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信心3



 呆けたまま窓の外を見る。外は雨が降りしきっていた。

 昼から降り始めたこの雨はやむ気配を一切見せず、道路に川を、低地に池を作り始めていた。窓からは学校帰りの生徒達が憂鬱そうに下校する姿が見える。


「タツコ、サインペンって持ってない?」


 自習室で一緒に勉強していたキョウコが言う。

 私は鞄から太いペンなどが入っている筆箱を漁るも、見当たらない。


「あ、教室に置いてきてしまいました」

「あらら」

「サインペンなら、確かそこの棚にあったと思います」

「んあ、あったあった。私これ書いたら帰ろうかと思うけど、タツコどうする。雨凄いけど。迎えとかは?」

「ありませんね。今から教室から筆箱をとってきて、それから帰ります」

「そっかー。んじゃね」

「はい。また明日」


 荷物を片づけ、自習室を出る。明日は小テストがある為、今日は帰ってからも勉強だ。


 高校二年生の冬。

 もう将来の事を考えて勉強に勤しむ人も増えて来た。ここは普通科で、偏差値も高くないありきたりな高校であるから、何にしても、ガツガツやる人間は少ない。


 私などは普通を絵に描いたような人間である為、将来も漠然としているし、彼氏もいない故に未来予想図のようなものを夢想的に描いたりもしない。


 時折、自分がツマラナイ人間だと思う。


 突出した才能はないし、美貌が殊更優れている訳でもなく、多少痩せすぎているというコンプレックスもある。私は面白味を求められると対処しようがない人間だ。


 ただいつも、それはそれで良いじゃないかという結論で落ち着くのだ。


 普通が一番、目立つ事無く、持て囃される事無く、問題無く恙無く歩める人生は、思いの外望んでも手に入らないものだと、祖母に聞いた事があったからだろう。


 贅沢な身の上だ。

 普通に生きて、普通に結婚して、普通に子供を産んで、普通に人生を全うする。その上で必要なパートナーだが……。一応、気になる人物はいる。


 中学からの同級生で、瀬能というクラスメイトである。

 彼も絵に描いたような普通で、特筆すべき点が見当たらない。


 勉強は中、運動も中、顔も中、女子の仲間内での評価も中、そういった意味で、今後の人生設計に役立っていただきたい人物だ。


 周りに彼氏がいるから自分も、というバイアスが多少なりともかかっている自分は、実にイマドキの若者の例に漏れない、つまらなさ具合である。


 だからつまるところ、大恋愛だとか、彼を思うと胸が苦しいのとか、そんな事は一切ない。

 私は乙女として何かしらの要素が欠けているのだろう。人間誰しも自分が一番可愛いとはいえ、私の自己愛は普通より強いのかもしれない。


 一つの情緒が偏る事によって何かが欠乏する事実は、私という人間を形成する上で非常に大きな影響があっただろう。


 普通が良い。


 そうだ、平均で、均整がとれて、平等で、凹凸が無く滑らかな球体のような人生が、好ましい。

 だからこの自己愛は、少し余計なのだ。


 降りしきる雨音に混じり、廊下には自身の足音と、吹奏楽部の試奏が遠くから響く。私はこれから教室に向かい、筆箱を取って、家に帰るのだ。今日ぐらいはタクシーを使っても、怒られないだろう。


