中国古代の王朝~「周王朝」と「都市」~
現在のヨーロッパの都市は、古代ローマの植民都市からの物がいくつもあるが、現在の中国の都市もそのように昔から続くものが多数ある。それらの都市の中には周王朝時代から続くものも当然多い。
しかし、ローマと中国では都市の成り立ちが違う。ローマはこれと決めた地を見つけると、兵が工作兵となり、まず塞を作るところからはじめる。暫定的な使用ではなく、なるべく永く使うことを目的としているのだ。
中国では部族毎に暮らしが違う。その部族たちが周王朝では諸侯となった。そのため諸侯が多いことは以前にも書いているが、諸侯が多い分、諸侯の数だけ邑や街が作られていった事だろう。古代の開発の主力は人である。異民族の襲撃、氾濫、小競り合いに負けたり、旱や飛蝗による飢饉があれば人が減り邑や街の消滅もあっただろう。反対に異民族を撃退して奴隷を増やしたり、小競り合いに勝ったり、経営が上手くいけば人口がふえ、領地も増えていったであろう。
そうして、小さい邑のうちは土塁や木柵であったものが、大きな街になるうちに周りに壁をめぐらせ、城郭都市と成っていく。今なお残っているのは、こういった大きな城郭都市の後なのだ。
周王朝の末期、いわゆる「戦国七雄」の首都のうち、現在も残っているものは、趙の邯鄲、魏の大梁、秦の咸陽、燕の薊だといわれている。そのうち現在の中国の首都「北京」は、「薊」であるという。商王朝時代は北の果てと思われていた薊が今のような大国の首都になるとは、燕の王たちも想像の外に違いない。




