中国古代の王朝~「周王朝」と「礼儀」 「儒学と孔子」~
さて、「周」と「礼」をかいて「儒学」を取り上げないのは片手落ちだろうか。そもそも「儒学」と「儒教」は似て非なるものだと思われる。ただし「儒教」は中国の人口を考えると、世界で「三大宗教」と呼んでいる物に「儒教」を加えた「四大宗教」と呼んでも過言でないほど、アジアでは影響力が強い。
「魯」の国に「孔子」が誕生した事は、偶然とよぶには余りに運命的である。周公旦より始まったとされる「礼」を、学問まで高め世に送り出したのは間違いなく孔子の功績であろう。孔子という人はカリスマ性が高い人であったろうから、どんな分野でも一定の業績を納めたであろうが「儒学」により、名前は不朽のものとなった。ただし、孔子自身の人生は不遇である。「人や支配者のあるべき姿を求める」とする学問は、その高邁な理想のみでは時代に受け入れられなかった。孔子の姿勢の正しさは、弟子の多さと、その学問の後世への波及具合からも分かるが、先駆者はいつも理解されにくいものであるようだ。
孔子は晩年、その時代に「悪」とされた事を成し遂げた男のいる「魯」の国へ招致されると、そこへ仕官しようとする。弟子達が必死で止めるなか、孔子は「涅するとも緇まず(白いものは黒いものの中にいても黒くならない)」という名言を吐いてまで、自説の正しさを証明する場を欲した。孔子は理想主義者ではあったが、「儒教」という物の「教祖」や「宗教者」ではなく、自説を世間に認めてほしいという「学者」であるよい証左であろう。
後世に「儒学」は紆余曲折の末「儒教」となり、堕落する事もしばしばであった。この有り様を見たときに、孔子は泉下で何を思ったであろうか。




