8.彼の理由
ルーティンがその影に気付いたのは交代の時間を間近に控えた真夜中の事だった。
仲間から加えられた鉄拳制裁に、未だ頭がズキズキする。この時間の見張りは彼の役目ではなかったのだが、サボった代償として仕事を押しつけられたのだ。本当にみんな容赦がない。ルーティンに味方をしてくれたのは本来の見張り役であるロドフだけだった。普段は暗いしよそよそしくてなにを考えているか解らないやつだったが、結構良い奴だったんだなーなんて思う。結局みんなの剣幕に押し切られていたが。
確かにパーティを目前にして倒れた自分にも責任はあるが、誰だってあの角部屋の主を見れば自分と同じようになるはずだ。あんな美人は生まれてこの方、一度も見たことがない。男であろうが自分より背が高かろうが、そんなことは関係なかった。あれはもはや存在自体が奇跡だ。
未だにあの時のことを思い出すと鼓動がはねる。
先の蜘蛛騒動もあってか未だに興奮が冷めず、冴えたままの目で周囲を見渡す。雑念は振り払えないものの、体はきちんと覚えた仕事をこなしてくれた。
「あれ?」
ふと、宵闇の向こうになにかが見えたような気がして、ルーティンは目を擦った。
波音と、風の音だけが夜の海に響いている。しかし、どうにも違和感がぬぐえない。
望遠鏡を手に周囲を見渡すが、やはり妙だ。
なにがおかしいのかと、ルーティンは考えた。今日はとんまをしてしまったが、彼とて船乗りとしての経験はそう浅くない。しかし、今までに感じたことのない類の違和感に首を捻る。
「なんだ、あれ」
望遠鏡がうつした光景をしばし睨み、その正体に気付いた瞬間ルーティンは反射的に持っていた鐘を振り鳴らしていた。
二回で『交代』
三回で『警戒』
とにかく沢山鳴らされた時は『緊急事態』
鳴りやまない鐘の音に慌ててかけつけた船員達が何事かと声をかけると、ルーティンはあらん限りの声で叫んだ。
「海賊だ!!」
ルーセウスの行動は迅速だった。アーニャに必要最低限の荷物を迅速にまとめるよう伝えると、剣の柄を握りしめたまま落ち着きを払って廊下をでる。
報告にかけつけた部下は、その様子だけで落ち着きを取り戻し、足をそろえて報告をした。
船は四隻。どれも黒塗りの、さして大きくない船だという。しかし、その分速度が速く、逃げ切るのは困難だと告げられた。
直ちに乗客達を起こし、決められた経路で避難させるよう指示する。
砲台の有無は未確認だが今ここで甲板に出ればどんな危険があるか解らない。そこで、緊急時に備えて用意されたもう一つの避難経路……海水で満たされた船底から避難用のボートに全員を乗せるようにと付け加えた。
「焦るなよ。乗客に緊張や焦りが感染すると、パニックになる危険性がある。あくまで冷静に、むしろ余裕を持って行動するんだ」
「ハッ!」
集まった部下は直ちに散開すると、言われたとおり落ち着きを払った態度で客室に声をかけて回った。間もなく身支度を調えたアーニャが部屋から顔を出す。
「準備出来ました」
「お早い行動で助かります。直ちに船底へ向かってください。すでに部下が一人向かっているので、場所はすぐに解る筈です」
「わかりました……どうか気をつけて」
「心配ありませんよ。このルーセウス、海賊如きに遅れはとりません」
そう言ってウインクを一つ。
アーニャもルーセウスの腕は疑っていないので、その言葉に素直に頷くと、言われたとおり船底へ向かう。上階の船室から乗客たちが出てくる音が聞こえてきた。
アリアナがスーニと話しをしに行ってから未だに帰ってこないことが気がかりだったが、今船内を逆戻りするのは避難する人たちに迷惑だ。かけだしたい衝動を抑えながらアーニャは先を急ぐ。
「アーニャちゃーん」
聞き慣れた声に後ろを振り返ると、慌てたように後を追ってくるロンロンの姿があった。
