない。手に突っ掛けたまま、3年生の教室がある3階目指して階段を一段飛ばしで駆け上がった。
さん、に、いち
授業開始の鐘がなるとともに、教室の引き戸をバシンと開けて、忍者よろしくさっと教室に滑り込んだ。私の席は扉近くなので全然目立たってない。
「よーしホームルーム始めるぞー」
先生が一拍遅れで教室に入ってきて、出席をとり始めた。
よし!やっぱり今日も間に合った。
「さすがちかこちゃん、今日もギリギリセーフだね」
隣の席のさよちゃんがニコニコしながらこそっと話しかけてきた。ちくしょう、今日もかわいいな。
私はさよちゃんに照れ笑いを返すと、荒い息を整えるため、水を飲もうと鞄に入った水筒に手を伸ばしかけー
ん?
鞄には、入れた覚えのない茶色のもふもふが入っていた。
カビ、かな。そうか。まだ五月だけど、湿気がそんなにも
いや違う。分かってる。現実逃避はここまで。
「先生、トイレ!」
私は鞄をひっつかむと、女子トイレへ駆け込んだ。
*
女子トイレの個室に駆け込んで、鞄を広げた。
教科書とお弁当の間に挟まって、茶色のもふもふ...いや、チャコが顔を出した。
「まったく、落ちつきねえな、お前。どうしたんだよ」
「どうしたって、いやいや、原因あなた!!」
「ちかこの暮らしは知っとく必要があるからな。しばらくは学校にもついていくぞ」
「ペットの持ち込みは禁止だから!ずっと鞄のなかに隠れてるつもり?」
「ペットじゃない!俺は誇り高き狛犬だっ!…いや、ずっと鞄のなかはつらい。勝手にそこら辺散策させてもらう」
「ダメだよ、大騒ぎになるじゃん」
「ふふふ、大丈夫だ。なめんなって」
その時、また鐘が鳴った。ホームルームが終わった合図だ。一時間目の前の小休止がはじまり、女生徒がガヤガヤとトイレにやって来た。
あっと思う間もなくチャコが鞄からぴょんと飛び出し、器用に扉を開けると個室から出て行ってしまった。
「あっちょっ!」
私も後を追いかけ、急いで個室を飛び出る。勢いよく開けた外開きの扉が前を通った誰かにぶつかって、その誰かがきゃっと短く声をあげた。
「あっ、ごめん」
「あれ?ちかこちゃん。お腹はもう大丈夫なの?」
ぶつかったのはさよちゃんだった。
「さよちゃん!うん、もう大丈夫!ありがとう。…ね、今、個室からなんか変なもの出てこなかった?」
「変なものって?」
「なんかこう…茶色い毛玉みたいな…」
「見てないよ。ふふふ、どうしたのちかこちゃん。今日、なんか変だよ?」
さよちゃんが、小さな口に手を当てて笑っている。くそう、さよちゃんに気味悪がられた。これも全部あの駄犬のせいだ。
「あははは、何でもない!気にしないで!」
結局、チャコはそれ以降姿を見せないまま、お昼になった。
私の学校では、お昼を学食かお弁当か選べるようになっている。私はお弁当派なので、教室で同じくお弁当派の子らと食べるのが常だ。
今日もいつものように、さよちゃんと、陸上部の仲間の中川千鶴と、出席番号が近くて仲良くなった佐貫百子の4人でご飯を囲んだ。
「いただきます」
これまたいつものように、律儀にみんなで手を合わせて食べ始める。
「それにしても、今度の模試、全員受けなきゃいけないとかほんと勘弁してほしいよね」
千鶴がぱくぱくとリズミカルに口におかずを運びながら、愚痴り始めた。
竹を割ったような性格の彼女だが、勉強が大嫌いなので試験だとか模試だとかそういったものへの嫌悪感は人一倍で、自然、愚痴も多くなる。
「まぁ、自分で申し込まなくてもいいから、いい機会なんじゃないの?千鶴、そうでもなきゃ模試なんて受けないでしょ」
「そりゃ、そうだけどさー」
百子は、豪華なお重に入ったおかずを箸で小さく分けながら、千鶴の愚痴を流した。
百子は結構ずけずけとものを言う。
ちなみに、そんな百子の今日のお弁当は、副菜にほうれん草のゴマのあえ物ときんぴらごぼう、主菜に白身魚の煮つけとちくわの磯部揚げ、それから桜でんぷんがかかった鮮やかなご飯である。
