7.疑惑
万が一のことがあっては危ないからと部屋を徹底的に調べてもらった後、アーニャはルーセウスの言いつけを守り、アリアナと共に部屋の中じっとしていた。少し休んで落ち着いたのか、アリアナも冷静さを取り戻している。
「昔からアレだけは本当にダメなの。名前を聞いただけで鳥肌が立つし」
そう言って、手袋で覆われた腕を何度もさする。
あそこまで取り乱したのが今になって恥ずかしくなったらしく、頬は紅潮していた。
「そういえばあの人と会ったとき――」
ふと、アリアナが不安げに零す。
「スーニさんを最初に見たとき、アレの気配を感じたような気がしたのよ」
スーニが怖かったわけではなく、その蜘蛛の気配が恐ろしかったのだと言う。
アーニャは思わず首をかしげた。どうやら、アリアナは蜘蛛の姿が見えなくても、傍にいるだけでその気配を感じて気分が悪くなるほど蜘蛛が苦手らしい。広間に戻ったときにはもう平気だったのだけれど、と付け加えられる。
「甲板に蜘蛛が居たってこと?」
「解らないけど……そうなのかも」
では、さっきの蜘蛛は甲板から船内へ侵入したのだろうか。船内はあらかじめしっかりと清掃がされている筈なので、そこに紛れ込んだとは確かに考えにくい。あるいは船体のどこかに張り付いていたのかも知れない。その事をルーセウスの部下に伝えると、甲板の方も一斉捜索が行われた。
外からは常に誰かが駆け回るような音や、ルーセウスがなにごとか指示を出す声が聞こえ、結局調査が終わったのは随分と夜もふけた頃であった。
「それで、卵はなかったんですか?」
「ええ、幸いなことに」
ルーセウスは調査が一段落したので様子を見に来ただけであったが、アーニャたちがまだ起きていたことに思わず苦笑を浮かべた後、部屋に備え付けられた小さな椅子に腰を下ろした。報告がなければ彼女たちも安心して眠れないだろうと、そう判断したからだ。
「ロンは大丈夫でした?」
「ああ、あの後室内を改めさせていただいたときに確認しましたが……蜘蛛はちゃんと捨てたそうです。怪我もないようでした」
「……あれは本当に、心臓が止まるかと思ったわ」
「彼は何者なんでしょう……乗客リストと照らし合わせても、書かれている情報に嘘偽りはないようでしたが」
問われて、アーニャは首をかしげた。隣に座るアリアナも小さく首を振る。
「私も詳しくは知らないの。名前はロンロン。東の方にあるアドルケニウスっていう小さな国の出身だって事は聞いているけど」
「私が知ってるのは名前くらいだわ」
アーニャの説明に対し、アリアナは思わず苦笑を浮かべた。初日に声をかけてきた冴えない男。それこそがロンロンだったからだ。
「下手なナンパをしてきたからつい追い払っちゃったんだけど」
「ロンったらアリアナにまで声をかけてたのね」
呆れたようにアーニャが腕を組む。しかし、蜘蛛を追い払ってくれたのが彼だと知って、アリアナの印象は少し良くなったようだ。
「頼りなさそうって思ってたけど、結構度胸はあったのね」
「人畜無害そうだとは思っていましたが」
「というより、毒を持ってるなんて思わなかったのかも」
「ああ……」
アーニャの言葉に二人が納得したように頷く。少し哀れとも思ったが、みなロンロンには共通の認識を持っているようだ。もっとも、それは彼の振るまいが誰に対しても変わらないことを示している。
子供が大きな虫に対し、恐れより興味を抱くのと同じようなものだろうかと、アーニャは宙を見上げた。かくいう彼女も、幼い頃は虫を捕まえてメイドを脅かしたりしていたものだ。
それでも、あんなに大きな、それも蜘蛛を素手で掴むのはさすがに抵抗を感じる。やれと言われれば出来なくもないが、やらなくていいなら絶対にやらない。
まぁ世の中には台所の黒い天敵でさえ臆せず掴める人間もいるのだし、それ自体は特に問題とも思わなかった。
「とにかく、今後は気をつけるように注意だけしておきました」
「そうですか」
「あとは特に問題はありませんでしたよ」
「怪我とかしませんでした?」
言われて、ルーセウスはそういえばと笑いを零す。
「毒蜘蛛の乗っていた皿を片付けようとしていた船員が、少し」
「え、まさか毒が?!」
「いえ、皿のふちが欠けていたんですよ。調べていたときにそれで指を切ってしまったらしくて。念のため治療はしておきましたが、毒が混入するようなこともありませんでした」
アーニャの背筋に、冷たいものが這い上がった。アリアナも同じ事に思い至ったのか、表情が険しくなる。
