Side:和葉 2024年4月1日(月)①
ローファーの踵が、うまく入らなかった。
指で押し込むたび、革がきゅっと鳴る。その音だけで、落ち着かない。
玄関のたたきに片足で立ったまま、私は一度だけ深呼吸をした。
台所の方から、味噌汁の匂い。湯気の湿り気が廊下まで伸びてくる。
御子神さんが、私の足元をすっと横切った。
いつもの散歩みたいな歩き方で、靴のつま先を確認するでもなく、何事もなかった顔で戻っていく。
この家だけは、いつも通りだ。
そのことが、妙に助けになる。
スマホを見ると、歩ちゃんからメッセージが来ていた。
『掲示板もう混んでるよ! 二年のところ見落とすなー!』
画面を閉じたのに、指先がまだ忙しい。
私は肩の力を抜こうとして、逆に首をすくめてしまった。
「時間、間に合うか」
声がして顔を上げると、いつきさんが台所の入口に立っていた。
仕事用のシャツじゃなくて、部屋着のまま。片手に箸を持っているのが、やけに日常的で安心する。
「……はい。たぶん」
「たぶん、は要らねぇ」
「……うん」
言い直してみても、心臓の音は落ち着かない。
去年の春、私は逃げた。
その記憶は、制服の袖口の裏側みたいに、見えないところにまだ残っている。
でも今日は、逃げない。
そのために、もうひと押しだけ欲しい。
「いつきさん」
「ん」
「……後押し、してください」
言った瞬間、口の中が乾いた。自分で言い出したのに、恥ずかしい。
いつきさんは少しだけ眉を上げて、間を置いた。
「後押しって、どうすりゃいい」
「背中……ぱしって」
「雑だな」
「雑でいいです。今日は、それで行けそうなので」
次の瞬間。
背中に「ぱしっ」と一発、芯のある音。
「よし。いってこい」
たったそれだけなのに、体の奥の固いものがほどけた。
声が、思ったよりちゃんと出る。
「……はい。行ってきます」
「おう。転ぶなよ」
「転びません」
「連絡しろ。帰りの時間とかな」
「はい」
扉を開けると、春の光が足元に落ちた。
背中に残った「ぱしっ」の熱が、制服越しにまだ消えない。
***
校門の前は、いつもより少しだけざわついていた。
始業式の日のざわめきは、喧嘩じゃないのに落ち着かない音がする。靴底が床を擦る音、笑い声、紙がめくれる音。
掲示板の前は、案の定、人だかり。
私は一歩だけ深く踏み込んで、視線を「二年」の欄へ滑らせた。
(……あった)
自分の名前の右に、歩ちゃん。左に、朱鷺子。
同じ並びを見つけた瞬間、身体の中の空気が入れ替わる。
「和葉!」
背中から呼ばれて振り返ると、歩ちゃんが手を振って走ってきた。
朱鷺子はその後ろで、落ち着いた歩幅のまま近づいてくる。
「やったね、また同じクラス!」
「……うん。よかった」
「はいはい、感動は後。教室行くわよ」
朱鷺子の言い方が、いつも通りで、笑ってしまいそうになる。
私は二人の間を歩きながら、制服の袖口を指でつまんだ。
春の光。
廊下の匂い。
去年まで“怖い”が先に来ていた場所が、今日は少しだけ違って見える。
昇降口を抜ける手前で、歩ちゃんが急に思い出したみたいに言った。
「あ、そうだ。和葉」
「なに?」
歩ちゃんが、にやっとする。
朱鷺子も、視線だけこちらに寄せた。
「お誕生日、おめでと」
一瞬、言葉が詰まった。
家では触れてないのに、ここで言われると、胸の奥がふっと熱くなる。
「……ありがとう」
「でしょー。あとで渡したいのあるんだけどさ」
「え」
「放課後ね! 放課後!」
歩ちゃんが釘を刺すみたいに、指を一本立てた。
朱鷺子が、淡々と付け足す。
「朝から騒ぐと疲れるでしょ。今日、長いんだから」
「……うん」
私は笑って、頷いた。
放課後。
その言葉が、目印みたいに前にぶら下がる。
***
体育館の床は、朝の冷たさが残っていた。
整列して、校長先生の話。顔合わせの先生たちの紹介。拍手の波が、前から後ろへ、ゆっくり伝わってくる。
私は視線を落として、スカートの端を指でつまんだ。
緊張している自分が嫌で、でも、嫌だと思えるだけ進んだ気もする。
式が終わって教室へ戻ると、担任の先生が教卓に肘をついて、黒板を軽く叩いた。
チョークを持つでもなく、いつもの調子で教室を見回す。
「はいはい、二年生になりました。……まあ、見た目は昨日と変わんないけどな」
どこかでくすっと笑いが起きて、空気が少しだけ軽くなる。
「一年の“慣れない”は、もう卒業。
三年みたいな“焦り”は、まだ先。……だから一番サボりやすい年でもある」
先生がわざとらしく肩をすくめる。
「けど、逆に言うと。自分で自分を整えられる年だ。
変な無理はしなくていいけど、崩れたら戻す。そこだけ覚えとくんだぞ」
淡々としてるのに、言葉が乱暴じゃない。
“放っておかない”感じがするのが、この先生らしい。
「じゃ、出欠取るぞー。返事だけ元気にしとけ。眠いのは分かるから」
教室のあちこちから「はーい」が返って、朝のホームルームがいつもの速度に戻っていく。
私は机の角を指先でなぞって、呼吸を整えた。
今日を、ちゃんと終わらせる。
その先に、放課後がある。