百子はそれらをなんとも上品に食べる。
そんな百子をじっと見ていると、百子が「これ、いらない」と言って、きんぴらごぼうを私のお弁当箱にぽいっと入れてきた。彼女は私の弁当箱をゴミ箱かなにかと勘違いしている節がある。
だが文句は言うまい。お嬢様の百子が持ってくるお弁当の味は一級品で、私は彼女のおかずが捨てられるのを実は楽しみにしていたりする。おいしいものを頂くためなら、ゴミ箱にでもなんでもなりまっせ。
「あぁ、でもせっかくの土曜だし、総体も近いのに…」
「この地区の中3ならみんなその模試受けるわよ、きっと。条件は同じじゃない?」
さて、この二人がさっきから話している模試とやらだが、実はなんのことだかさっぱり話が見えていない。
聞いているうちに思い出すかと思ったが、そんなことは全くなく、ただ知らない話だということが確信に変わったぐらいだ。しかたない聞くか。
「あのう、模試って、なんのこと?」
「まじか。ちかこ、朝の先生の話、聞いてなかったの?」
「あっそか、ちかこ、朝腹痛でトイレに駆け込んでたもんね」
千鶴と百子が同時に言った。百子が先に言葉を継いだ。
「来週の土曜日に統一模試があるんだって。学内のテストと違って、志望校とか書くと、合否の判定結果がでるやつらしいから、全員受けろって。ほら、私たち、一応受験生じゃない?」
「あぁーいやだぁー」
千鶴が大げさに頭を抱えて呻いた。すでにお弁当は食べ終えたらしく、食後のデザート?のカロリーメイトを握っている。
「じゃぁ、来週は土曜日もみんなに会えるね」
さよちゃんが、いつものようにコンビニで買ったらしき菓子パンをもぐもぐしながら声を弾ませた。あぁ、天使。
「さよっち、そんなぽじてぃぶなのはおぬしぐらいのものよ…」
「さよ殿は勉強ができるものね…」
千鶴と百子が大げさに、恨みがましく声を低めた。
この二人の言うように、さよちゃんは頭がいい。ほとんどの科目で学年一位をキープしている。
千鶴と百子は中間層。
千鶴は嫌だといいつつもなんだかんだ勉強をするので、そこそこの点を全教科で取れるタイプ。
百子は真面目に勉強するが、数学のセンスが絶望的な典型的文系。
で、私は
「でも、ちかこ見てると安心するわぁー。自分より下がいるって、精神的にほんと楽よな」
ぐさり、千鶴の言葉が刺さる。だが、反論はできない。確かに小学生の時と変わらず私の成績はどうも壊滅的で、自分でも笑えるほどだ。あははははははは。
「私はやればできる子なんです。見てろよー」
「はいはい。見てる見てる。ちかこの成績が低空飛行なのはちゃんと見てるから」
私が成績の低さをネタにしていることをわかってて、千鶴たちが、からからと笑った。私もつられて笑った。
と、その時。
「おい、邪魔」
低い声が頭上から降ってきて、私はびくりと肩を竦めた。
でたな。
この声は、私が一番苦手なクラスメイトのものだ。
「そこ、俺の机なんだけど」
「あ、ごめん」
結城大悟。
こんがり焼けた肌が健康的なサッカー少年で、女子とはあまり話をしているところをみないが、男子とは仲良くて、よく教室で馬鹿なことやってるからクラスでも目立つ存在だ。
そんな彼に、私はなぜか嫌われているらしい。
表立った嫌がらせはないけれど、明らかに私だけ無視したり、どうしてもしゃべらない時も私にだけ厳しい口調だったりする。
そんな他の人は気にしないような細かい態度が、ちくちくと私の心に突き刺ささってしかたない。
理由はわからない。結城くんとは同じクラスになるのは今年が初めてだし、小学校は別学区だったから、面識はないはずだった。
なのに初対面の時から、明らかな敵意を彼からは感じるのだった。
結城くんは、私たちがどくのをじっと待っている。
千鶴が気さくに「けちけちすんなよー」と結城くんに絡んでいるが、私はさっさとお弁当をまとめると、席を移動した。
結城大悟。私はこの男が大の苦手である。




