130話--怖いルトリエ--
転移の感覚がふっと消えて視界がゆっくりとクリアになっていく。
最初に飛び込んできたのは磨き上げられた黒曜石のような床と正面奥に据えられた巨大な玉座だった。
天蓋のように広がる天井はどこまでも高く、そのすべてが闇に溶けている。
それなのに玉座に座る者だけは輪郭も見えない距離のはずなのに、まるで目の前に立たれているかのような存在感を放ち、こちらの心臓を鷲掴みにしてきた。
重圧、という言葉では足りない。
視線を向けただけで魂ごと跪かされるような圧が肌を、骨を、内臓をまとめて押し潰そうとしてくる。
ぽた、と足元で小さな音がした。
「……え?」
視線を下に落とすと黒い床の上に赤い雫が、いくつか輪を描いて落ちていた。
鼻を指で拭えば、べっとりと血が付いた。
頬を伝う温かさも混ざっているから目からも出ているのだろう。
毒か、と一瞬身構える。
だけれど体内を巡る魔力に不穏な混ざり物はない。外気から侵入してくるような気配もない。
これは――。
「魔力中毒じゃ。手伝ってやる、早う治せ」
すぐ背後から低く落ち着いた声が降ってきた。
反射的に玉座を見上げたがそこには誰もいない。代わりに背中にそっと手が添えられた。
触れられた瞬間、そこから流れ込んでくる闇の濃さに思わず息を呑む。
この存在は私をその気になれば一瞬で握り潰せる。そんな確信だけが妙に鮮明だった。
余計な反発心を押し殺して素直にその声の主の指示に従い、呼吸を整えながら魔力の循環を始める。
背中から入り込んできた別の魔力が私の中の魔力を、まるで手を取って導くように動かしていく。
……これは私の知っている循環じゃない。
今までやってきたのは血管や魔脈に沿った一方通行。心臓から末端へ、末端から心臓へ。
大きな輪を描く単純な流れだった。
けれど、今誘導されている魔力は身体の中心から四方八方へ一気に散り、別の流れとすれ違いながら戻ってくる。
縦に、横に、斜めに。立体的な網を張るような複雑な軌道だ。
本来なら交差ごとに魔力同士がぶつかり合って相殺され、暴発してもおかしくない。
そう思うのに実際には衝突する直前で、するりとすれ違っていく。刃物同士が紙一重で掠めるような繊細なギリギリのすれ違いだ。
走る魔力の線が、ひとつも絡まず、ほどけず、ただひたすらに巡り続ける。
導いてくれている魔力が、ゆっくりと力を抜いていくのが分かった。
あとは自分だけで同じ流れを保て、ということなのだろう。
意識を一点に絞って頭の中で何度も軌道をなぞる。
最初は何度か流れが乱れかけるが、そのたびにほんのわずかに背中の手から修正が入る。やがて、その補助もほとんど感じなくなった。
動かなければ何とか維持できる。
息を吐いたときには、いつの間にか胸を締め付けていた中毒の苦しさが消えていた。
そっと目を開く。
世界の輪郭が、さっきよりもくっきりと見える。
空気の中に漂う魔力の粒子ひとつひとつまで指先で数えられそうなほど鮮明だ。
体の内側から湧き上がる魔力の量も、今までとは比べ物にならない。数倍、もしくはそれ以上。
それなのに違和感も重さもない。最初からこうだったかのように自然に馴染んでいる。
「うむ。他の妾はお主に特に何も教えんかったようだな」
背中から手が離れ、その声の主が私の前に回り込んだ。
「……色々教えてもらった気がするけど」
素直に返すと、彼女――最後のルトリエは、ふっと鼻で笑った。
「その程度は児戯じゃ。ふむ……? なるほど、神々が干渉してきていて時間が無かった、と? 言い訳じゃな」
言葉と同時に私の身体がぐい、と軽々と持ち上げられた。
肩に担がれるわけでも引きずられるわけでもなく、荷物でも抱えるみたいに脇を抱えられる。
そのままひょいと移動させられてルトリエが指を鳴らした。
空間が波打ち、何もなかった床の上に丸いテーブルと向かい合うように置かれた二脚の椅子、そしてティーセットが、まるで最初からそこにあったかのような自然さで現れる。
椅子の上にそっと下ろされて向かいの椅子に彼女がゆったりと腰を下ろした。