 教室が迫る。教室のドアは開いており、中から少しだけ明りが洩れていた。

 ふと、足が止まる。何故止まったのか自分でもわからない。


 酷いデジャヴュに襲われて、私は壁に手をついた。

 この先に行ってはいけない。行ってしまったら、普通でいられなくなってしまう。


 何の根拠も無い不安、意味不明な焦燥感が心の大半を埋め尽くす。

 私は一歩足を進める。


 しかし一歩進めると、まるで足は鉛のように重くなった。

 もう一歩進める。


 すると今度は身体が鉄になってしまったように動かなくなる。

 頭の奥底で、誰かが呼ぶ。そっちに行ってはいけないと引き止める。


「――あ」


 廊下の先、その先には、本来何があっただろうか、良く覚えていない。

 しかし今私が観ているものは光であり、荒唐無稽で、しかし確固とした存在感を示していた。

 光の中に影が一つ浮かぶ。それは幼い少女の形をしていた。


 今の私が知る筈もない人。

 未来の私が愛してやまない人の影だ。


 私は教室を目指す事を止め、光に向かって歩み始める。するとどうだ、重かった筈の身体はまるで鴻毛の如く軽くなるではないか。


 光に向かって、少女に向かって手を伸ばす。

 教室を通り過ぎ、その先にいる彼女に手を伸ばす。


 もう少しでその手が触れ合おうとした、その時。全ての光が遮断され、私は真っ暗な場所へと落とされた。


 声の無い私の絶叫が、その暗黒に全て呑みこまれて、私も消えた。


 ……。


 ……。


「……うわ」


 身体を起こす。酷い寝汗をかいていた。

 携帯に手を伸ばして時間を確認すると、既に午前十時を回っている。引きこもってからも規則正しい生活を送っていた私からすると、かなりの寝坊である。普段は八時には目を醒ましている。


 目を擦りながら廊下に出ると、丁度洗濯物を干そうとしていた母に出くわす。


「おはようございます」

「おはようございます。朝食の時間になっても起きていない様子でしたから、声をかけようか迷って」

「すみません。まだ、ありますか」

「ええ。整えてから、食べてください」


 私が引きこもりを止めると決断してから三週間が経つ。


 私は時折嘔吐したり、精神的圧迫から妄執に囚われて鬱に引きこまれたりしながらも、順調にリハビリを繰り返していた。


 私が外に出るようになってからというもの、何もかもが目に見えて好転しているように思う。

 母は以前よりずっと明るい顔をするようになったし、父も少し無理をして帰宅して食事を共にするようになった。同時にそれは家族の会話が増えるという事であり、コミュニケーションは健全に保たれていた。


 この三週間で、私が母と父にどれだけ心配されていたか、改めて思い知る事になった。

 親の心子知らずと初めて言った人も、もしかしたら同じような境遇だったのかもしれない。


 洗面所で顔を洗い流しながら、先ほど見た夢を思い出す。

 学校生活の夢を見るなど、久々だ。ただやはり夢は夢、整合性は無く、私の暗い性格に合わせたような薄暗さであった。


 夢の中にまでカナメが出て来る辺り、実に度し難い精神性である事は疑いようも無い。

 彼女とコミュニケーションを取らなくなってもう三週間だ。


 今、彼女は何をしているだろうかと考えると、何故だか少し不安だった。時折、様子を見に行っても良いのではないか、などと考えてしまうほどであるが、約束は守らねばならない。


「そういえば、今日はお友達が、いらっしゃるとか」


 リビングでスクランブルエッグを突いていると、洗濯物を干し終わった母が話しかけて来る。その通り、今日は彼女が来る。


「お構い無くどうぞ。あれは気を使われると難しい顔をする人ですので」

「そうはいっても、タツコさんがお友達を連れて来るなんて、高校生の頃だってありませんでしたし」

「大丈夫です。恐らく外に食べに出るので、お昼は良いです」

「そうですか。解りました」


 ただ単に、彼女は携帯ゲームのマルチプレイを面と向かってやりたいだけなのだ。ネットで良いじゃないかと進言したのだが、ネット中毒の彼女がそれを否定するというのだから頭を抱えてしまう。じゃあホテルで良いかとと言えば、今度はウチに来るというのだから腹が痛い限りだ。


 自宅に人を呼ぶのは恐らく中学生以来であるからして、これは旗本家的珍事である、母が気を使いたがるのも頷けた。


 しかし、今日は寝坊だ。こういう日に限って寝過ごすというのだから、私の緩み加減が窺える。

 これも、精神的に余裕が出来たからこそなのだろうか。


 とにもかくにも準備である。食器を下げて早速支度に取りかかる。

 部屋に戻って服を着替える。今日は秋にしては少し気温がある為、あまり厚着はしたくないのだが、肌を露出させる事にまだまだ抵抗がある。薄手のモノを選び、せめてもの清涼感対策として色は明るめのものを選ぶ。