「ロン、あまり慌てないで。大丈夫、なにかあってもルーサーさんたちが守ってくれるから」
その言葉に安心したのか、ロンロンは言われたとおり落ち着いて階段を下りる。合流すると、二人肩を並べて足早に船底へ向かった。
アーニャは多少不安があるものの気丈に振る舞っていたが、ロンロンはそうもいかず、不安げな様子で辺りを見回している。それが逆にアーニャの気持ちを落ち着かせた。私がしっかりしなければと大きく息を吸う。そして、そわそわと落ち着かないロンロンの手をしっかり握りしめた。
驚いたようにロンロンの蜂蜜色の瞳がアーニャを見つめる。
「大丈夫。私がついてるから」
「アーニャちゃん」
「いきましょうロン」
話している内に他の乗客達もぞくぞくと集まりはじめた。あの毒蜘蛛騒動のおかげで、ほとんどの人が着替えもせずに起きていたらしい。ざわついていたが、思ったより騒ぎになることもなく、みな不安な様子ではあったが、足取りはしっかりしていた。
船底につくと、船員の一人がランタンの灯りを手に、静かに待機していた。足下から濃い磯の香りがする。
一カ所の床板がはがされ、そこから波の音が聞こえた。
「えー、ご説明いたしますので、ご静聴下さい」
そういうと、ざわつきが徐々に収まっていく。
「甲板に出るのは危険だと判断されたため、お客様にはこちらから泳いで、緊急避難用のボートへ向かっていただきます」
「なんだって?」
「待ってよ、あたし泳げないわ」
口々に不安の声をあげる乗客に、部下も困ったように頬をかく。
「ボートまではさほど距離もありません。ここからボートまでロープを渡しますので、泳げない方も息を止めて目を閉じて、あとはロープを伝っていけば大丈夫です」
「年寄りもいるんだぞ」
「私は腕を怪我しているんだ」
大丈夫ですから、となんとか宥めようとするものの、一度誰かが不満を零すといっきに伝染する。
急がないと危ないのにとアーニャが苛立ちを露わにすると、すっと手があげられた。
「泳げない人はボクがつれていきます」
挙手したのはロンロンだった。アーニャは思わず隣に立つ青年を凝視する。
先ほどまでの不安な様子はどこへやら。相変わらず緊張感のないへらへらした笑顔で、「ボク、泳ぎは得意なんです」と告げた。
「まずはアルモさんにロープを持って、救命ボートまで行って貰うでしょう?」
指をさされた船員――アルモは、思わずビシッと背筋を伸ばした。
「で、こっちにくくりつけたロープを誰かに持ってもらって、アルモさんの方は問題がなければロープの端をこう、クイクイって引っ張るの」
「あ、ああ、確かにそうすれば、渡っても安全かどうかがすぐに解りますね」
「うん、で、まずはお年寄りとか、怪我している人とかをボクがつれて往復するから。渡るのはどれくらいかかる?」
「十五秒ほどかと」
「うん、じゃあ頑張って十五秒くらい息をとめておいて。そうすれば必ずボートまで届けるから」
そういうと、ロンロンは自信のない人この指とまれーと言って、人差し指を差し出した。
最初は戸惑っていた乗客達もちらりほらりと動き、7人の乗客がロンロンの指を握る。皆怪我人やお年寄りばかりだ。
「アーニャちゃんは大丈夫?」
「うん」
問われて、アーニャはなんとかそれだけを答えた。
みんなロンロンの雰囲気にあてられたのか、不思議と先ほどのようなピリピリとした緊張感がなくなっている。
ロープの端がひかれ、準備が出来ると、次は最初に誰がいくかという話しになる。ここでもまた、乗客たちは不安げに視線を交わしあった。心配なのは解るが、今はあまりのんびりとしていられる状況ではない。苛立たしげに足をこつこつ鳴らすと、再び腕が上がる。
その鮮やかな深紅の手袋に、アーニャはぱっと表情をほころばせた。
