中国古代の王朝~「周王朝」の「寿命」~
周王朝は800年近く続いたと書いたが、史書に明確に王が殺害された記録があるように、一度王朝としては断絶している。最初の250年くらいを「前周」もしくは「西周」と呼び、後の時代を「後周」もしくは「東周」と呼ぶ。西と東の訳は、前周は首都が「鎬京」、後の「長安」であったのに対して、後周は「洛陽」になったためである。三國志ファンならばよく知るこの両都市は、漢帝国も首都にするほど、この頃から要衝だったのだ。
しかし、歴史の授業なら大切かもしれないが、歴史の流れとしては、あまり前と後を分ける事に意味はない気がする。なぜなら前周の最後の王「幽王」がどれ程愚鈍であっても、それより前に周王朝は衰退していたからだ。おそらく、幽王が殺されなくても、春秋戦国時代は到来したと思うのだ。
衰退した一つの原因に四代目の昭王が楚討伐に失敗したこともあげられる。まだ大国でなく、おそらく小国の規模でしかない「楚」討伐に失敗し、なおかつ王が戦死させられたことは、王室の権威を大きく損なったに違いない。それからの王が軍事行動を控えた事からも、かなりのショックだったと思われる。この時代に支配者が軍事行動をしないという事は、部下たる諸侯に対して優位性がとれなくなるという事を意味する。立場による義務を放棄した支配者は、どんどん舐められていく。これから周王室は、少しずつ衰退していく事となる。
因みにこの章は、前周を中心に書いていきたい。後周の春秋戦国時代はあまりに面白いので、ここでは書き尽くせないからだ。




