2023年5月3日(水)
和葉がこの家に来てから、一週間が過ぎた。
朝食を終えたあと、俺はノートPCを開き、壁際のデスクに向かっていた。オンラインで進める仕事とはいえ、書類の整理や数字のチェックは意外と多く、集中力がいる作業だ。
キーボードを叩く音だけが室内に響く中、ふと違和感を覚えて、そっと視線を横に向ける。
……和葉が、じっとこちらを見ていた。
こたつに入ってノートを開いてはいるが、ページはさほど進んでいない。目線は明らかに俺の方に向いていた。
「……どうした?」
問いかけると、和葉は少しだけ驚いたように目を丸くしてから、すぐにやわらかく微笑んだ。
「いえ、集中してるなぁって……。その、頑張ってるなって思っただけです」
「……そうか。ありがと」
そう返しながら湯呑みを手に取ると、中身はもうすっかりぬるくなっていた。
すると和葉は、すっと立ち上がってキッチンへ向かい、急須と湯のみを手に戻ってきた。
「おかわり、淹れますね。今度はちゃんと温かいやつ」
「気が利くな。助かる」
そう言うと、和葉はふにゃっと笑みを浮かべた。遠慮がちに、けれど確かな嬉しさをにじませたその笑顔は、どこか犬っぽい。
(猫好きのわりに、本人の性格は完全に犬寄りだな)
キャットタワーのてっぺんでは、御子神さんがのんびりと身じろぎしている。寝返りを打つたびに尻尾だけが揺れて、相変わらずマイペースなやつだ。
(猫ってのは、まあ、こういうやつだ)
ちらりと和葉の方に視線を戻す。
ノートを開いて何かをまとめている様子だが、俺の作業の切れ目に合わせて「休憩しませんか?」と声をかけてきたり、冷蔵庫をのぞいて何が残ってるか確認していたり、気づけば猫のトイレ掃除も終えていたりする。
黙々と、こつこつと――だが決して押し付けがましくなく、自然に誰かの役に立とうとする姿勢は、まさに犬的なものだと思う。
御子神さんも、そんな彼女のことを少しずつ受け入れてきたらしい。今朝は腹を見せて、和葉の足元で寝そべっていた。
「ふふ、今日も撫でさせてくれました。進歩です」
得意げにそう言ったときの表情が、また尻尾でも生えているような喜び方だったので、思わず「よかったな」と返したら、ますます目を輝かせていた。
――猫好きの犬っぽい子と、気まぐれな猫と。
そんな組み合わせが、意外と悪くないと思えるようになったのは、たぶんこの一週間で、一番大きな変化かもしれない。
***
仕事がひと段落つくと、すでに夕飯の支度が整っていた。
「お夕飯できてます。配膳しますね」
そう声をかけた和葉は、すでにエプロン姿のまま、キッチンとこたつの間を何度も行き来していた。湯気の立つ味噌汁に、彩りの良い煮物、副菜には切り干し大根とほうれん草のおひたし。どれも品よく整えられていて、食卓に並ぶと、自然と気持ちがゆるんだ。
「今日もずいぶん頑張ったな。ありがとう」
「いえ……好きなんです、こういうの。落ち着くというか」
恥ずかしそうに言いながらも、どこか嬉しそうに笑っていた。
二人で並んでこたつに足を入れ、「いただきます」と声をそろえる。
一口、味噌汁をすすっただけで、ふっと肩の力が抜けた。出汁の香りが柔らかく広がり、煮物はしっかりと中まで味が染みている。
「……こういうの、久しぶりに食べた気がする。丁寧に作ってくれたんだな」
「えっ……そんな、大したことは……」
「いや、分かる。手間かけたって味だ」
そんなふうにひとつひとつ感想を返すたびに、和葉は「ほんとですか?」と少し顔を赤らめながらも嬉しそうに笑っていた。
普段は控えめな受け答えが多いけれど、料理のことになると、口数もほんの少しだけ増えるようだ。
「この煮物、よかったら明日のお弁当にも入れようと思ってるんです」
「お弁当……ああ、そうか。明日、出社だったな」
「はい。ご飯炊いておけば、あとは簡単なもので……」
「じゃあ、それは甘えておこうかな。助かる」
こたつに座って他愛もない会話を交わしながら、日常の中に小さな“共同生活”の輪郭が浮かんでくる。
ふと視線を向けると、こたつの反対側で和葉が黙々と食べている。姿勢よく、箸の持ち方もきれいで、どこか几帳面なところが垣間見える。
その様子を見ているだけで、不思議と心が落ち着いていく。
***
俺は風呂は夜の楽しみのひとつとして、いつもゆっくり入る派だ。なので一番風呂は和葉に譲り、いつものんびりと湯船に浸かっている。すると、ふいに脱衣所のほうから声がかかる。
「いつきさん……着替え、ここに置いておきますね」
「ああ、ありがと」
戸のすぐ外で、そっと何かを置く気配がした。しばらくして足音が遠ざかっていく。
こういうさりげない気遣いを、自然にやってのけるあたり、本当に細やかな子だと思う。
風呂を出ると、脱衣所のかごにきれいに畳まれた部屋着が用意されていた。
部屋着に着替え、リビングに戻ると、こたつの上に麦茶の入ったコップが一つ、さりげなく置かれていた。
「ここまで至れり尽くせりだと……ありがたいけど、人としてダメになりそうだな」
そう呟きながらひと口。
よく冷えた麦茶が喉を潤し、湯上がりの熱が心地よく引いていった。
***
灯りを落とすと、オレンジ色のやわらかな光だけが残って、部屋の空気が急に穏やかになった。
二組の布団は、いつもと同じ位置に並べて敷かれている。
和葉は先に布団に入り、静かに呼吸を整えているようだった。俺も横になり、天井をぼんやりと見つめながら口を開く。
「なあ、最近……ちょっと世話焼きすぎじゃないか? 無理してないかって、思ってさ」
和葉の布団の中で、ほんの少しだけ動く気配がした。
「……好きでやってるので。やらせてもらえるのが、うれしくて」
「でもな、自分の時間も大事にしろよ。こたつでマンガ読んだり、スマホいじったり、ボーッとするのも必要だぞ」
「……はい。でも、いつきさんに“ありがとう”って言ってもらえるのが、すごく嬉しいから……」
声が、ほんの少しだけ震えていた。
それを聞いて、こちらも言葉を飲み込む。
彼女にとって「頼られること」や「役に立てること」が、今は心の支えになっているのかもしれない。
「……じゃあ、ありがとう。今日も助かった」
「……えへへ……はい」
布団の中から聞こえる小さな笑い声が、やさしく闇に溶けていった。
その音を聞きながら、俺はゆっくりと目を閉じる。
明日も、こんなふうに日々が重なっていけばいい――そう思いながら。
しばらくは、同居生活の中で生まれる日常の小さな出来事を、1話ずつ描いていこうと思います。
1日1エピソードのような短編的なスタイルで、少しずつふたりの距離が縮まっていく様子を見守ってもらえたら嬉しいです。
....と思っていたんだけど、随分と今回も長くなってしまったよ。
お陰で今日もこんな時間だよ....
今回もご覧いただきありがとうございました。