「まずは若い人が行って。泳げなくても向こうで船員さんの手伝いくらいは出来るでしょう。今はとにかく急いだ方が良いわ」
乗客をかきわけて姿を見せたアリアナに、思わずアーニャは駆け寄って手をとる。
「よかった、無事だったのね」
「私は平気……色々話したいことがあるけれど、今はそういう場合じゃないわね」
「ええ、詳しいことは避難してからに」
それだけ約束をすると、アリアナはロンロンに手を差し出した。
「ロープの合図は私が受け取るわ」
言われてロンロンは深く頷くと、アリアナの手を握り替えした。思っていたよりもずっと大きくて力強い手に、アリアナも安堵の表情を浮かべる。
アルモがロープを手に船底へ潜るのを確認すると、あらかじめアルモから受け取っておいた別のロープを腰に巻き付けた。それから腕を怪我しているという青年を背中に背負い、離れないよう彼の体もロープでくくる。
「そうだ。君の名前は?」
「……アリアナ。貴方のことは覚えているわ、ロンロンさん。初日に声をかけてきたのは貴方の方だったけど」
「うん、その時に名前を聞きそびれちゃったから。今なら教えてくれるかなと思って」
よろしくアリアナ。
その言葉とほぼ同時に、アリアナの握りしめていたロープがくんっと引かれる。合図だと伝えると、ロンロンは腰に巻いたロープを再度確認してから、床の縁に手をかけた。
「ロンロンさん」
「ロンでいいよ」
呼ばれて振り返ったロンロンの頬に、柔らかい感触が押し当てられる。ふわりとほのかな花の香りが鼻腔をくすぐった。
触れたのがアリアナの唇だと解るやいなや、顔を真っ赤にして慌てふためくロンロンの初々しい反応に、アリアナは声をあげて笑う。
「ただのおまじないよ! ……頑張って」
アリアナの言葉に、ロンロンは真剣な顔で頷いて見せた。
カウントダウンとともに水しぶきがあがる。
アリアナはポーチにしまっていた懐中時計を取り出すと、そのまま静かに数を数えた。十五秒かかるということは、ロンロンの泳ぎが確かなら四十秒前後でロープが引かれるのが理想的だ。そこから避難に掛かるおおよその時間を割り出せれば、もっと作業がスムーズになるだろう。
やがてロープが引かれるのを感じたとき、アリアナは思わず「うそ」と声を上げた。
三十二秒。
鍛えられた海の男が十五秒ほどと推測した距離だ。体を鍛えていない普通の人なら二十秒は覚悟をすべき所である。それから船にあがり、ロープを解いてこちらに合図を送るまで早くても二十秒と考えていた。
本当に泳ぎが得意だったとしても、これは尋常ではない早さだった。
アリアナと同じ驚きを、ボートの準備をしていたアルモもまた感じていた。
ロープを伝っていたとはいえ、ロンロンの動きは驚くほどはやかった。一人、また一人とボートにあげられた避難客の誰もが、自分の身に起こったことが上手く理解できずに唖然としたままロンロンを見つめる。
「あー……やっぱ服着たままだとちょっと大変だ」
避難客と自身を繋いでいたロープを外すと、ロンロンはおもむろに着ていた服を脱ぎ捨てた。そうしてあらわになったロンロンの体にアルモは思わず息を飲む。
下にはぴっちりと体のラインにそった黒いインナーを着ていたが、頼りなげな容姿とは裏腹に、その体は鍛え上げられていることが一目で分かるしなやかな筋肉に覆われていた。ただの鍛え方ではない。この体は船乗りである自分たちよりも、そう、あの騎士たちに近い。
戦うための体だ。
「何者なんですか、あんた」
「え?」
思わず敬語も忘れて素で問いかけたアルモに、ロンロンは相変わらず緊張感の無い笑みを浮かべた。
それから、だから言ったじゃん、と首をかしげる。
「セイギのミカタだよ」
