第一話
広がる曇天が、もう何日続いているのか。
晴れ間が訪れれば、皆、心の底から歓喜の声をあげるほどには、世界は白雲に覆われて、どんよりとしていた。
全ては世界の大破壊から始まったのだ。
ことこの世界において、夕凪村は平和と呼べる場所だった。流れる小川は澄み、風はそよぎ、村民が十分に暮らしていけるだけの、新鮮な食糧がある。よその町や都にある殺伐とした空気もなく、大人も、子供も、柔らかな表情を持つ村だ。
「号外ー!!」
夏を切り裂く報せが飛び込んだのは、太陽が高く昇る、真昼の出来事だった。
村の中央通りに、号外が舞う。足元に落ちたそれを拾ったのは、幸崎翔。勉学のために単身この村へ越してきて二年になる、十七歳の少年である。
号外に目を通そうとすると、大きく『戒者死亡』の四文字が飛び込んできた。カケルは、その時点で号外を読むことをやめ、適当に放って家路を急ごうとした。
「おい、捨てちまうこたねぇだろ」
通りの沿道に、資材の丸太が数本、積み重なっていた。カケルを呼び止めた人物は、丸太に腰かけ、号外を手に笑みを浮かべていた。
「戒者の記事ってだけでそれかい? 相変わらずだねぇ」
「呼嶋さん……」
呼嶋礁平。カケルがこの村に来たばかりの頃から、何かと良くしてくれている、齢五十を超えるも筋骨隆々な健康体の男だ。この時代において海へと出ることは自殺行為だが、かつては別の村で漁師をしていたという。海を越える夢を抱き、各地を巡った後に、いつしか夕凪村に居着いてしまった。今でも、遠い海の話を、カケルは聞かされていた。
「そんなに嫌いかい。戒者が」
「嫌いとか、そういう訳じゃないですよ。僕らを守ってくれて、感謝もしてます。でも、普通の人も戒者も、いつ死ぬかわからない世の中です。今更一人戒者が死んだからって号外だなんて……」
「なんでぇ。お前、本当に何も読んでないんだな」
礁平は持っていた号外を、カケルの方へ突きつけてきた。近づいて受け取れば、そこには戒者死亡の見出しの後に、夕凪村駐在の、と続いていた。
「夕凪村、駐在?」
「そうだ。この村を守ってくれていた戒者の一人が殺されたってわけだ」
各地の村や町には、最低でも一人の戒者が駐在し、人々を守っている。その戒者が一人。それも夕凪村に属する者が、村の付近で殺された。そのことは、明確な恐怖と脅威の訪れを示している。
「ヨミダマリの少ないこの地域で、戒者が殺された。村の大人たちは混乱している。すぐに里から別の戒者が来るっていう話だ。新しい在中の戒者と、今回の件の説明がされるそうだ」
村の戒者。名前を九村というが、カケルも夕凪村へと越してくる際、馬車が村の近辺まで到着してから村までの道中、護衛をしてくれた戒者だ。長く村にいた影響か、元からなのか、相好は柔らかく、落ち着いた雰囲気の壮年の男だった。着物の袖から覗く傷だらけの腕だけが、戦いの跡として静かに刻まれていた。そんな安藤が、亡くなった。
「集会もあるらしいが。まぁ、お前は興味ないか、戒者には」
「興味がないとか、そういうのじゃないんですよ」
人々を守ってくれる存在への感謝の思いは当然ある。今回殺されたのも、見知った顔の人物だ。憤りだってあった。恐怖も、これからも戒者を頼りにしなければいけないという気持ちも。
それでも、カケルが深く戒者と関わろうとしないことには理由があった。
大人の腰にも満たない背丈のカケルの目には、台所仕事に勤しむ母の姿が常にあった。カケルには父がいなかった。だからか、母はせっかちな人ではなかったが、動いていた方が落ち着くようで、休んでいる時も、針仕事などをして手を止めることをしない人だった。
この時代において、戒者とは英雄である。特異な力を持ち、怨念の塊であり、人々を襲う存在であるヨミダマリと戦い、それを退治する。伝承も、芝居も、絵巻も、皆戒者を英雄視して讃えた。子供たちは当たり前のように戒者に憧れるようになり、そして目指すようになった。それは、カケルとて同じだった。
だが、その旨を母に話した時の母の顔を、カケルは今でもはっきりと覚えている。
洗い物を、手から落としそうになった、母の顔を。
「やめておきなさい、翔」
その手元で冷たく流れる水よりも、低く、静かな声で母は言った。
「戒者になるのは、やめておきなさい」
今にしてみれば、命を落とすかもしれない仕事を目指すことへの、親としての不安のようなものもあったのだろうとカケルにも思えた。それでも、役職としては好待遇であり、また名声へと繋がる戒者への道を、否定する親も少なかった。
そこには、並々ならぬ事情があったようにも、思えてならないのだった。
「戒者じゃなくても、誰かの役に立つことはできる。誰かを幸せにすることはできる。あれはね、あなたがやる必要のないことなのよ」
カケルの目を真っ直ぐに見て言った母の表情は、血の気が引いているようだった。しゃがんで、視線をカケルに合わせ、優しく微笑んだあともなお青白い母の顔。そんな母を見て、言葉を継げなくなったカケルを、静かに撫でて、そのまま抱き締めた。
「あなたは静かに生きていればいいの。こんな世の中は、いつかきっと終わるんだから」
後頭部を撫でる母の手は、洗い物の後だからか冷たかった。これ以上、母を悲しませてはいけない。子供ながらに、カケルはそう思った。
こうして、齢五、六歳にして、カケルは戒者への憧れを捨てたのである。




