2023年4月26日(水)③
ただいま、の挨拶とともに家へ戻ると、和葉はすぐに荷物を片付け始めた。
渡した鍵には、あの三毛猫のキーホルダーが付いていて、ポーチの中に丁寧にしまわれていた。
「荷物、こっちに置いておきますね。あと、エプロンって……借りてもいいですか?」
「キッチンの引き出しにある。好きなの使ってくれ」
「ありがとうございます」
そう言って立ち上がった和葉は、ふと髪をまとめるために髪ゴムを取り出す。ぱたぱたと軽い足取りで洗面所へ向かい、戻ってきたときには髪を高めの位置でひとつに束ねていた。
ふわりと揺れるポニーテールは、年相応の少女らしさを際立たせる。見慣れてきたはずの後ろ姿に、ふと新鮮な印象を覚えてしまうのは、単なる趣味のせいだろうか。
エプロンを取り出すと、和葉は首に通し、背中で紐を結ぶ。結び目をキュッと引いて整える仕草には、どこか背筋が伸びるような初々しさがあって、思わず目を奪われた。
手早く着替えると、和葉は台所に向かっていた。袋から食材を取り出し、野菜の皮をむき、包丁の音がまな板にリズミカルに響き始める。
俺はその間、ノートPCを広げて、軽くメールチェックと明日の予定を確認しておくことにした。しかし、ときどきふと横を向くと、和葉の背中が視界に入る。集中しようとしても、どうにも意識がそっちに逸れてしまう。
手際はかなりいい。材料は無駄なく切り揃えられていて、火加減も落ち着いてしっかり見ている。調味料の配置もしっかり把握したようだ。都度手を拭いたり、洗い物を並行して進めたりと、丁寧な性分がよく分かる。
火を止めるタイミングで、ふっと香ばしい匂いが広がる。出汁の香りと煮物の甘辛い匂いが部屋を満たし、気づけば腹の虫が主張を始めていた。
「できました。配膳しますね」
俺も立ち上がり、こたつの上に箸や湯呑みを並べる。茶碗を手渡すと、和葉が柔らかく笑って受け取った。
二人向かい合い、こたつに足を入れて座る。メニューは煮物、ほうれん草の胡麻和え、冷や奴、そして味噌汁。品数は少ないが、どれもほっとするような匂いと色合いだった。
「いただきます」
声をそろえて手を合わせた。
一口食べて、箸が止まる。優しい味だった。味噌汁の塩加減もぴたりと決まっていて、煮物は出汁がしっかり染みているのに野菜の食感もしっかり残っている。
「……うまいな。なんか、実家思い出す」
「ほんとですか? よかった……ちょっと味付け、心配だったので」
うれしそうに笑ってから、和葉は小さく「もう少し甘くしてもよかったかも」とつぶやいた。そんな独り言にも、生活の息づかいがあって心が和む。
こたつに座って二人でごはんを食べる――それだけのことなのに、どうしてこんなに安心できるんだろうか。隣にいる誰かの存在が、空気をこんなにも柔らかく変えるなんて。
***
食後の食器を重ね、俺が立ち上がろうとすると、和葉がすっと手を出した。
「大丈夫です、わたし、慣れてますから。食器洗い、好きなんです」
「手伝おうかと思ったんだけど」
「……見ててくれたら、それで十分です」
そう言って、エプロンの紐をぎゅっと結び直す。
皿を洗う後ろ姿はどこか誇らしげで、時折ふわりと鼻歌が漏れるようになったのも、ここに来てから初めてだ。
俺はこたつに腰を下ろし、湯呑みに温かいお茶を注ぎながらその背中を見つめていた。
***
風呂から上がると、室内はすでに照明が落とされていた。布団は並べて敷かれ、窓の外からの街灯の明かりがほんのりと室内を照らしている。
寝巻き姿の和葉はすでに布団に入っていて、三毛猫――御子神さんはキャットタワーのてっぺんで、まるで定位置かのように眠っていた。
「電気、落としといた方がいいかなって思って……」
和葉の小さな声が、布団の中から届いた。
「ああ、助かる」
タオルを手に、髪をざっと拭きながら布団に向かう。布団の端に腰を下ろしつつ、隣の和葉をちらりと見ると、眠っているわけではなさそうだった。目は閉じているけれど、微かに動くまつ毛や、ぴくりと揺れる肩が、彼女がまだ起きていることを物語っていた。
「……和葉。お前、家では布団だった? それともベッドか?」
一瞬の沈黙ののち、少し迷ったように答えが返ってきた。
「えっと……布団、でした」
「だろうな。ベッドだったら毎日落ちていたと思う」
「え……?」
「昨日、夜中にお前の足が俺の腹に直撃したんだよ。思いっきり」
「……っ! や、やっぱり……す、すみません……!」
慌てて布団の中から顔を出し、真っ赤な顔で謝る和葉に、つい笑ってしまいそうになる。
「気にすんな。無事だったから。ていうか、頭と足の向きも逆になってたしな。見事に」
「うぅ……」
「寝相が悪いのは、元気な証拠だ」
「フォローになってません……」
口を尖らせながらも、どこか安心したような声音だった。
その様子に、ふと考える。
「……なあ、距離、もう少し離した方がいいか?」
俺の方からそう切り出すと、和葉は布団の中で少し動いた気配がして、そっと答えた。
「……その、もし迷惑じゃなければ……近くの方が、安心するかもです」
暗くて表情は見えないけど、その声の調子から、きっと頬が赤くなっている気がした。
「そうか。じゃあ、このままでいいか」
「……はい」
「でも、今夜は蹴らないように頼むぞ。俺の身のためにも」
「努力はします……」
「よし、期待してる」
笑いを含んだ声を返すと、布団の中でくすっと小さな笑い声がした。
この一日の終わりに、ようやく心が少し緩んだ気がした。
「いつきさんって、やっぱり……優しいですね」
ふいに、そんな言葉が落ちてきた。
「……そんなことない。むしろ慎重すぎて、心配ばっかりしてる」
「それでも、いつきさんみたいな人がいてくれて、よかったって思ってます」
静かな寝息が聞こえるわけでもないけれど、和葉の言葉のあとには、自然と沈黙が流れた。
それが妙に心地よくて、俺は目を閉じる。
今日も、きっといい一日だった。
深夜にならないとテンション上がらない性分をなんとかしたい。
今回もご覧いただきありがとうございました。