「欠けたお皿?」
「ええ、ちゃんと処分しておきましたから、大丈夫ですよ」
「そこに、毒蜘蛛が乗っていたんですか?」
「ええ」
まさか、とは思う。たんなる偶然の一致だろう。
それでも、アーニャは脳裏に浮かんだ男の名前を、思わず口にしていた。
「スーニさんは?」
「え?」
「ほら、あの綺麗な人」
「あ、ああ、彼がなにか?」
言われてルーセウスは妙な反応を見せた。やはりなにかあるのだろうかと、アーニャは務めて冷静に言葉を続けた。
「少し前に一緒にお喋りをしたんです。ダンスもエスコートしてもらって。ただ、その人も同じお皿で指を切ってしまって、それっきりだったから」
ちょっと思い出しただけですとアーニャが言うと、なるほどとルーセウスも頷いた。しかし、先ほどと違って反応は薄い。部屋の方には特に問題はなかったそうだ。アリアナは納得いかないという顔をしていたが、アーニャはなぜだか少し安心した。出来ればスーニを疑いたくはなかったのだ。
問題がないならそれでいい。同じお皿で怪我をしただけの話なのだから、そう気にするようなことでもないのかもしれない。これ以上ルーセウスを引き止めるのも悪いとお礼を言おうとしたとき、それより先にルーセウスが口を開いた。
「彼は騒ぎがあったときも、お一人で部屋にいたそうです。少し体調がすぐれず休んでいたと言っていました。確かに顔色がすぐれないようだったので、早々に調べてお休みいただいたのですが……」
「一人でですって?!」
突然アリアナが立ち上がる。ルーセウスは勢いに押されるようにカクカクと首を縦に振った。
「十歳の男の子が一緒に乗っていた筈よ!」
「男の子……?」
「他に、もう一人すごく背の大きな同乗者がいませんでした?」
二人の様子に事態の深刻さを察知して、ルーセウスは顎に手を当てる。それから詳しい説明を二人に求めた。
アーニャは震える声を賢明におさえて、ルーセウスにスーニと話したことを伝えた。
「ラグナール国、ラドニア伯の使用人?」
「ええ」
「息子と共に船に乗っていると、彼はそう言ったんですね?」
「そうです。それに、私の事情をよく知る同乗者も居ると。……ルーサーさんも見ませんでした? 彼の部屋の中に、大きな男の人が」
「いえ、私のいたところからだと、部屋の中までは見えなかったので。ですがそうなると、スーニさんの部屋には少なくともあと二人、乗客がいたということになりますね」
船内にいる他の客に、彼女たちの言う外見や年齢が一致する客はいない。
アーニャとアリアナが同時に頷くと、ルーセウスは表情を険しくした。
「それは、おかしいです」
「……やっぱり、居ないのね?」
「乗客は名簿と照らし合わせ、全員点呼させていただいています」
スーニは確かに一人であの部屋を使っていることになっていた。少なくとも名簿の上では。
では、彼は嘘をついていたのだろうか。ドレスの裾をきつく握りしめるアーニャの手に、アリアナの手が重ねられる。
「それともう一つ、先ほどの情報の中で気になるものがあったのですが」
ルーセウスは僅かに迷ったが、二人が強い眼差しでこちらを見ていることに気付き、覚悟を決めたように口を開いた。
「アーニャ様をお迎えにあがる前、毒虫に関するある事件の話を聞きました」
「毒虫の事件?」
アリアナの顔が嫌悪に歪む。それでも耐えるように唇を噛んで、ルーセウスに続きを促した。
「ほんの一年ほど前に起こった事件です。事件そのものが解らないことだらけで、結局解決にすら至っていないということでした。今では事件も沈静化しつつあり、調査もすっかり行き詰まっているとか」
「どんな事件なんですか?」
「それが……まるで怪談話か都市伝説のようなもので」
そういって、ルーセウスは事件の概要を話し始めた。
それはある都市の一角で、一人の貴族が殺されたことからはじまった。
死因は毒殺、あるいは出血死。
どちらが男を死に至らしめたかは解らない。わかっているのは、男の死体には体中を掻き毟った痕が残っていたこと。毒物は検出されなかったが、皮膚がただれ、血を吐いたあとが残っていたことから、なんらかの薬物が使用された可能性が高いこと。そして、その死体がまるでなにかに食い荒らされたかのように無惨なものだったと言うこと。
食い荒らしたのは猛獣の類と言うよりは小動物ほどの大きさの生き物だという。毒物でただれ、柔らかくなった皮膚に無数の噛み痕が残っていたらしい。だが、その痕も猫や鼠のものとは異なっていた。