 髪を弄りながら整えていると、多少の引っかかりを覚えた。

 流石に素人が整えただけあって不揃いが多い所為だろう。しかし美容室は厳しいのが現実だ。ハナエに相談してみるのも良いだろう。


「ん……まあこんなカンジかなあ」


 三週間毎日手入れをするようになってから、当時の勘が戻って来たとみえて、朝の支度も手慣れたものになってきた。やはり何事も習慣化である。


 携帯を確認すると、そろそろそちらに行くという旨のメールがあった。

 毎回の話だが、彼女は自分に自信があるらしく、写真を添付してくる。投げキッスからちょっとエッチなものまでだ。まったくもって恐ろしい。


 しばらく手持無沙汰にしていると、やがてインターホンが鳴る。

 母が受け答えて正面玄関をアンロックして直ぐ、彼女はやってきた。


『あいや、どうもどうも。大武です。あ、これどうぞ。詰まらないものですが。いえいえいえいえ』


 彼女の調子の良い口調が聞こえる。あれが本当に引きこもりをしていたとは思えない。実際のところ最初から嘘を吐かれていた訳であるし、彼女の経歴とて嘘塗れかもしれない。


 とはいえ、彼女の過去が私に何か関連するかといえばしないので、追及はしない。


「こんこーん。しつれいします」

「口で言うんだ」

「お。いたいた。うわ、何も無い部屋」


 失礼千万な話だが、実際私の部屋は必要最低限のものしか置いていない。

 引きこもっていようと生憎育ちは良いのだ、あちこち散らかしていたりはしない。


「地べたに座るなり、椅子に腰かけるなり、好きにして」

「友達の家って久しぶりー。あ、なんかタツコの匂いする」

「へ、変態」

「変態頂きました。よっこらせっと」


 ハナエは小脇に抱えた肩掛けカバンを放り投げると床に直接腰かける。残念ながら来客を想定しない我が家に座布団なる気のきいたものは存在しない。


 ハナエは辺りをキョロキョロと見回してから一人納得して私を見る。


「ここに二年半も隠れてたのか」

「確かに、改めて考えると、面白味の無い部屋だし、良くもまあ二年半も居たと思う」

「ま、いいんじゃない。まだ若いし。仕事してないったって、江戸時代の若者なんて定職持っている方が珍しかったんだ。女なんてもっと。強要される自立への反逆と考えるとカッコイイな」

「詭弁すぎる」

「人が資源である我が国では、労働こそが全てだからね。不真面目になった日本ってどんなもんだろうか。まあ、にしたって労働時間多すぎると思うがね」

「それで、社会時事について話に来たの?」

「恋愛トークの方が良い? えっちな話でも良いけど、お酒が無いな」


 ケラケラとまあ、調子の良いものだ。とはいえ、からかわれているという事もない。これほど話していて苦にならない人間もいないだろう。私はずっと他人様に敬語調で喋っていたし、この口調はほぼハナエにしか使わない。チャットではこの口調だったからだ。


 私は携帯を手に取り、未だ部屋をキョロキョロと見ているハナエの写真を撮る。


「うわ、なに?」

「なんとなく」

「写真ならいつも差し上げちゃってるじゃない。自分で撮ったのが欲しいって、やだな、愛されてるのかしらん」

「勘弁して」

「ぶふふ。ああそうだ、私も撮って良い?」

「悪用しないでね」

「するかい。アンタの認識改善だよ」


 そういってハナエは私に立つように指示する。

 私は部屋の真中に立ってシャッターを切られるのを待つのだが、人様に写真を撮られるなど一体いつブリだったか、気恥かしいったらない。


 ハナエは携帯ではなく、タブレット端末を持ち出した。


「撮れた。可愛い可愛い。宝物にするかね」

「で、撮ってどうするの」

「まあまあ」


 ハナエのタブレットを脇から覗きこむ。

 彼女のアルバムにはファッションモデルの全身像が沢山収められている。何がしたいのかイマイチ解らない。


「えーと、写真切り抜いて、白背景にあわせて……おう出来た」

「私のコラージュとか、悪質すぎやしない?」

「これらの写真と並べてみるぞ。ほれ」


 ファッションモデルが並ぶ中、私の切りぬきコラ写真も並べられる。パッと見るとそんなに違和感はない。自分が自分であるという認識を持たなければ、モデルの中の一人と言われても納得するだろう。


