第29話 恋のベットは慎重です
そして、ついに迎えた文化祭当日──
一日目。
校舎は朝から、いつもとはまるで違う顔をしていた。
色とりどりの装飾。廊下を満たすざわめき。
焼きそばの匂いと甘いクレープの香りが混じり合い、人の熱と期待が、空気そのものを膨らませている。
陽向は午前、生徒会ブースでの仕事を終え、その足でクラスの昼シフトへと合流した。
陽向のクラスの催しは、焼き菓子カフェ。
慌ただしく、でもどこか浮き足立った時間。
名札をつけ、声を出し、笑顔を貼り付ける。
──文化祭だ。
そう実感するたび、胸の奥がそわそわと落ち着かなかった。
昼シフトが終わり、午後シフトへの交代時間。
「陽向ー!行こー!」
咲の声が、騒がしい教室を縫うように届く。
駆け寄ってきたその顔は、すでに遊ぶ気満々だった。
「行こー!」
陽向が笑顔で応じる、その一瞬。
少し離れた場所で、綾真はその横顔を見つめていた。
一緒に過ごした昼シフトの間、何度も交わした何気ない会話。
軽口。笑い声。
その全部が、思っていた以上に心地よくて。
——この時間が、もう終わる。
そんな感覚が、胸に引っかかる。
「おい。いつまでポーッとしてんだよ、綾真!」
友達の声に、はっと我に返る。
「ほら行くぞー!置いてくぞー!」
「あ、あぁ……」
返事をしながらも、視線は自然と陽向を追ってしまう。
咲に引っ張られ、人混みに消えていく後ろ姿。
後ろ髪を引かれる、という表現はきっと、こういう感情のためにあるのだと思った。
────────。
午後。
文化祭は、いよいよ熱を増していた。
校内は人で溢れ、どこを見ても誰かが笑っている。
楽しげな声が反響し、時間の流れさえ早く感じる。
(……くっそ…!)
綾真は、人混みの中で何度目かの舌打ちをした。
(星野のやつ、全然どこにもいねーじゃねーか!)
視線を遠くまで走らせ、廊下の端から端まで探す。
けれど、見つからない。
焦りが、じわじわと胸を占領していく。
「お前もう諦めろってー」
「こんな沢山人いる中で、こんだけ広い学校で、この短時間で星野なんか見つけられるわけねーだろ」
友達の軽い声が、逆に胸を刺す。
「……別に、探してねーし!」
即座に言い返した、その瞬間だった。
「あーー!!綾真いたーー!!」
やけに通る声が、雑踏を切り裂いた。
反射的に振り返る。
噂をすれば影、とはまさにこの事。
そこにいたのは──
黒川朔也、津堅蒼太、一ノ瀬咲。
そして。
星野陽向。
(……見つけた…!)
心臓が、跳ね上がる。
見つけた瞬間、世界がそこに収束した。
次の瞬間。
ガシッ。
「綾真ー!!カジノ行くぞー!!」
陽向の手が、迷いなく腕を掴んだ。
「え!?あぁ!?」
一瞬で、思考が追いつかなくなる。
「えー陽向また行くの?」
「お前ほんと懲りないなー」
咲と蒼太の声が飛ぶ。
「だってめっちゃ楽しかったんだもん!もう一回行きたいって言ってんのに、ずっと朔也が反対するじゃん!!」
「こんだけ模擬店も催しもあんのに、バカみてーにカジノずっと居座るやつがどこにいんだよ!」
ぎゃあぎゃあと始まる、いつもの応酬。
綾真は、完全に蚊帳の外だった。
状況が理解できないまま、ただ腕を掴まれている。
「ねね!みんなもうカジノ行っちゃった!?」
陽向が綾真の連れの男子軍へ、ぱっと振り向いて言った。
「「「行ってない行ってない」」」
「良かった!綾真借りていい!?ウチら一緒にカジノ行こうって前から約束してたからさ!お願い!」
「「「どーぞどーぞ」」」
男子軍は、満面の笑顔で即答した。
「じゃ!咲、カジノ終わったら連絡するから!また後で合流しよ!」
「おけー!行ってら♡」
「っしゃー!行くぞー!綾真ー!」
そのまま、グイグイと腕を引っ張られる。
星野を攫う——
そう決めて、覚悟を決めて挑んだ一日目の午後。
完全に、逆に。
陽向に拉致られる綾真だった。
(……な、なんだ……こいつ……)
人混みを進みながら、綾真は呆然とする。
だから……
毎度毎度……
俺の……
勇気と決意を返せ!!