それから服を絞ると、やっぱり寒いと言ってもう一度着込む。濡れた服をそのまま着たら余計に寒いのではと思ったが、アルモも避難客もそのことは突っ込めず、再び海に飛び込んだロンロンを静かに見送った。
「おいおい、こりゃあどういうこった。話しが違うじゃねぇか」
望遠鏡を片手に、派手なコートハットを被った男がぼやいた。船が止まった時点でおかしいとは思っていたが、甲板に武装した船員や騎士とおぼしき姿を確認して舌打ちする。
「……ロドフのやつ、しくじったか」
本来なら内通している船員が見張りをしているうちに船を寄せて、いっきに切り込む予定だったのだが、相手は明らかにこちらの存在に気付いている。わざわざ砲台がなく速度の速いタイプの船を用意したというのに、意味がない。
となれば、既に乗客たちも避難を始めているだろう。船内にある程度の私物は残されているだろうが、思っていた以上の利益は見込めそうもない。すぐに船を制圧出来れば避難用のボートも追えるかもしれないが、騎士がいるとなると厄介だ。
「どうしますか、お頭」
コートハットの男は面倒くさそうに顎髭をいじると、望遠鏡を捨てて部下たちを振り返る。
「おめーらよぉ、お宝と命と、どっちが大事だ?」
「お宝っす!!」
間髪いれずに答えた部下に男は満足げに頷くと、腰に下げたサーベルを引き抜いて今宵の獲物、『ポーノティース号』を指し示した。
客をどうするかは船ごと頂いてから考えればいい。あまりに簡単すぎても興醒めだ。せっかくの大きな獲物、ここで逃せば次はない。
「んじゃあ殺して奪え!」
『おおぉおおおおおおおおおおお!』
乗客は全員避難できただろうか。
ルーセウスは船内へつづくドアを背に、近づいてくる海賊船を見据えた。既に部下は臨戦態勢にはいっている。船長の指示で船を動かすのに必要な船員達は乗客の避難に回し、それ以外で腕に覚えのある船員達も甲板に集まっている。過去にもこういった経験があったのか、その指示は素早かった。避難がしやすいように船は動きを止め、後は敵襲を待つばかりだ。
砲を撃ってくる気配がないことに、ルーセウスは僅かに安堵した。この調子なら問題なく全員避難できるはずだ。
「いいか、誰一人として船内に入り込ませるな」
「ハッ!」
「あと、海賊如きに殺されるんじゃないぞ?」
「ハッ!!」
「乗客全員を乗せた緊急避難ボートが出たら船はどうなってもいいと船長から言付かっている。とにかくそれまで時間を稼げ」
剣を構える。まもなく四隻の船が隣接し、鉤縄が客船の手すりにかけられた。
「くるぞ! まずは船に乗り込まれないようにしろ!」
ルーセウスの号令とともに部下が駆け出す。乗り込もうとする海賊達を払い、海へとたたき落とし、かけられた縄を端から切り落とした。しかし相手はかなりの人数がいるようで、やがて数人が甲板へ乗り込むと、乱戦状態になる。
その間もルーセウスはドアを背に守ったまま、近づく海賊達を切り伏せた。
このドアの向こうには、必ず守ると剣に誓った一人の少女がいる。
これからたった一人で、狡猾で、卑劣で、欲の皮の厚い敵が待ち受ける、陰惨な戦地へ赴く少女。
戦うと心に決めた強い意志が見せる、澄んだ眼差しを思い出す。
アーニャの父グレーシアスと、ルーセウスの父であるホノホスは親友であった。かたや騎士でかたや貴族ではあったが、二人きりで会うときはその垣根をこえ、ただ友人としてグラスを重ねた。
グレーシアスは自分にも優しく、家に遊びに来るといつも抱き上げられ「重くなったな」と笑った。それは士官学校に入学するときまで続いた。彼は自分にとって、二人目の父とも言える存在だった。
入学が決まった後、グレーシアスから自分宛に包みが届けられた。
入学祝いと書かれたそれをあけると、中には一降りの剣が納められていた。
思い出したように、ルーセウスは握りしめた剣を見据える。