 なるほど、だから認識改善か。


「うは、自分でやっといてなんだが、違和感なさすぎて草まみれ」

「スラング出てる」

「失敬。しかしさ、自分で痩せすぎてるって言うけど、並べたら対して変わんないだろ?」

「んー……そうかな。でもほら、二の腕とか棒きれみたいだし」

「ほらこれ。これアイドルな」

「ほそ」

「細い細い。自分でも経験ないか? 痩せてるって女の子達に持て囃されただろ」

「まあ……うん。あるね」

「自身を客観的に見つめるってのは、酷く難しい事だ。それがトラウマならなおさら。ここ最近、自分の全裸を見た事は?」

「ない。怖いもの」

「だあよね。まあでも、少しずつ直視出来るようにしないと、辛いぞ。いざ裸にならなきゃならない事態は、生きている上で必ずあるだろうしな」

「人前で裸になることなんて」

「好きな人とエッチする時服着てするのか。マニアックだな」

「出来れば電気消した上で服着たまま触れないでしたい」

「それはえっちじゃないですタツコさん」


 身体を人様に許すような事態、果して未来にそんな事があるかどうかは別として、確かに困るだろう。服を着ている状態ですらコレなのだから、裸なんてもってのほかだ。羞恥心ではなく恐怖である。


 裸にならないにしても、服を選ぶ時とて辛いだろう。

 何にせよ、クリアしなければいけない問題が多い。


 カナメには、一か月ほど離れてみようという提案を受けて現在いる訳だが、私の成長はどの辺りから合格ラインなのだろうか、そこを聞くのを忘れていた。


 一先ず、外には普通に出られる。飲食店は厳しいものの、人通りの少ない所を歩いて回る分には問題ない。


 いきなり男性に話しかけられたりしない限りは、買い物も可能だ。その他諸々は、ハナエと試行錯誤中である。


「でもほら、アンタの愛しい人とは、最終的にそうなる訳だろう?」


 カナメが何の躊躇いも無く私に裸を見せた事は鮮烈に記憶している。ではいざ私が脱げと言われた場合、カナメの前で脱げるだろうか。


 ……いやそもそも、相手は十歳である。色々と不味い。


「十年は、待たなきゃいけないかな」

「……えっとな。チャットでさ、十歳とか言ってたけど」

「十歳だよ。あ、詮索はしないで。不可侵なの」


 ハナエが小首を傾げて眉を顰める。当然の反応と言えよう。

 言うつもりは無かったが、別段と隠す必要性もないので喋ったまでだ。


 だが、どうも。ハナエの反応がいつもと違う。非常に複雑な表情だった。


「タツコの心の支えが、子供?」

「悪い?」

「いや、いいけど。差支えなかったら、どんな人物像かぐらいは聞いても良いかい」


 どう説明するべきだろうか、少し躊躇う。

 仕方なく、私が彼女と出会った経緯から、現在に至るまでの概要を説明する。細かいところは当然省いた。


「なるほど。外に出ようと思ったのも、今こうしているのも、その子のお陰っと」

「ハナエから見て、私は少し成長したかな」

「一般人名乗るにゃ早いが、まあ引きこもってるよりは余程だな。ふーん、しっかし、ロリコンだったとは」

「そういう話はしないで」

「現実問題として、生き難いだろ。手出したら犯罪だしな。あ、だから十年か」

「あまり茶化さないで。どうあろうと、私の拠り所なの」

「いっちゃなんだが、その信心は壊れやすいぞ」


 ハナエはそう言ってから、私の座っているベッドの隣に腰かける。


「尊敬してるとか、凄く好きとか、聞く限りではその次元にない。アンタの話だと、宗教のそれに近い」

「まあ、否定しないけど、何が悪いの」

「信心というものは、大体不変のものを信仰する事から産まれる。我が国ならば自然そのもの、もしくは既にこの世に無く六道から脱した仏様。西洋ならばキリストのオッサン、もしくはヤハウェ。他の神様だって大体概念となり果てて、人間が認識する限りは存在する、という変わらないものばかりだ。それは解るな」

「まあ、うん」

「凄く好きとか尊敬してるとかなら、いざ幻滅されるような事されても、まあ立ち直りが出来る。他の依存する対象を探せばいいだけだ。だが信心は違う。己の心の拠り所、己の在り方そのものを定義するそれは、他に代えが利かないんだ。アンタ、その子が変質してアンタの抱く信心の定義から外れて、信仰するに値しなくなった場合、他の神様拝めって言われて、拝めるか?」