後の調査で、蜘蛛に噛まれた痕と酷似していることが解ったそうだ。
「ひっ」
アリアナがその名前に思わず喉を引きつらせる。やはりやめようかとルーセウスは迷ったが、おびえる彼女自身がそれを強く拒んだ。
仕方なく、ルーセウスは説明を続けた。
その後、頻繁な周期ではないものの、同じように貴族が死ぬ事件が多発。そのどれもが、毒殺、あるは出血が原因で死に至っている。
無論、貴族たちはみな警戒していた。しかし、どの事件もどれだけ見張りを立てようが意味を成さず、魔法を使った捜査にも乗り出したが、なんの成果もあげられなかった。
解るのは、犯人が小動物程度の小さな生き物であること。しかも貴族ばかりが狙われていることから、誰かが裏で糸を引いていること、この事件に魔法の類は絡んでいないということだけだった。
「魔法ではないんですか?」
「ええ、どういった手段を用いたかは分かりません。しかし、事件現場には一切の秘術痕跡が残されていなかったそうです」
秘術痕跡。魔法、あるいは秘術と呼ばれる力を行使することで、現場や使用者の周囲にはマーナの乱れが生じる。それを分析することでどういった術を誰が行使したのかを調べる方法が1703年に開発され、以降これまで暴くことは不可能だと言われていた、秘術を用いたあらゆる事件を解決に向かわせた。
秘術の中には獣などを操るものもあるため、真っ先にその線を疑い調査したが、結果は白。
犯行に秘術は一切用いられなかったのだ。
もう一つ、事件は大規模なパーティが行われた後に発生している。ゆえに、犯人は同じ貴族か、あるいはその関係者である可能性が高いと言われていた。
しかし、捜査はそこで行き詰まる。
噂では王室から調査員が派遣され、この事件の解決にはかなりの人間が携わったと言われているが、真相は定かではない。
時を同じくして、その都市にはもう一つの奇怪な噂が立ちはじめた。
それが蜘蛛男の噂である。
事件現場付近で、なにか目撃情報がないかと調査していた際、近隣の住人が一貫して、ある奇妙な影を見たと証言したのだ。
それは巨大な蜘蛛だったと、誰かが言った。
それは巨大な男の影だったと、誰かが言った。
それは、蜘蛛のように八つの手足を持つ、巨大な男の影だったと、誰かが言った。
やがて都市中に蜘蛛男の噂が広まり、多くの目撃証言が寄せられるようになった。
正体不明の毒物と、食い荒らされた死体、そして謎の蜘蛛男。
しかしこの事件は十二人の命を奪った後、最後に起こった最も凄惨な事件を期に沈静化する。近年力を伸ばしていたとある有力な貴族の屋敷で、その主がこれまでと同じ手口で殺されていたのだという。しかし最後の事件はそれだけに止まらず、使用人や衛兵、後継者であった年若い少年までもが無惨に殺され、事件が発覚したとき、屋敷には誰一人として生きた者がいなかったそうだ。
それ以降は誰一人として死ぬこともなく、蜘蛛男が目撃されることもなくなったという。
結局犯人は捕まえられず、事件は迷宮入りとなった。
「というのが、事件のあらましです」
「……なんか本当に、怪談じみたというか、嘘みたいな話ですね」
「ええ、ですが私がその話を聞くことになったのも、国内で毒虫が関係する事件が発生していないかを調べるためだったんですよ。幸いサレリアではそういった事件の報告はいっさいなかったので、私も今日まで気にも止めていなかったのですが、割と詳しい調書まで送られてきたことを考えても、確かに事件は起こったのでしょう」
言われても、どこか信じられないと言った様子でアリアナとアーシャが顔を見合わせる。それも仕方がないとルーセウスは苦笑を浮かべた。実際に事件の話を聞いたときは、ルーセウスも同じ反応をしたからだ。
「ここで話が最初に戻るのですが、その事件に使われた道具……いえ、生物といった方が正しいですね。その生物こそが、毒虫ではないかと言われているのです」
事実はまだ解明されていない。
調査の際にその説が浮上し、念のため南大陸で毒虫の研究をしているという団体に調査を依頼したが、いまだ返答はないそうだ。
南大陸にある件の森で毒虫が異常発生し、その対処に追われているとのことだった。
南大陸の異変や蜘蛛男の噂、そして毒虫。中には毒虫の王アバドの再来ではないかと怯える声もあったという。
