中国古代の王朝~「商のおわり」と紂王 その二~
さて二人は処刑されたが、姫昌はどうであったか。史記には「二人の処刑の方法を知った姫昌は、その惨さに溜め息をもらした。其れを聞いていた紂王の佞臣が紂王のやり方を謗っていると讒言した。それを聞いた紂王は怒り姫昌を投獄した。」とある。しかし、この話には少し無理がある。前話にかいたが、「醢」と「臘」は残酷ではあってもこの刑罰は皆無ではない。謀反は支配者にとって最悪の罪である以上、時代によっては「九族鏖」という事もあったほどである。罪の深さを聞いてその処刑方法にため息をもらすとは、とても思えないのである。では人はどういう時に溜め息を洩らすのか。これは「自分は巻き込れずにすんだ」という「安堵」の溜め息か、「やはりそうなったか」の「嘆息」の溜め息かのどちらかではないだろうか。「安堵」でも「嘆息」でも反乱を知っていて起こる現象だろう。九公も顎侯も「西伯」たる姫昌に何の相談もしていないとは思えない。篤実にして野心の少ない人であった姫昌は、商王朝の基盤が揺らいでいない事もあり、話をはっきり断ったかどうかは分からないが、反乱に参加する承諾はしなかったはずだ。謀反に関しては姫昌は無実であっただろう。
しかし、紂王の側近達はどうであろうか。まず外様の三人のうち二人が裏切ったなら、もう一人を疑うのは当然だ。また、三人が信頼を得ている状態から一人に集中すると、権力やら実利やらで側近達に色々まずい事が生ずる。紂王になるだけ疑ってもらった方が都合がよいのだ。更にこれを機に、辺境の実力者を排除しておけば、中央の安寧に繋がると短絡的に考える近視眼な勢力もいたであろう。様々な思惑が交差して、姫昌は捕らえられる事となったと思われる。しかし、紂王は臣下の讒言が嫌いである。ある程度の証拠は揃ったであろうが、処刑に至るまでの証拠はなかったに違いない。そこで、投獄することで「神」の審判を仰ごうとしたのではないか。その時の紂王には、姫昌が「謀反人」に見えていたかもしれない。無実を信じていれば、もう少し軽い罪になっていただろうから。
ここが紂王が悪名を返上できるチャンスだった。明確な証拠もなかったのだし、姫昌がある程度牢にいたことで神の審判もクリアしたはずだ。神の審判をクリアしたことを讃え、公明正大に釈放すれば、姫昌も怨みを抱かなかったかもしれない。しかし、紂王はそれが出来なかった。それが、商王朝と紂王の弱点だった。商王朝の王は巫人の頂点で神の代人である以上、誤謬を侵すことがゆるされない。更に自尊心が高い紂王には間違いを認める事が難しい。ここで賢相とよばれる紂王が頼りにしている人がいれば話が変わっていたと思われる。紂王の自尊心を傷つけないような案を提示してくれるか、汚れ役になってでも姫昌を牢から出したであろう。残念ながら、王の家臣達は忠誠心は高くても、諫言を呈するような争臣はいなかった。というより紂王は選ばなかった。家臣団は紂王の命運より自分の保身を選んだわけで、後世佞臣と呼ばれても仕方ない事かもしれない。紂王の罪があるとしたら、罪を認めない姫昌に意固地になり、子たる伯邑考を煮殺し、その汁を姫昌に飲ませるという暴挙だろう。これは明らかにやりすぎだと思う。この行為はもはや、駄々をこねたこどものようである。このような暴挙すら止められなかったことを考えると、やはり補佐役を持たなかった事が紂王の罪になるのだろうか。
これから姫昌は数年してから、牢から釈放される事となる。結局、紂王は自分を追い詰める存在を、自分で作り出したことになる。古代中国に限ったわけではないが、古代中国で最も強い情念は「怨恨」である。冤罪を得て怨恨を持った姫昌は、これより復讐の鬼となる。
長い間続いた組織が壊れるときは、最後の責任者が総てを背負うわけではない。商王朝は紂王が稀代の悪王だから滅びたわけではないと思う。しかし、紂王は最後の引き金を弾いてしまったわけで、そういう意味では紂王は罪を被る存在となってしまった。紂王は最後の王となるには、余りに自我が強すぎたのかもしれない。その事が却って歴史に大きく傷を残すこととなったと感じる。