「極論すぎて、比べられないよ、そんなの」

「そうでないぞ。そもそも少女というのは成長する。一か月も観なかったら他人かもしれない。引きこもりを面白がって弄っている間は良かったが、他に楽しい事を見つけた場合、すぐ乗り換える。アンタはその心の拠り所を、宙ぶらりんにするだけになるぞ」

「そんな言い方ないでしょう」


 彼女の言いようが乱暴に感じて、思わず声を上げる。しかし彼女の表情は揺るぎない。


「私はアンタに敵対しようとか、アンタの好きなものを引っぺがそうとか、そんな事の為に言ってる訳じゃない。私みたいなボンクラの話を、信じて聞いてくれとも言わない。ただ、留めるだけ留めておいて欲しいんだよ。なあ」

「逢った事もないのに、そんな事いう人」

「おかしいと思わないか。なんでそんなに激昂する必要があるのか。後先見えてるか?」


 そのように言われ……私は、一端自身の態度を客観的に見つめる。

 私が信じる彼女を馬鹿にされたような気がしたから、怒った。それは良い。


 ただ、それでこの人と敵対して、何の得があるかと言われれば、皆無である。

 彼女自身も別段と、カナメを馬鹿にしている訳ではなく、カナメを信仰する私について語っているだけだ。


 一つ大きな溜息を吐く。


「ごめん。うん。違うね」

「素直で良い子だなあ。自身を省みる事が出来るのは、良い事だ。世の中それが出来ない奴で溢れてる。アンタと並べる訳じゃないが、私の母親の話だ」

「……何」

「私の母親はとある宗教に入れ込んでね。大事故にあった後も、信心を理由に長期的な治療を拒んで、歩けなくなった。家族大崩壊の理由だって大体ソレさね。私は全部に見切りを付けて、下ろしてきた大枚顔面に叩きつけて、出てきてやった。良いか、金が無い事も不幸だが、信心で周囲が見えなくなった人間は、それだけで不幸を齎すぞ」


 どこか思いつめたような表情で語る彼女の言葉に、嘘は感じられない。へらへらとした彼女には、似あわない表情だ。彼女の言い分は解る。勿論、私のカナメに対する信心が私の家族を崩壊させるとも思えないが、彼女の経験上、それだけ心配しているのだろう。


 私はカナメが愛しいし、彼女の望みならば全て叶えたい。

 しかしそれは、そうだ、彼女が居てくれると信じているから、彼女が私を迎えに来てくれると信じているからこそだ。


 カナメを信心するあまり、彼女がただの人間で、そして少女であるという事がすっぽり抜けていたように思う。この心を捨て去るのは厳しいだろうが、確かに、考慮しなければ今後、手ひどい目に逢うかもしれない。


「――その」

「この世の中、絶対は無い。気持ちなんて直ぐ裏切られる。心なんていつ砕けるか解らない。それは、アンタが一番知ってる筈だ。そうだな……あとは、急に近づいて優しくしてくれる奴も警戒した方がいいな?」

