2-1
眼の前には虚無の世界が広がっていた。
何も存在しない世界は、音のない闇と冷たさだけで構成されている。
空気は静寂を切り裂くほど冷たく、肌に触れるたびに鋭い痛みを感じさせる。
目を凝らしても、光の微かな輝きすら見つけることはできず、ただ無限に続く漆黒の虚無が広がっていた。
その空間に一人佇む彼の姿は、冷たい霧の中の影のようにぼんやりと存在している。
彼の胸には重たい孤独が押し寄せ、周囲の虚無がその感覚をさらに際立たせた。
足元の地面は、存在しているのかどうかさえも曖昧だった。
ただ立ち続けることが彼の唯一の行動であり、逃げる術はなく、希望の兆しも見えない。
ただ震える心と身体を抱え、この虚無の中で佇むしかなかった。
闇の中の彼の視界には何も映らず、寒さと孤独に苛まれ、永遠に閉じ込められるかのような感覚が広がっていく。
きっと霊界――“死後の世界”はこんな感じなのだろうか。
だとすれば何も無いことを知覚する自分は何なのか。
旅立っていた恩人も、それ以外の人々もこんな世界で孤独に苦しんでいるのだろうか。
そんな末路なのだとしたら、あまりにも救われない。
冷気が体も心も凍てつかせ、彼はただその場に立ち尽くして悪夢が終わるのを待つことしかできない。
ずっとこんな夢を見ている。
終わらない地獄にただひとり佇む夢を。
絶望と諦観が更に彼の心を蝕み、崩れ落ちそうになったところで、
「――」
しかしその日は少し違った。
ふと、顔を上げると彼の前に光があった。
それにゆっくりと歩み寄ると、その光はあたたかく、彼の心と体に熱を与える。
その光をよく見るとそれは少女の後ろ姿で、ゆっくりと彼女は振り返り、こちらに微笑みかける。
そして――
※
神群神社の2階建ての社務所兼住居の一室。
アラームで目を覚ますとホログラムウィンドウの時計は6時を示していた。
まだ少しだけ肌寒さがあったが、レンは気合を入れて布団から身を起こし、寝巻からいつもの私服に着替える。
繊維に練りこまれたナノマシンの機能により、下着などを除けば衣服は自動でクリーニングされ、常に新品同様の清潔さを維持してくれるので何着も服を持たなくて済むのは改めて便利だと思う。そしてナノマシンは同時に温度や湿度の調節機能も備えているので夏は冷房が効いてる部屋のように涼しく、冬は暖房が効いているかのように暖かいという利点はある。
レンはイノリに宛がわれた自室を出て、寝起きの重い気分を振り払うように頭を軽く振りながら、一段ずつ慎重に降りていく。階段の手すりに手を添え、柔らかな朝の光が窓から差し込んでいるのを感じる。微かな木の香りと、下の階から漂ってくる味噌汁のほのかな香りが彼の鼻をくすぐった。
階段を下り切り、リビングを抜けて台所の方へ歩いていくと、そこには可愛らしい尻尾と銀髪に狐耳の後ろ姿があった。
イノリはエプロンを身につけ、真剣な顔でコンロに向かっている。湯気が立つ鍋の中には味噌汁がゆっくりと煮えており、その下のグリルには鮭が焼き上がる香ばしい匂いが広がっている。彼女は定期的に鮭の焼き具合を確認しつつ、手際よくお玉で味噌汁を掻き混ぜていた。
その姿を見たレンの心に、穏やかな安心感が広がる。少女の背中からはどこか懐かしい温かさが感じられ、台所全体が陽光の中に輝くようだった。彼女の動きは無駄がなく、一つ一つの所作が丁寧だった。
レンは足音を立てないように近づきながら、柔らかな声で「おはよう」と挨拶をすると、イノリは振り返り、プリズムを内包する金色の瞳が微笑みとともに輝きながら彼を見つめた。
「おはようレン。もう少しでごはん出来るから、待っててね」
彼女はお玉を片手に軽く手を振り、レンに朝の気配を届ける。彼はイノリの気遣いと台所を包む温かな雰囲気に、寝起きのぼんやりした感覚が次第に消えていくのを感じた。そして、今日の始まりが彼女の作る朝食とともに穏やかで満ち足りたものになることを確信する。
「そういえば、なんだか魘されてたみたいだけど大丈夫?」
味噌汁の鍋をかき混ぜているイノリの笑顔が少しだけ曇っているのにレンは気づいた。
「ごめん、俺のせいで眠れなかった?」
「私は大丈夫だよ。良かったら快眠の効果がある霊譜とか使う?」
「ありがとう、助かるよ」
本当にたくさんの気遣いをしてくれる優しい子だよなと思う。
こちらが申し訳なくなってしまうほどだ。
「あの……もし良かったら、どんな夢を見たのか聞いてもいい?」
「あー……その」
レンは正直に話すべきか一瞬だけ逡巡し、
「何も無い真っ暗な世界を彷徨ってる夢なんだ。そこには俺以外誰も存在しなくて、俺はいつかそこから抜け出せなくなるんじゃないかっていつも思ってたんだけど……でも今日は、何故かイノリが俺の前に現れてくれてさ。差し伸べてくれた手を握ったら目を覚ますことができたんだよ」
なんだかだんだんとレンは恥ずかしくなってきた。
「……それなら良かったよ!」
イノリも頬をほんのり赤くし、はにかんだ。
「でもなんで真っ暗な世界を彷徨う夢を……?」
「多分それは俺が記憶喪失だからかもしれない」
「記憶喪失……?」
イノリの味噌汁の鍋を混ぜる手が止まった。
レンはこくりと頷く。
「4年前から以前の記憶が無いんだ。具体的にはこの町をひとりで彷徨っていたところをおやっさんに拾われて、別の町で一緒に生活して今に至ってる。本来なら体内のナノチップで戸籍情報とか分かるはずなんだけど記録されてたのは名前と年齢くらい。それ以外は何も」
「……そっか」
イノリは再び味噌汁の鍋をお玉でかき混ぜ始める。
「じゃあさ、一緒に街に出かけてみない? 何か手掛かりを探しに」
「え?」
レンはぽかんと口を開ける。
もしかしてこれはデートなのでは? という考えが頭を過った。