第二話:二十三歳の体温、あるいは静かなる地獄
第二話では、すず花の「偽りの華」が少しずつ剥がれていく様子と、隼人との衝動的な夜を描きます。
平熱の安心感と、高熱の狂気。その対比を楽しんでいただければ幸いです。
三十二歳の朝は、コンシーラーから始まる。
目の下のクマを叩き込み、ほうれい線に薄く光を乗せる。鏡の中に完成するのは、清潔感のある、誰からも後ろ指を指されない「北西さん」という名の社会人だ。
昨夜、菅谷さんと肌を重ねた。その事実は、今の私にとって「昨日の夕飯に何を食べたか」と同じくらいの、記号的な記憶に成り下がっている。
『昨日はありがとう。今週末、もし時間があれば、インテリアショップでも覗かない?』
お昼休み。スマホの画面に躍った菅谷さんからのメッセージは、暗黙の「結婚」への招待状だった。
三十七歳の彼が提示する未来は、穏やかで、経済的にも安定している。彼の下心は、私という人間を「一人の女」として、そして「家庭のパーツ」として正当に評価しているという証拠だ。
それは、三十二歳の私が喉から手が出るほど欲しかった、はずの「救い」だった。
「……はい、承知いたしました」
仕事のメールを返す指先で、私は菅谷さんに『楽しみです』と返信する。
指先が少しだけ、冷えていた。
その夜。私は気づくと、昨日と同じ路地裏の店に立っていた。
行かなければいい。分かっている。菅谷さんという安全な港があるのに、わざわざ嵐の中へ小舟を出すような真似をするなんて、頭がどうかしている。
「あ、お姉さん! ――すず花さん、だっけ」
カウンターの向こうで、隼人が顔を輝かせる。
昨日の今日で名前を覚えていた彼に、胸の奥がチリりと焼けるような感覚を覚えた。
「今日もレモンサワー? それとも、俺の特製カクテル作っちゃおうか」
隼人の笑顔は、やはり「凶器」だった。
彼が俳優を目指しているのは、嘘ではないだろう。その一挙手一投足に、無自覚な色気が混じる。二十三歳の肌は、蛍光灯の下でも弾力があり、不摂生を感じさせない輝きを放っていた。
二杯、三杯と酒を重ねるうちに、私は自分の「北西」としての仮面が溶けていくのを感じた。
隼人は自分の夢を語る。まだ形にもなっていない、熱に浮かされたような青い言葉。三十二歳の私なら「現実は甘くないわよ」と一蹴すべき空論。
けれど、その空論に酔わされているのは、私のほうだった。
「……お姉さんさ。本当は、すごく寂しいんでしょ」
閉店間際。客が引けた店内で、隼人が私の隣に座った。
彼の指が、私の耳たぶをかすめる。菅谷さんの丁寧な愛撫とは違う、衝動的で、どこか乱暴な接触。
「……ガキが、何を知ってるの」
「知ってるよ。お姉さん、昨日寝た男の匂いがするもん。でも、心はここにないよね」
心臓を素手で掴まれたような気がした。
彼の手が、私の後頭部に回る。強引に引き寄せられ、重なった唇からは、安いタバコとレモンの匂いがした。-----------------------------------------。
隼人のアパートは、信じられないほど散らかっていた。
万年床に、脱ぎ散らかされた服。台所にはカビの生えかけたコンビニの空容器。
三十二歳の私が一番嫌うはずの、「停滞」と「怠慢」の吹き溜まり。
けれど、そこに足を踏み入れた瞬間、私は自分が「北西すず花」という役割から解放されるのを感じた。
「お姉さん、三十歳過ぎてるなんて嘘でしょ。体、すごく綺麗」
隼人の手が、私のブラウスのボタンを弾くように外していく。
彼の視線は、私の肉体を「減点方式」で見たりしない。ただ、今ここにある熱にだけ反応している。
肌が重なった瞬間、驚くほどの熱量に私は小さく声を上げた。
菅谷さんとの情事が「点検」なら、隼人とのそれは「衝突」だった。
彼の若すぎる肉体は、加減というものを知らない。私を壊しても構わないというような、傲慢な力強さで組み伏せてくる。
彼の汗が私の胸元に滴り、肌を伝う。その生々しい感触に、思考が真っ白に塗りつぶされる。
首筋に噛みつかれ、鋭い痛みが走る。それは、三十二年間守り抜いてきた「正しさ」が、音を立てて崩れ去る音だった。
(ダメだ。こんなの、長く続くはずがない)
頭の隅で、冷静な私が警鐘を鳴らしている。
隼人の指先が私の中を荒らし、今まで知らなかった角度で快楽を抉り出す。
彼の荒い吐息と、シーツが擦れる音。
私は、二十三歳の彼の背中に爪を立て、夢中でその熱を求めていた。
彼に抱かれている間だけは、私は「偽りの華」ではなく、ただの剥き出しの生き物になれた。
「ねえ、すず花さん。俺のこと、ずっと見ててよ」
果てた後の隼人が、私の肩口に顔を埋めて囁く。
その言葉は、純粋ゆえに残酷な「凶器」となって、私の胸に深く突き刺さる。
明日には、またコンシーラーでこのキスマークを隠さなければならない。
週末には、菅谷さんとインテリアショップへ行かなければならない。
私は、暗闇の中で天井を見つめた。
隼人の部屋の、安っぽい柔軟剤の匂いが鼻につく。
それなのに、私はこの地獄のような熱から、もう逃げ出せる気がしなかった。
第二話までお読みいただき、本当にありがとうございます。
隼人の部屋のあの「生活の吹き溜まり」のような空気感、いかがでしたでしょうか。
綺麗な恋愛小説では描かれない、大人の「どうしようもなさ」を意識して描写しました。
次回、すず花の二重生活が始まります。
菅谷との「予定調和な幸せ」を前に、彼女の心はどう摩耗していくのか……。
感想などいただけると非常に嬉しいです!




