32歳の、偽りの華。――その「好き」は凶器、その「下心」は救い。
32歳、独身。誰にも言えない、でも誰かに触れてほしい夜の物語です。少し生々しい描写を含みますのでご注意ください。
第一話:湿ったパンプスと、平均的な体温
三十歳を過ぎてから、雨の日の匂いが嫌いになった。
アスファルトから立ちのぼる、排気ガスと埃が混じり合った生温い湿気。それが、自分の肌の内側にある「澱)」を可視化されているようで、ひどく落ち着かない。
「北西さん、お疲れ様。まだやってるの?」
背後からかけられた声に、私はキーボードを叩く手を止め、口角だけを機械的に上げた。
菅谷純さん、三十七歳。うちの会社では珍しく、嫌味のない平社員だ。清潔感のあるシャツの襟元からは、柔軟剤と、わずかに加齢が混じり始めた「大人の男」の匂いがする。
「あ、菅谷さん。もう少しだけキリをつけたくて」
「あんまり根を詰めないでさ。……この後、もし良かったら少し飲まない? 愚痴くらいなら聞くよ」
菅谷さんの目は、笑っているようでいて、その奥に粘り気のある「期待」を隠している。
それを「下心」と呼んで切り捨てるのは簡単だ。けれど、三十二歳の冬を一人で越そうとしている私にとって、その湿った視線は、凍えそうな夜に差し出された安物のカイロのようなものだった。
私は、わざとらしくため息をついて、バッグを手に取った。
「……そうですね。一杯だけ、お付き合いさせてください」
それが「救い」への入り口だと、自分に言い聞かせながら。
駅前の、どこにでもあるチェーンの居酒屋。
菅谷さんは、仕事の話を三割、当たり障りのない趣味の話を七割という、完璧な「平均点」の会話を繰り出してきた。
「北西さんって、もっと気が強い人だと思ってた。でも、こうして二人で飲むと……意外と、隙があるんだね」
菅谷さんの手が、テーブルの上で私の指先に触れる。
熱くもなく、冷たくもない。平均的な体温。
そのまま彼と、ホテルのエレベーターに乗るまでの展開は、まるで慣れ親しんだスクリプトをなぞるようだった。
薄暗い部屋の中で、菅谷さんの息が首筋にかかる。
彼の手が私のタイトスカートを押し上げ、ストッキングの伝線を指先でなぞる。その感触は、驚くほど何も私の心を揺さぶらない。
(ああ、私、いま、すごく「三十二歳の女」をやってる)
女性目線の生々しさ、というよりは、冷徹な観察記録に近い。
彼の指が、私の一番柔らかい場所に触れる。準備不足の私を気遣うように、彼は丁寧すぎるほどの愛撫を繰り返すが、それはどこか義務的だ。
挿入の瞬間、わずかに走る鈍い痛み。それは快楽というよりは、自分の肉体がまだ機能していることを確認するための「点検」に近い作業だった。
彼の背中に回した自分の指が、汗で滑る。
菅谷さんの短い喘ぎ声が耳元で響くたび、私は天井のシミを数えていた。
愛し合っているわけじゃない。でも、独りで深夜のコンビニ弁当を食べている時よりは、マシなはずだ。
「……すず花さん、好きだよ」
果てた後の菅谷さんが、私の本名を呼ぶ。
その言葉は、彼が自分を肯定するための免罪符だ。私にとっては、明日も「ちゃんとした私」でいるための、安価なサプリメントでしかなかった。
翌日。
菅谷さんと別れ、雨上がりの街を歩いていた私の目に、その看板が飛び込んできた。
路地裏にある、古びた居酒屋。
昨日の「救い」の余韻が残る体を、冷ますために足を踏み入れたその店で。
私は、自分の人生を粉々に砕く「凶器」と出会うことになる。
「いらっしゃいませー! お姉さん、一人? 珍しいね、こんな時間に」
カウンターの中から声をかけてきたのは、まだ少年のような幼さを残した青年だった。
二十歳そこそこだろうか。無造作にセットされた髪、少し生意気そうな口元、そして――吸い込まれそうなほど純粋で、残酷な光を宿した瞳。
「……レモンサワー。一番強いのを」
「あはは、お姉さん疲れてるね。了解、サービスで濃いめにしとくよ」
彼がグラスを置くとき、細い指先が私の手に触れた。
菅谷さんの指とは違う、乾いていて、でも暴力的なほどに熱い感触。
「俺、隼人。お姉さんの名前、なんていうの?」
それが、橘隼人だった。
俳優を目指しているという彼の笑顔は、三十二歳の私が必死に守ってきた「偽りの華」を、一瞬で枯らしてしまいそうなほど眩しかった。
「北西、すず花」
名乗った瞬間、自分の中の何かが、パリンと音を立てて割れた。
菅谷さんの「下心」で埋めたはずの心の隙間に、隼人の「無垢」が、鋭い刃物のように突き刺さっていく。
それが地獄の始まりだとも知らずに、私は二杯目のレモンサワーを飲み干した。
第1話、いかがでしたでしょうか。菅谷の安定感か、隼人の危うさか……。もし良ければ、感想や評価をいただけると執筆の励みになります!




