白露
見えたのは、膝をついている古河と、その手を掴んだまま天を仰いでいる袴姿の人物の背だった。
その人物が見上げる先には、ガス灯のような琥珀色の光を発し夜空に浮かぶ、巨大な時計の文字盤があった。奇妙なことに、秒針がゆっくりと通常とは反対方向に動いている。
――屍神か。
古河の姿が視界に入った時から、今まで感じていた息苦しさと動きづらさは消えていた。右手に大事に握っていたにゃんぞうのストラップをなくさないようにズボンのポケットにしまう。代わりに左手に持っていた木刀――近くの土産物屋から拝借したものだが――を両手で構えて、少年にとびかかった。
「ちかこを離せ!」
多分、相当動揺していたんだと思う。つい幼いころの呼び名のまま叫んで、俺は古河を掴む少年の腕を、小手の要領で叩きつけた。ぱん、と音がして、少年の手が古河の手から離れ、その手の中から何か金色に輝く小さな丸いものが落ちた。
それは遠くの草むらにポスンと落ちて、どこに行ったか分からなくなった。
「結城か」
俺が手を打った人物は、手から飛び落ちた何かに俺が気を取られているうちに移動したのか、いつの間にか木刀が届かない位置まで距離を取って、俺を睨んでいた。いや、睨んでいた、と言うのは勘だ。何せ、その人物の顔にはにゃんぞうが満面の笑みを浮かべて張り付いていたから、表情はわからなかったのだ。どこかの屋台で買ったのだろう。
「お前、誰だ、古河に何した」
古河は手が離れた時に地面に倒れたまま、動かなかった。
「なんで動けんの。あーあ計画が台無しじゃん…」
少年―そう、多分少年だ。お面から覗く髪は女にしては短いし、声もそれなりに低い。歳の割にはガタイのいい俺に比べたら小柄だけど、多分歳も、同じくらい。そいつが、何の緊張感もなくふいっと動いて、雑草が茂る地面からさっき落とした丸いものを拾った。
俺はそいつが何か変な事をしようとしたら、すぐにでも斬りかかれるよう姿勢を作ったまま、その動きを注視した。
「やっぱり、君は邪魔だなぁ。まぁどうせ、君に神は殺せない、だから全然いいんだけどさ…痛いのは嫌じゃん?」
そいつがはぁ、とため息をつきながら右手をぶらぶらと振った。
「骨折しちゃったかも。後で慰謝料請求するからね」
どこまで本気なのか読めないやつだ。
「お前があの屍神を操ってるのか?なら、今すぐこの怪異をやめさせろ。でなきゃ、手首の骨折だけじゃすまねぇぞ」
「古河の戌が、よく吠える。言われなくても、そうするよ」
「え」
そう言って、すいっと背を向けて暗がりに去ろうとするそいつに呆気に取られて、俺はつい、声を荒げた。
「おい!お前何者だ!」
「またねー」
ひらりと左手を振って、少年は雑木林の奥に消えてしまった。
やけに暗いと思ったら、空中で輝いていた屍神はいつの間にか消えていて、雲のない空には薄く星が瞬くばかりだった。
*
古河は無事だった。矢に射られたという狛犬も、大丈夫だったようだ。
夏休みも終わりかけ、という日の昼下がり、嬉しそうに古河が狛犬を連れて、わざわざ家まで見せに着た。俺は顔をしかめて見せたけど、家に上げて、お茶を出してみた。平静を取り繕うのが大変だったけど、普通に喋れてたと思う。
そう、花火大会の日から、俺たちはちょっとずつ歩み寄るようになっていた。…いや、今までだって、ずっと古河は俺に歩み寄ろうとしてくれていた。そっぽを向くのをやめて、歩み寄ようと心を変えたのは俺。
俺は多分、ずっと小さいころからちかこに恋してる。
そのことに気づいたのは、中学一年生の春――――中学校で再会した時だった。
ちかこは小学生になる前に道場をやめていたし、小学校は別々の学区だったから、会うのは6,7年ぶりだろうか。覚えている姿よりもずっと大人になって、でも幼いころの面影が確かに残るその顔を入学式の会場で見つけた時、俺は心臓が飛び跳ねる音を聞いた。
クラスが別々だったのが残念だったけど、斜め前方、隣のクラスの列に並び、退屈な校長の祝辞をしっかりと前を向いて聞いているちかこの横顔は、俺が知っているどんなものよりも美しい、と思った。校長の話なんて一言も耳に入らなかった。だって、心臓がどくんどくん、と飛び跳ねた勢いで耳元までやってきたかのようにうるさくて。
それで、俺は、あ、俺ちかこのこと好きなんだ、と気づいたのだ。