胸の奥で叫びながらも、掴まれた腕を振りほどくことは、結局できなかった。
実質、二人で腕を組んで歩いてるようなこの状況に、綾真の心拍数は上がりっぱなしだった。
────────。
二年四組の催し物、カジノへと訪れた綾真と陽向。
ひと通りのゲームで夢中で遊ぶ。
ブースの奥、簡易的に設置されたルーレット台の周りは、人だかりでごった返していた。
色とりどりのチップ。
軽快なBGM。
そして、二年生のクラス担当が、少し得意げな顔でディーラー役に立っている。
「今度こそ勝つわ。」
「へぇー、言うね。」
意気込む綾真の言葉を陽向が挑発する。
「負けたらどうする?」
「…………っ」
その言葉に綾真の心臓がドクンッと音を立てた。
「……負けた方が、お互いの言う事をひとつ聞く。」
「ふーん……面白いじゃん。なんでも?」
その質問に、綾真の喉がゴクリと鳴った。
もし勝てたら……ひとつだけ、星野は俺の言う事をなんでも聞くんだ。
「そう。なんでもだ。」
「上等。」
陽向は口元を釣り上げた。
「次のゲームいきまーす!ベットどうぞー!」
ディーラー役の二年生の声に、綾真はチップを指先で弾いた。
(絶対に…勝つ!!)
陽向は綾真の意気込む様子に笑いながらも、ルーレット盤に視線を落とす。
赤と黒、交互に並ぶ数字。
転がる運命みたいな小さな白い球。
綾真は少しだけ考えてから、黒のエリアに数箇所チップを置いた。
無難で、確率の高い選択。
負けたくない精神が滲み出ている。
「……ふーん…そう行くんだぁ?」
陽向が、それを嘲笑うかのような声で呟いた。
「どうしよっかなぁー…」
そして陽向は──盤面の端。
「赤の…14。」
数字の一点に、全チップを置いた。
「全ベット♡」
「はぁっっ!!??」
綾真は思わず声が裏返った。
「お前、真面目にやれよ!」
「えー真面目だよ!だって綾真がそんな置き方するから、一発逆転狙わないと難しいじゃん!色々確率とか計算して考えて置くのめんどくさい!」
こいつは…もしかして俺にわざと負けたいのか?
そんなよこしまな期待が綾真の胸に膨らんでしまう。
「ベット、締め切りまーす!」
ディーラーの声と同時に、空気が一段、張り詰める。
カラカラカラ──
ルーレットが回り始める。
白い球が、縁に沿って軽やかに跳ねる。
陽向は、両手を祈るように顔の前で組んでいた。
唇をきゅっと結び、盤面を見つめる。
その横顔を、綾真は盗み見る。
真剣で。
緊張していて。
本気でそのありえない一箇所に入る事を、純粋に期待している目。
やっぱ…こういうとこなんだよな……
自分がドキドキしている事を自覚する。
勝ちは確定している。
星野にどんなお願いを聞いてもらおうか。
考えれば考えるほど鼓動が高鳴る。
そりゃ高校生だし。
男子だし。
色んな……想像しちゃうんだよな……。
カァァァッと一気に顔から火を噴き出した。
綾真は自分で考えて自爆した。
カラカラカラ──
球の速度が、少しずつ落ちていく。
カタン、カタン。
音が、一つ一つ、心臓に重なる。
球が跳ねる。
赤。
黒。
赤。
カラン。
「え…っ嘘…!」
陽向の言葉が落ちた直後に、ディーラー役の興奮気味の声が響き渡った。
「──赤!ナンバー、14!」
カランカランカランカラン──!
