第9話:風に溶ける記憶
その日、森の奥でふたりが採取していた薬草の根元に、不自然なほど澄んだ空気の“滞り”があった。エルミアはその場に膝をつくと、目を閉じ、風の流れに耳を澄ませた。
「・・・ここにいる。強い未練が」
彼女の指先から、淡い光が波紋のように広がる。空気が震え、土が微かに脈打つように震えると、地面から浮かび上がるようにして、ひとつの幻獣が姿を現した。
それは透き通るような鱗に包まれた細身の龍。背には藤の花のような薄紫の羽が咲き、尾は煙のように揺れていた。まるで、かつて誰かが夢に描いた優しさの具現だった。
「帰光の幻印」
エルミアの声に応じて、幻獣はゆっくりと近づき、彼女の手に頬を寄せた。次の瞬間、彼女の視界が色を失い、想いの奔流が押し寄せる。
——名もなき村の片隅。石畳さえ敷かれぬ土の道、歪んだ木柵に囲まれた粗末な小屋が点在するその場所で、一人の少女は日々、黙々と働き続けていた。
彼女の小さな手は、薪割りでささくれ立ち、冷たい井戸水で皸が走っていた。それでも、文句一つ漏らさずに朝から晩まで家のために働き続けていた。
粗末な衣服の袖口はほつれ、裸足の足裏は硬くなり、地面の冷たささえもう感じなくなっていた。
だが、そんな日々の中でも、心の奥底にそっとしまい込んだ小さな光があった。それは、ある春の日の記憶。
村に旅芸人の一座が訪れた年、広場に響いた笛の音があった。まだ肌寒い春先、陽だまりの中で一人の青年が笛を吹いていた。
年も離れ、名も知らぬその青年の奏でる音色は、まるで春を告げる風のように軽やかで、どこまでも優しかった。その旋律は、貧しさも、疲れも、寒ささえも忘れさせる不思議な力を持っていた。
彼女は、その音にただ立ち尽くしていた。声をかける勇気はなく、遠くからそっと見つめるだけ。それでも、数度だけ、言葉を交わす機会があった。それは市場で、広場で、そして別れの朝。
旅立つ青年は、馬車に乗り込む間際、ほんの一瞬だけ振り返り、静かに微笑んだ。彼女はそのとき、胸の奥に何か温かなものが広がるのを感じた。それは憧れであり、淡い恋心でもあったのだろう。
その日から、彼女は夜ごと、古びた布切れに石炭のかすれた線で文字の練習を始めた。粗末な明かりの下、震える指で「ありがとう」「会いたい」「忘れない」——そう書いては消し、また書き直す。
指先は真っ黒になり、泣きたくなるほど文字はうまく書けなかった。それでも諦めず、ただ一つの願いのために手紙を書き上げようと努力し続けた。
そしてついに、一通の手紙を書き上げた。短い、たった一行だけの、拙い手紙。それを届けるために、いつか村を出る日を夢見ていた。
だが、春が盛りを迎える頃、彼女は病に倒れた。身体は痩せ細り、熱にうなされながらも、彼女は最後までその手紙を手放さなかった。
小さな手は冷たくなり、その指には、くしゃくしゃになった手紙と、摘み取ったばかりの野花が固く握られていた。
その手紙には、震えるような筆跡で、こう綴られていた。
『また、あなたの音が、聴きたいです』
「・・・そうだったんだね」
エルミアの涙が、そっと幻獣の背に落ちる。
「もう、がんばらなくていいんだよ。あなたの気持ちは・・・ちゃんと伝わってるよ」
幻獣は、小さく鳴いた。風が揺れる。羽ばたくたびに藤色の花びらが舞い、透明な光の輪が広がっていく。そして、静かに空へ溶けていった。
残されたエルミアは、激しく泣き続けていた。
ユリウスは、少し離れた場所で、ただその光景を見つめていた。