「それ貴女じゃない」

「あはは。うん。まあ、私も信用しちゃ駄目だぞ。そんな奴部屋に入れるなんてもっての外だし、ましてベッドに並べるなんて、淑女のする事かね……あだっ!?」


 私は、無言で彼女をベッドから下ろす。彼女はふざけた調子でフローリングに転がって行った。


「はは。そもそも、アンタの何処を貶めて私に得があると思うかね。むしろ、恩を売って取り入った方が得多いからな」

「どういう事」

「そんなん、アンタは身一つしかないでしょ。御金は私の方が持ってるんだし」

「それ、私が好きってこと?」

「ま、隠してもしょうがないな。いや、毎回言ってるよな。そうだよ。それ以外に何かあると思うの?」

「理由が解らない」

「好意は論理からしか産まれないのか?」


 彼女は小首を傾げる。さも当然のように、そのような事を言うのだ。まして同性からである。

 私は、目が泳ぐ。


 どこに視線をあわせたら良いか解らず、手も足も落ち着かず、震えてしまう。

 何か、今まで覚えた事もない感情に揺るがされているような気がしてならない。


 ちょっと待ってほしい。


 何で今そんな事をいうのか。どうしてそうなるのか。


「うわ、動揺するタツコ可愛いなぁ」

「ば、う、ウソでしょ。止めてよ。マトモに見られなくなるでしょ」

「軽い気持ちで良いさ。実際それだって二の次なんだよ。邪魔だってなら、私は消える覚悟さ……あ、ベランダで一服しても良いかな。灰皿はある」

「……どうぞ」


 ハナエが煙草と携帯灰皿を持ってベランダに出て行く。私は彼女が一服する姿を、窓越しに眺めていた。


 産まれて初めて、面と向かって、人に好きだと言われた。この場合、カナメは含まれないだろう。あれは愛してやまないが、モノが別である。


 ハナエは人だ。神でも王でもない。

 チャットで知り合って、無理矢理逢いに来て、無理矢理私の世話を焼いて、私もまんざらでなく居る。彼女は無償で何かを求めていた訳ではなく、私を求めていたのだ。


 人に求められる事が、過去どれだけあっただろうか。比べるモノが無さ過ぎる。

 それに今、別段と、悪い気がしないのも事実である。


 ハナエは都合が良い。


 ハナエは優しいし、色々教えてくれる。


 時折鼻に付く言い方もするが、何もかもが好ましい人間など、居る訳がない。そういう鼻に付く点を加味したとしても、私は彼女が、嫌いではない。


 なんだか酷い罪悪感がある。

 これではまるで、金持ちを良いように使う悪女ではないか。


 複雑な感情が混じり合い、脳をチリチリと焦がす。胸元も何だか熱く、私は服で仰ぐ。

 窓越しに見える彼女は、二本目に火を点けた。もしかすれば、彼女なりに、今の告白は踏み込んだもので、動揺があり、それを誤魔化しているのではないか。


 全部憶測で、全部妄想だ。

 ただ、私は……鏡を見る。


「……なんで嬉しそうにしてるの、私。馬鹿」


 まさかここまで『出来あがった』人間であるとは、思いもしなかった。

 女に好きと言われて顔を真っ赤にして喜ぶ馬鹿だとは思わなかった。


 自分に幻滅する。

 酷い話だ。


 私にはカナメがいるのに、他の女にウツツを抜かして舞い上がるなんて、実に浮気者である。

 私は立ち上がり、ベランダに出る。ハナエは三本目に火を点けた所だ。


「煙たいよ」

「別に」

「ふっ。ん。何かあった?」

「自分の家のベランダに出たら駄目なの?」

「……あー……その。なんだ」

「良い。言わないで。私、貴女とは付き合わないから」

「そっか。実に、残念無念だ」

「厳密には、付き合えないの。私には十年後、救済が舞い降りるのだから」

「中東の某宗教じみた話だ。死後に処女が待ちうける奴」

「私が好き?」

「――うん」

「じゃあ好きなままで居てよ。私の救済、降りてこないかもしれないから」

「あっちゃー。保険か。その考えは無かったわ。まさかのストック扱いだわ。二号だわ」

「都合の良い人。優しい人。それに酷い人」

「好きなもの手に入れようと思ったら、あるもの使うだろ」

「部屋、入って」


 ハナエを部屋に入れる。私はベランダのカーテンを閉め切り、部屋の鍵をかける。

 電気を消して、ハナエの前に立つ。


「……タツコ?」

「私、弱いから。私が貴女と付き合えなくても、貴女がいないと、不便なの」

「う、うん」


 彼女に背を向ける。私は、震えた手つきで、自分の服に手をかけた。

 迷っても、考えても、言葉にしても、伝わるものではないと思ったからこその、行動である。


 頭がぐらぐらする。


 恐怖と、羞恥心で押しつぶれそうになるが、しかし、私にはコレしかないのが現実なのだ。

 この先、外からの協力なく、私のような精神薄弱の引きこもりが、外を大手を振って歩ける訳がない。


 彼女は私を好きだと言う。

 私だって嫌いではないが、私は彼女に心を許してはあげられない。


 彼女の一部でも望みを叶えて、私の社会復帰に協力してもらおうとするならば、支払うものがなければいけない。


 無茶だと解っている。

 こんなのおかしいだろう。


 でも仕方がない。

 私は弱いのだから。


「あ、ちょ、タツコ、む、無理すんなって」

「死ぬほど恥ずかしいし、怖い。こんな貧相な身体、見せつけられても、困るかもしれないけど、貴女の言う通り、私はこの身体しかないの。こんな身体でも、都合の良い貴女を引き止められるなら」