激しく揺られるベルの音が、部屋中に鳴り響く。
ワッ──
と、思わずギャラリーからも驚きの声と拍手が上がる、
「はあぁぁぁ〜〜〜〜っっっ!!???」
「やったーーーー!!!!」
綾真の悲鳴と陽向の喜びの声が重なった。
「おめでとうございます!赤の勝ち!」
チップが回収され、陽向の前に積まれる。
綾真は、ガッカリ…と肩をすくめて苦笑した。
「……お前…嘘だろ?」
「欲張るからだよ」
そう言って笑う陽向は、いつもより少しだけ大人びて見えた。
「で?」
綾真が、少し間を置いて聞く。
「俺は、何をすればいい?」
腕を組み、半ば観念したように陽向を見る。
「えーじゃあ…どうしよっかなぁ〜」
両肘をテーブルにつき、顎の下で手を組む。
そして、ゆっくりと顔を上げて、綾真を見上げた。
その表情は、あまりにも無邪気で、あまりにも無防備で、そして——
どこか、小悪魔めいていた。
(…ぐ…っ……)
綾真の喉が、無意識に鳴る。
視線を逸らせない。
「…な…なんだよ…」
上目遣い。
唇の端に浮かぶ、いたずらっぽい笑み。
ニタニタ、と。
心臓が、さっきよりもうるさく主張を始めていた。
「なんでもって…言ったよねぇ〜?」
その一言が、胸の奥に、じわりと熱を落とす。
あー……
そんな顔で……
そんな距離で……
そんなこと言われたら——
(……なんでも……従わせてみてほしい…かも……)
一瞬、世界が甘く滲んだ。
綾真の瞳が、うっかり熱を帯びる。
息が浅くなり、思考が一段遅れる。
その瞬間だった。
「おいっ!!」
怒号が、空気を叩き割った。
「いつまで遊んでやがんだよ!!いい加減にしろよてめー!!」
二年四組のクラスに、はっきりとした“現実”が降ってくる。
「あ、朔也!」
陽向がぱっと顔を上げる。
「時計見てねーのかよ!文化祭終わんぞ!お前が行きたがってた脱出ゲーム、行かなくていーんだな?」
……く……黒川……朔也……!!
綾真の胸に、至福を寸断された怒りが一気に込み上げた。
今。
今じゃなかっただろ。
せっかく。
せっかく……!!
「陽向、キリ良かったらもう行かない?」
咲の声が、少し申し訳なさそうに重なる。
「キリ良いよ!丁度終わったところ!」
陽向は、あっさりと言って立ち上がった。
「なかなか連絡しなくてごめんね、咲」
蒼太が、テーブルの上を覗き込む。
「すげー……陽向の前、チップの山じゃん。一人勝ち?」
「うん!凄いっしょ!」
得意げな笑顔。
その横で、朔也は容赦なく——
「ほら、グズグズしてねーで、さっさと動け!」
陽向の首根っこを、がしっと掴んだ。
「ちょっ——!」
抗議の声も虚しく、そのまま引きずられていく。
「あー!綾真〜!」
連れ去られながら、陽向は振り返って叫んだ。
「今度フラッペ奢って〜!」
それだけ言い残して。
陽向は、朔也に回収されるように人混みの中へ消えていった。
残された綾真は、その背中を呆然と見送る。
熱を持っていた空気が、急に冷える。
綾真は、仕方なく元いたメンバーへ電話を掛けた。
「どこいんのー?」
《3年のゾンビハウス並んでるけど、お前星野は?》
「あー、いつメンに回収された」
《なにやってんだよー!回収されてる場合じゃねーだろ!》
耳に刺さる軽いノリ。
文化祭らしい、馬鹿騒ぎのテンション。
「…うるせぇな」
《戦えよ!星野は俺のもんだー!お前らには渡さねぇー!(ギャハハハ!)》
ブツッ──
周囲の友達の笑い声が、電話越しに重なって響く。
綾真は、何も言わずに通話を切った。
「はぁ〜…ゾンビハウス行くかー」
誰に向けるでもなく呟いて、立ち上がる。
ぐっと背伸びをして、身体に溜まった違和感を誤魔化すように。
歩き出しながら、胸の奥で言葉が反芻する。
(…戦え…か……)
拳を握りしめながら、綾真は文化祭という名の戦場を改めて思い知る。
これはもう、楽しいイベントなんかじゃない。
完全に——
恋の修羅場だ。