彼らを……アトリョーシャ一家を守ろうと剣に誓ったのはその時だった。配属は迷わず北方警備を志願した。お前の成績なら中央でも活躍できると言われたが、ルーセウスは申し出を断り、北方警備についた。
アーニャと出会ったのは、それから間もなくのことだった。
貴族のパーティの警備なんてと同期の仲間がぼやくなか、ルーセウスはいつもより幾分気持ちを引き締めて見回りをしていた。そんな自分の後を、影から伺う少女に気付いたのはすぐだった。
アーニアス。
アトリョーシャ家の長女であり末娘だ。
グレーシアスがよく、酒の席で父に可愛い可愛いとこぼしていたのを思い出した。
自分を見つめてくるキラキラした視線に、ルーセウスは背筋を伸ばす。彼女に恥ずかしいところは見せられない。その一心で、ルーセウスは仕事に励んだ。
言葉を交わした数は、そう多くない。それも殆どが挨拶のみだ。
出会ったばかりの時は、恥ずかしがり屋で、紹介されてもか細い声で挨拶をするとすぐに父の影に隠れてしまった。
ようやく隠れてしまわなくなった頃に頭を撫でると、顔を真っ赤にして、それでもきちんと挨拶をする子だった。ふわふわしたストロベリーブロンドは触り心地が良く、それからは機会がある度に頭を撫でていた。
本当は腕白で目が離せない子だと周囲は言うが、ルーセウスにとってアーニャという少女はいつも内気で照れ屋で、会うのが難しい妖精のような女の子だった。
それから暫くして、アトリョーシャ家を不穏な影が覆う。
優しかったグレーシアスの妻、セラが病に倒れ、療養のためにアーニャをつれて彼女の故郷であるクレートへ向かったこと。
それと期を同じくして、グレーシアスが内密に父の家を訪ねた。
命を狙われていると、彼は父に相談したらしい。
父は勿論、親友のために全力を尽くして調査をした。グレーシアスとて黙って相手が来るのを待っているわけではなかっただろう。長子であるエレオースと共に、自分たちを狙っているのが誰であるか突き止めようとした筈だ。そして、再び家族を自分たちの元へ呼び戻すつもりだったに違いない。
事実、事件の後に見たアーニャの部屋は、いつでも彼女が帰ってこれるよう、綺麗に掃除されていた。
しかし、彼女が生家へと戻ってくる前に、グレーシアスは命を絶たれた。
エレオースと共に馬車に乗ってどこかへ出かけたのを境に行方が解らなくなり、暫くして北端の海辺で流れ着いた死体を発見された。死体に目立った外傷は無かったため、死因は溺死と断定された。
エレオースは未だに発見されていないが、グレーシアスの発見から十日が過ぎても見つからず、父の様子から考えても生存は絶望的だとされている。
セラには既に、二人はなくなったという知らせが出されていた。
それから間もなくセラが病で亡くなり、ルーセウスは一人残されたアーニャを思った。
彼にとって、アーニャはいつだって幼くか弱い、内気な少女だった。今も一人で泣いているのではないかと心配でならなかった。そして、彼女は二度とこの地には帰ってこないだろうと、そう思っていた。この場所は彼女にとって危険すぎる。出来ることなら安全な土地で、誰から狙われることもなく健やかに育って欲しいと願った。
しかし、ルーセウスの願いに反して、彼女は当主代行の道を選んだ。
父から彼女を迎えに行ってやって欲しいと頼まれ、ルーセウスは一も二もなく頷いた。
あの幼い少女がどんな気持ちで当主代行になることを決意したのか、ルーセウスには想像もつかない。あのような小さな体でアトリョーシャ家を支えようというのか。その重圧に押しつぶされてしまってはいないか。アーニャの姿を見るまで落ち着かない日々が続いた。
だから、再会したときルーセウスは、目の前にいる少女がアーニャなのだということが信じられなかった。
たった三年だ。
