中国古代の王朝~「商」のはじまり~
私が授業で習った中国最古の王朝は「殷」であった。しかし、史書には「殷」という名称はあまりない。「殷」はその後の王朝「周」が名付けたとされる名称で、夏王朝を打倒した部族は「商」と名乗っており、史書にも「商人」と書かれているので、この連載では「商」で統一させていただきたい。
「商王朝」は中国史上初めて「易姓革命」を成し遂げた王朝であり、禅譲か世襲であったものを、武力を用いて政権交代をやってのけた部族である。これ以降王が暴虐であるとか、悪逆極まりない等の正統性があるならば、政権交代は「易姓革命」が多くなる。
しかし前話にも書いたが、この時代の「帝」は神のごとき権威であり、夏王朝が最晩年であったとはいえ、易姓革命を成し遂げる事は神殺しにも近い行為であったろう。そこまでの行為に及ばざるを得なかった、商王朝の創始者「湯」は、一体どれだけ追い詰められていたのであろうか。
史書による夏王朝から商王朝への遷移は、後の商王朝から周王朝への遷移とよく似ているため、後世の創作が疑われている。確かに似ているところは多い。だが「惡」と呼ばれる行為に及ぶからには、激越な感情が必要になるだろう。夏王朝の都と思われている遺跡には、数多くの惨殺されたと思われる人骨も見つかっている。黄泉がえらないようにばらばらにするとか等の宗教的目的があった可能性は高いが、それでも「湯」と「商人」には、夏王朝に対する「怨み骨髄に達する」何かがあったに違いない。
また、最後を迎える権力者は猜疑心のあまり、無実の人間や諫言する忠臣を投獄する傾向がある。様々な要因を鑑みると、史書の書いてある事が全くない出来事とは考えにくいのだ。
商の最後の王たる「紂王」と「桀王」が似ているため、史書を書いた史官が紂王のエピソードに寄せた可能性はあるが、恐らく湯にはこれに似た何か激越なエピソードがあったことは間違いないだろう。




