第9話:父親の暴走
母親が家を出て数日が経った。リビングには、父親がつけっぱなしにしているテレビの音と、酒瓶がテーブルにぶつかる音だけが響いている。朝から酒を手にしている父親の姿に、アオイはもはや何も感じなくなっていた。
「研究所の連中も、もっと金を出すべきだよなぁ…」
独り言のように呟く父親の目は画面に釘付けだ。スマートフォンには研究所の関係者とのメッセージが並んでいる。その内容を一瞥したアオイは、父親がさらに協力金を引き上げようとしていることに気づく。
乱雑なテーブルには、母親がいなくなってから積み重なった空の弁当容器や未開封の郵便物が散らかっていた。台所では、水切りラックに乾ききったままの洗い物が放置されている。かつて整然としていた家庭は、わずか数日で荒れ果てていた。
アオイはため息をつき、静かにタブレットを手に取り、自室に戻る。研究所から貸与されたタブレットは、アオイが手を加えて以来、父親や研究所の動向を監視するための重要なツールとなっていた。
「またお金の話か…」
ため息をつきながらアオイは研究所のデータベースにアクセスする。父親が要求した金額や、それに対する研究所側の対応が記録されていた。研究所はアオイを「研究の要」と見なし、父親の無理な要求にもある程度応じる姿勢を見せている。だが、父親の要求内容には「専属契約」という言葉が含まれていた。まるで、アオイを研究所の所有物として提供するかのような提案だ。
アオイは拳をぎゅっと握りしめた。
「これ以上、勝手にはさせない。」
その場で研究所の所長宛にメッセージを送る。内容は簡潔だ。**「父にこれ以上の権限を与えないでほしい」**と。
夕方、リビングでは父親が電話口で激昂している声が響いていた。
「なんでだよ!こっちは子供を差し出してるんだぞ!」
電話を切り、乱暴にソファに腰を下ろした父親が、アオイを睨みつける。
「お前、何か言ったのか?」
鋭い視線を向けられても、アオイは動じない。
「ただ、あなたの行動が目に余ると伝えただけです。」
冷静な返答に、父親は一瞬言葉を失う。そして次の瞬間、手に持っていた空の酒瓶を床に叩きつけた。
「お前は俺の娘だろう!俺の言うことを聞け!」
「いいえ、私は私です。」
静かな声で言い放ったアオイに、父親は怒りをぶつけることすらできず、再びソファに沈み込んだ。
その夜、アオイはベッドの上で天井を見つめながら考えていた。
「普通を望んだはずなのに、これが普通なの?」
かつては母親が日常の支えとなっていたが、彼女が去ってしまった今、家庭の荒廃は止められない。幼稚園で「普通の子供」を演じる自分と、家庭をどうにか守ろうとする自分。その間に生じる大きなギャップが、胸に重くのしかかる。
「もし私がもっと普通じゃなくてもいいと思えたら、この状況を変えられるのだろうか…」
考えれば考えるほど、アオイの胸に浮かぶのは母親の最後の言葉だ。
「これが普通だって?自分の力で何でもできるあなたに、両親の庇護が必要だとでも思ってるの?」
母親にとって、アオイは普通を壊す存在だった。だが、それは本当にアオイのせいなのだろうか。
夜遅く、アオイの部屋に父親が顔を出す。
「…研究所から、今月の振り込み額が増えるそうだ。」
酒気を帯びた声で告げる父親の顔は、疲れ果てて感情を失ったように見えた。
「そうですか。」
短く答えるアオイの表情には、何の期待も残されていなかった。
父親はしばらくアオイの様子を見つめていたが、何も言わずに部屋を去った。その背中に漂う無力感が、かつて父親が家族のために奮闘していた時期を思い出させた。
部屋のドアが閉まり、再び静寂が訪れる。アオイは心の中で次の一手を考え始める。
「このままではいけない。この状況を終わらせるには、もっと決定的な行動が必要だ。」
自分の力が「普通」を遠ざけているのなら、その力をどう使うべきなのか。アオイの中で新たな決意が生まれつつあった。