確かに伝えに聞くアバド王であるならば、毒虫を操って貴族を暗殺することも、屋敷内の人間を抹殺することも容易にできるだろう。しかしアバド王ほどのものがたかだか人間を数十人殺した程度で満足するとも思えず、また王が封じられた門界からの伝えもないため、その線はまず有り得ないと言ってもいい。
しかしそうなると、どういった手段で毒虫を操っていたのか。
それがまったく解明できないため、捜査が進展しなかったのだ。そも、毒虫に関する情報ですらまともに揃っていない状態である。
「…………でも、それが?」
アリアナが首をかしげる。確かにその事件自体は確かに複雑怪奇だが、あえて今回の一件と照らし合わせる必要があるほど有力な情報とは思えない。
しかしルーセウスは己も信じられないと言った様子で、僅かな戸惑いとともに告げた。
「事件が起きたのはラグナール国」
ぴくりとアーニャの体が震える。
「……最後の被害者は、アンドーラ・フィオル……ラドニア伯爵」
背筋を、ぞろりと冷たいものが流れ落ちた。
アリアナがドアをノックすると、まるで彼女が訪れることが分かっていたかのように、誰かと訪ねようともせず「どうぞ」と返事が返ってきた。
部屋にはいると、あの夜と同じ、仕立ての良い燕尾服に身を包んだスーニがベッドに腰を下ろし、窓の外を眺めていた。
「アリアナ様でしたか……私に何のご用でしょう」
「誰が来ると思ったのかしら」
アリアナの問いかけに、スーニは答えない。視線は窓の外へ向けられたままだ。
「要件を仰って下さい」
アリアナは後ろ手にドアを閉めると、すぐにでも部屋から飛び出せるようドアノブを掴んだまま相手を睨んだ。深呼吸をすると室内を包む甘い香りにあてられてしまいそうなので、静かに息を吐く。
「ラグナールで起きた貴族の連続殺害事件について」
そこまで一息に告げると、初めてスーニがこちらを振り返った。そして、出来れば振り返って欲しくなかったとアリアナは心の中でうめく。離れた所からであっても、その姿は変わらず息を飲むほど美しい。
恐怖とは別の動悸を感じて、アリアナは危険だと分かっていても思わず目を逸らした。そうしなければこれから先、まともに会話をする自信がなかった。
「貴女が考えておられる通り、あの一連の事件の犯人は私です」
まさかいきなり認めてくるとは思わず、アリアナは警戒を露わにする。話すだけ話して、亡き者にしようと考えているかもしれない。
だが、アリアナはスーニをきつく睨みつけるだけで、逃げようとする足を踏みとどまらせた。
ここに来ることはアーニャもルーセウスも知っている。決められた時間内にアリアナが戻らなければすぐにでも駆けつけて来るだろう。ましてここは海の上……彼が逃げる場所はどこにもないのだ。
話す時間はあまりない、とにかく相手が正直に口を割る気がある以上、聞けるだけの情報は集めておくべきだ。アリアナは覚悟を決めて口を開いた。
「いったいどんな手段を用いたのか教えて下さる? とっても興味があるの」
スーニの表情は変わらない。いったいどこにそんな余裕があるのか、スーニは語ることを躊躇わなかった。
「私の血の香りを虫は好む。そして、この血には虫を寄せるだけでなく、簡単なことであれば彼らを従わせる力もありました」
殺したいと願う相手に自分の血を目印として付け、そこに毒虫をけしかける。それがスーニの手口だった。血は、パーティですれ違う時にでも服の端にこすりつければいい。
後は自らが向かわずとも、虫たちが始末してくれた。しかし、とスーニは言葉を続ける。
「言い訳をするつもりはありません。が、別に殺すのが好きなわけじゃない。子供を人質にとられたので、やむを得ずラドニア伯に従っていたんです」
そう言って、スーニは視線を窓の外からアリアナに移した。
信用していい相手ではない。しかし、僅かに目を伏せたスーニは、心からそれを悲しんでいるようだった。常に表情を変えず淡々と話していた男は、わが子の話をする時だけ声も表情もどこか和らぐ。
だが、事件の犯人だと認めている以上、相手が人殺しであることになんら変わりはない。
それに、もう一つ確かめなければならない事がある。わきあがる憐憫の心を押さえつけて、アリアナは静かに告げた。
「その息子というのも、どこまで信じられたものか分からないわ。……乗客名簿には、貴方の息子さんの名前など書かれていなかったようだけど?」
そこにきて、スーニの視線が僅かに揺れる。それを動揺と見て取り、アリアナはたたみ掛けた。