入学式は午前中で終わる。同じ年頃の子が多く通ううちの道場は、今日までは春休みの時と同じ、14時から稽古が行われる。
俺はいつものように誰よりも早く行って着替えと道場の準備を済ませてしまうと、同じくすでに着替えを済ませた師範、つまり俺のじいちゃんにちかこのことを報告した。
「聞いてよじいちゃん!ちかこが俺と同じ中学だったんだ!」
この時のことはよく覚えている。広く開け放たれた門扉からは、春のうららかな日差しが差し込み、ふわりと吹いた風にのって、せっかく掃除した下駄箱に桜の花が数枚散った。
じいちゃんは、ほう、と少し考えた後、言った。
「あぁ、古河の末子だね?そりゃぁよかった。古河のものが近くにいれば、お前が守護職になったとき何かと利があろう」
それから、じいちゃんは俺が初めて聞く話を語った。彼我の神々の話、屍神の話、古河の役目。結城の役目…。
「我々は古河の目であり盾であり鉾である。だから大悟、古河の者と行動を共にするのは良いが、心まで同じ地平においてはいけぬ。古河よりも早く異変に気づき、古河の危機に際し冷静に動くためには、古河より一歩離れたところにて物事を見なくてはならぬ。」
だから、とじいちゃんは続けた。
「古河の者に、よもや、恋心など、抱いてはならぬ」
俺の心を見透かしたようにぴしゃりと放たれたその言葉は、俺の胸を貫いて、飛び跳ねた心臓を容赦なく叩きつけた。叩きつけられた心臓は、べしゃりとつぶれて、俺の腹の奥底に消えていった。
そうやって、俺の恋は、始まる前に終わった。
でも、だめだと言われて、すぐに消えるような思いなら、それは恋ではない。
俺のは恋だった。
古河を見かけるたび、叩き潰されたはずの心臓はめげずに飛び跳ねたし、未練があって、部活も剣道部ではなく陸上部のちかこと同じグラウンド競技のサッカー部を選んでしまった。
じいちゃんの言葉が頭にあったから、別に好きじゃない、と自分にいいきかせつつ、でも目で追って、ちょっと心を弾ませる、そんな日々が続いた。中2の時まではそれでよかった。
でも中3になって、状況が一変した。
クラス分けの表を見た時、自分の名前が載っている表の上のほうに古河の苗字を見つけて、俺はかなり困惑した。
―――恋心など、抱いてはならぬ。
二年前に聞いたじいちゃんの言葉が、俺の頭をよぎった。
それでも俺は、同じクラスになったことに浮き足だってたんだろう、「別に好きじゃないし!」と、自分に言い訳して、古河と話す機会を探った。
そしてその機会はすぐに訪れた――なんのきっかけで話したかは覚えてない。相当緊張していたのだけ、覚えている、あと、もしかして古河も俺のこと覚えているかもと少し期待したのも、覚えている。
でもその期待に反して、古河は俺のことを覚えていないようだった。
少し切なかったけど、それで、俺は決意した。
…叶わぬ恋、叶えてはならぬ恋、ならばそんな不毛な恋心、消し去ってしまおう。
その日から俺は“古河が嫌い”と自分に嘘をついた。嘘を本当にするために、言葉で、態度で、それを示した。
「いいか、俺はお前のことが嫌いなんだ」
古河を傷つける言葉は同時に自分も傷つけた。でもそうしていくうちに、めげずに飛び跳ねる心臓がズタボロになっていつか恋心が消えてしまえばいいと思った。
しかし、だ。古河が葬者になって、俺が彼女の守護職になってから、かかわる機会は格段に増えてしまった。
会うたび、しゃべるたび、やっぱ好きだよ、嫌いじゃないよ!と心臓が大声で主張する。
俺の恋心はゴキブリのようにしぶといらしい。叩きつけられてもズタボロになっても、驚きの生命力で復活して、また飛び跳ねる。
自分に嘘をつき続けるのが難しくなっていた。
どん、と腹に響く音が空気を震わした時、俺はふと、「もういいか」と思った。
夜空に火花を開かせるための爆発音が、俺の何かを壊したのかもしれない。じいちゃんの一言にぐだぐだ囚われている自分が突然馬鹿らしくなった。
「似合ってる、と思う」
言ってみれば、素直な言葉はずいぶんと簡単に出てきた。
もう遅いかもしれない、ずいぶん嫌な態度をとったから、ちかこには嫌われてるかも。
…でも、いいんだ。叶えようなんて思わない。俺はもう自分にをつきたくないだけなんだ。
つづく