改めて正面から見ると、その姿はこれまで出会ってきたルトリエたちと大きくは変わらない。しなやかな肢体、闇を凝縮したような黒髪、冷たくも静かな瞳。
だが、纏っている空気が違った。
荒々しさも無邪気さも薄く、静かな深淵のような落ち着きがある。
ティーポットから注がれていく紫色の液体の手つきは、妙に丁寧で、どこか優雅ですらあった。
本体に一番近い、と言われれば納得してしまいそうな雰囲気だ。
「ほれ。飲め」
「……ありがとう」
差し出されたカップの中には澄んだ紫色の液体が揺れている。
見た目だけなら毒にも薬にも見える色だ。
この試練場に来てからは見た目が終わっていても美味しいものや、逆に見た目通りのものやらを口にしてきた。
とはいえ、今回のはなかなかに攻めた色をしている。
それでも向かいのルトリエの視線が「飲め」と語っている以上、飲まないわけにはいかない。
覚悟を決めてカップを持ち上げて音を立てないように口をつけ、喉へと流し込んだ。
「意外と、おいしい?」
香りはほんのり甘く、舌の上では少し冷たく感じる。
不思議なことに飲んだそばから体の芯がほぐれていく。
「妾のお気に入りじゃ。人の子の感覚では見た目は良くないだろうが味は良い」
ルトリエは柔らかい声で言い、ゆっくりと自分のカップを傾けた。
その仕草はどこかぎこちないのに優雅さが見え隠れする。
事前に聞かされていた"怖い"という印象と目の前の光景がどうにも噛み合わない。
「何か聞いていた感じと違うんだね」
「……ほう? 妾の事を他の妾から聞いていたのか。いったい何と言っていた?」
問いかけと同時に胸の奥で闇が小さくざわついた気がした。
嫌な予感が一瞬よぎるが、ここで黙り込む方が余計にまずい気がする。
小さなルトリエから聞いた言葉を、そのまま口にする。
「怖い姉上、って言ってたけど……」
「ふむ、ふむ……。姉上、という事は小さい妾じゃな? そうか、そうか……」
ルトリエは小さく頷きながら、しかしどこかショックを受けたような声色で呟いた。
私の中の闇が、さっきよりも一段階騒がしくなる。三つの気配が勝手にざわざわと反応しているような感覚があった。
「妾はな、分からんのだ。力が強すぎるが故に触れたら全てを壊してしまいそうでな……」
カップをテーブルに置いて視線をそっと落としたルトリエが、ぽつりとこぼした。
その横顔には威圧や冷酷さとは違う影が差している。
「本当は優しいんだね」
気づけば、自然と口から言葉が出ていた。
強すぎる力を持ってしまったがゆえの距離感。
何かに触れることすらためらわなければならない感覚は少しだけ分かる気がした。
ルトリエは、瞳を見開き、驚いたように私を見つめた。
「そう言われたのは初めてじゃ。そうか、ふふふっ……」
次の瞬間にはふっと笑い、そのまま滑るような動きで立ち上がる。
闇がじわりと広がって私の頬を撫でていった。
視線を上げると、いつの間にかルトリエの手には一本の剣が握られている。
「立て」
「……お茶会だけで済むわけにはいかないよね」
「うむ。妾は戦いでしか分かり合うことはできぬ。お主に妾の力が相応しいか教えてくれ」
「お手柔らかに頼むよ」
椅子から立ち上がり、腰の黒い剣を抜いて正面に構える。
ティーセットもテーブルも、いつの間にか闇に飲まれたように跡形もない。広い玉座の間に、私とルトリエ、二人の気配だけが残る。
暴風のような闇が音もなく吹き荒れた。
肌が刺される感覚に全身の毛穴が総立ちになる。
強い――けれど、胸を押し潰されるような絶望は不思議となかった。
むしろ、ここまで積み重ねてきたものをすべてぶつけられる相手が目の前にいる、という事実に口角が自然と吊り上がる。
先ほど叩き込まれたばかりの四方向の循環に切り替える。
動きながらでも崩れないように集中を一点に縫い止める感覚に意識を慣らしていく。
「ほう。それでこそ妾の――じゃ」
ルトリエが何かを言ったがうまく聞き取れなかった。
彼女の足元で闇が渦を巻いた。
「――いくよ」
床を蹴る。
足裏から叩きつけた魔力が地面を滑り、弾かれるように加速した身体が真っ直ぐにルトリエへと飛び込んでいった。