「ここに居たのは子供なんかではなく、黒ずくめの大男だったんじゃないかしら?」
大きな動揺は見られない。
しかし、アリアナがそう告げた瞬間、ざわりと覚えのある悪寒が背筋を駆け上がった。
喉の奥まででかかった悲鳴を辛うじて堪えながら、アリアナは素早く周囲に視線を向けた。
姿はない。
だが、いる。
あの気味の悪い八つの目で、確実にこちらを窺っている。
「……蜘蛛はお嫌いでしたか」
いつのまにかスーニの顔が目の前にあった。
咄嗟にドアノブを回そうと手に力を込めるが、それより先に手首を掴まれ、固定される。
大声で喚こうとした口を、なにか柔らかいものが塞いだ。
それがスーニの唇であると気付いたのは、眼前に透き通るような淡い翠玉の瞳があったからだ。
唇を触れ合わせるだけのキスだったが、アリアナは声を上げることが出来なかった。
甘い香りが思考を痺れさせ、脳が考えることを拒否する。
「私の香りは虫だけではない」
間近に聞くテノールが、アリアナの全身から力を奪った。
「僅かならば人間の中にある欲望を暴き……多量であれば人間の思考を奪い傀儡とする。虫ほどではありませんが、人間にも効果があるんです」
言われていることの半分も理解できないまま、アリアナはぼんやりとスーニの顔を見つめた。
スーニはそんなアリアナのうっすらと朱に染まった頬を撫でながら、睦言を囁くように問いかけた。
「……貴女がその大男を見たのですか?」
「いいえ……いいえ、アーニャが…………アーニャが影を見たって……それで」
「どんな姿をしていたか、わかりますか」
「わからないわ……黒い、大きな影だったとしか……」
アリアナはどこか夢を見ているような様子でスーニの問いかけに答えていく。
瞳の焦点は合わず、しかし自由になった手はスーニを求めるように腰へと回される。
「まだ駄目です。どうして貴女一人でここへ?」
「……アーニャが行くと言ったの。でも危ないから……騎士様にもとめられたけど、私ならアレの存在にも気づけるから……三十分経っても私が戻らなかったら騎士様が……」
言われて、スーニは部屋に備え付けられた丸い壁掛け時計を見る。そして、まだ時間があると判断すると、もう一度唇を重ねる。
アリアナは恍惚とした表情でそれを受け入れた。
腰に回された手が強くスーニの体をかき抱く。
「欲しいですか?」
問いかけに、アリアナはこくりと頷いた。どこか幼いその仕草に、スーニは口の端をつり上げた。
「あの騎士もこれくらい簡単なら、もっと楽だったろうに」
呟いて、アリアナの髪を優しく撫でる。右手でタイを外して捨てると待ちきれないと言うようにアリアナがボタンを外した。せっかちな彼女の様子を咎めるでもなく、好きなようにさせる。
許されたことを歓喜するように、アリアナはスーニの細い首筋へ歯を立てた。
強く噛まれたわけではない。猫が甘噛みする程度の力だ。唇はそこにあるものを求めるよう、しきりに脈打つ部分をなぞる。
「……随分お腹がすいているようだ」
広間でもあまり食べていなかったことを思い出し、スーニはくすりと声を零して笑った。
「過度なダイエットは体に毒ですよ?」
子供を窘めるような声で呟くと、甘えたように首筋を吸うアリアナに囁いた。
「この部屋を出たら、ここで起きたことを全て忘れなさい」
気がつくと、アリアナはスーニの部屋の前に立っていた。
白昼夢を見ていたかのような感覚に、思わずいけないと頭を振る。
スーニに聞かなくてはいけないことが色々とあるのだ。ラグナール国の事件や同乗者についても勿論だが、なによりどうしてアーニャに近づいたのか探らなければならない。アリアナがもっとも危惧しているのがその事だった。
突然の不幸に見舞われ、これからさらなる危険へ立ち向かおうとしている彼女の力になりたい。
恋に対しても待ち受ける戦いに対しても、ひたむきで真っ直ぐだった。アリアナが本当に欲しかったものを思い出させてくれた綺麗な眼差し。
それを失わないためにも、自分に出来る限りのことはしてあげたいと思った。
心から、そう思えたのだ。
ノックをしようと息を吸う。
途端、口内に残る甘ったるい味に気がついた。口の端を拭うと、口紅とは違うなにか赤いものが指先に付着する。
ジンと脳の奥が痺れるような感覚。
――全テ忘レナサイ。
アリアナは指先を擦って付着した赤いなにかを拭うと、何事もなかったように扉をノックしようと手をあげた。
その瞬間、船内に激しい鐘の音が鳴り響いた。