家を離れてから、三年しか経っていないのだ。
そこに、あの頃の恥ずかしがり屋な少女はいなかった。
「おつとめご苦労様です、ルーセウス・トリエストス北方警備隊長。サレリアまでの護衛の任、どうぞよろしくお願いいたします」
凛と背筋を伸ばし、揺るぎない視線で、彼女はそう言った。
ルーセウスはただただ感嘆し、すぐに膝を折った。折らずには居られなかった。そこに立っていたのは、代行とはいえ、確かにアトリョーシャ家の当主だった。
それから形式的な挨拶を交わし、アーニャを部屋までエスコートする。出発は翌日の朝で、今夜一晩は彼女暮らす屋敷に泊まることになっていた。
部屋の前でアーニャが振り返ったとき、少し緊張がほぐれたのか、その表情にかつての幼かった彼女の面影が重なる。
揺れるストロベリーブロンドがふわふわと心地よい手触りだったことを思い出し、ルーセウスは思わずその頭を撫でていた。手触りもかわっていなかった。驚いたように顔をあげる少女に笑いかける。そこにいたのは確かに、あの屋敷にいた頃と同じ、若かった己が良いところを見せようと躍起になった愛らしい少女、アーニャだった。
だから、自然とルーセウスは呟いていた。
「お久しぶりです」
少女の大きな空色の瞳から、涙がこぼれ落ちた。
あれからアーニャが泣くことはなかった。
そんな彼女を自分の力の及ぶ限り守ろうとルーセウスは心に決めた。
彼女の父が与えてくれた剣で、彼女の力になりたかった。
甲板の上で、必死に涙を堪えていたアーニャの姿を思い出す。目の縁に涙をためながら、それでも前を見据えていたアーニャの姿を。不安でないわけがない。恐ろしくないわけがない。それでも彼女は戦おうとしていた。
ならば、自分はここで倒れるわけにはいかない。
少女を思う度、繰り出される剣は早く、鋭く、重くなった。向かってくる敵の剣はいとも容易く弾かれた。
彼らとルーセウスとでは、剣を振るうその、覚悟の重さが違った。
彼がいないことに気付いたのは、乗客の殆どが避難を終え、残り僅かになった時だった。
「スーニさん……」
ロープを掴んだままでは上手く船底へ降りられずにいた客に手を貸しながら、アーニャの呟きを耳にしてアリアナが顔をあげた。
「アーニャ」
「私、見てくる」
その言葉と同時に、頭上から激しい足音と、金属のかすれる音が響く。アーニャはしばし迷った後、ぐっと拳を強く握りしめてアリアナを見た。
「アリアナはロンと避難に専念して」
「バカ言わないで! 相手は――」
「大丈夫、危ないと思ったらすぐに逃げるわ!」
アリアナが手を離せないタイミングを見計らうと、それだけ言って制止の声をふりきり階段を駆け上がる。必死に自分の名を呼ぶアリアナに心の中で謝った。あとでうんと怒られるだろうが、それでも動かずにはいられなかった。
相手は得体の知れない男だ。いや、とても危険な男かも知れない。ルーセウスの言っていたラグナール国の事件、その最後の被害者に仕えていたという男。乗客名簿に名前のない者を船内に連れ込み、どういう理由があってか、自分に接触してきた人。
それでもアーニャの足は止まらなかった。
子供が不安がったからずっと傍にいたと、そう語ったあの温かな声音。
ふわふわと心地よい、夢のようなダンス。
変わらない表情で、なにを考えているかちっとも解らない人だったけれど、アーニャの問いかけにはきちんと答えてくれた。
もしその答えに偽りがないのであれば、彼は疑いがかけられるかも知れない己の素性をアーニャに教えてくれたことになる。そんな事をしても、彼にはなんのメリットも無いはずなのだ。
だったら信じようと思う。
そもそもアーニャは、誰かを疑うことが苦手な性分だった。
それだけでいい。
相手を心配する理由なんて、それだけで十分だ。