「いい、良いから……滅茶苦茶震えてるぞ。やめろ」


 振り返る。彼女の目に、私の身体はどのように映っているだろうか。


「やる事、極端だよな、案外」

「だって、他に差し出せるものがない……うっ……うう……」

「どこの借金取りだ私は……ああもう、良いから、服着ろ服」

「でも」

「いいってば! 都合良くいてやるから!!」


 ハナエが服を拾い、私に預ける。全裸のまま、こんなに人が近くにいるのは、初めてだ。

 ハナエは、ほんの少しだけ悲しそうな目をしてから、そのまま私を抱きしめる。私なんかとは違う、ずっと女性らしい身体だ。


 カナメに裸のまま抱きしめられた事を思い出す。

 あの抱擁は、生涯忘れ得ない、私のあらゆるものを許すものだった。ハナエのこれは、どうだろうか。


 ……上手く、考えられない。


「言ったろう。救われたのは、私なんだ。それを返しに来てるだけだよ。アンタが嫌だ、邪魔だと言わない限り、手伝うさ。だから私を、そんな、安い女だと、思わないでよ」

「……け、結構高かったんだけど……」

「そういう意味じゃないよ。アンタの身体はシミ一つなく綺麗なもんだ。アンタぐらいの痩せてる奴、どこにでも居る。だからそう卑下すんな」

「で、でも。しないのでしょう?」

「親いるだろうが……ましてそんなガチガチで何楽しめるんだよ……ああもう、じゃあ、一つだけ貰うから」

「な、なに?」


 ハナエの顔が迫る。私は目を瞬かせた。ほんの一瞬だけ、唇が重なる。


「これだけ貰う。どうせ初めてだろうし、やったね」

「……酷い。カナメ様のモノだったのに……」

「身体は良いのかよ……ああもう、なんだか、アンタ、愛しい程馬鹿だな……贅沢で、ワガママで、とんでもない女だよ」

「ごめん」

「いいさ、いいよ」

「……うん」


 カナメとは、やはり違う。母とも違う。もっともっと、異なる接触だった。

 私はハナエに諭され、服を着る。やはり緊張と恐怖からか、そのあとも暫く震えが止まらなかった。しかし、隣に腰かけたハナエが、私の手を強く握ってくれている。


 恐ろしかった他人の手が、今は心強く感じられる。私自身のクズっぷりすら許容しようという彼女の、その利害を超える感情を不可思議に思いつつも、頼れるものがまだ近くにいてくれるという、実に都合の良い条件が私の精神を安定させる。


 もし、これがネットで男女の体験談として乗っていたのならば、私はきっと『酷い女だ』と口にしただろう。他人様の条件に見合わない条件を提示して相手を引き止めるクズだ、一体どんな教育を受けたらそんな事が口に出来るんだろうか、お里が知れる、などと呆れたかもしれない。


 だが、今、それが自分なのである。

 なるほどだ。弱い人間ならではの、酷さなのだろう。


「落ち着いたか?」

「うん」

「無茶するね。ついこないだまで顔見せるのだって嫌がったクセに、まさか裸晒すとは」

「ごめん。貧相で」

「だからやめろって。綺麗だよ凄く。私は好き」

「えっち」

「もーどっちだよ……ひでェ女だよ……」

「捨てないで」

「あのさ、ワザと言ってるだろ」

「……ふふ」

「ミイラ取りがミイラになるとはよく言ったもんだな……アンタは自覚ないかもしれんが、ありゃずるいぞ」

「他の人に出来る自信は一切ない」

「ま、特別に見て貰ってるって事で、今は納得しておくか。機会は窺うにしても。恩人だから、アンタは」

「改めて、聞いてもいいかな。なんで、恩義なんて感じてるの」

「ちょっと長い話になるな。良いなら話すが」

「時間あるもの」

「そうだった……そうだな。時間、手に入れたんだ。余るぐらい」


 ハナエは物憂げに言う。

 握っていた私の手を離し、彼女は私の後ろに回る。話している間、顔を見られたくないのかもしれない。


「くっついても?」

「いいけど」

「今はアンタを縋らせたけど、これ話す場合、私が縋る事になるな」


 後ろから手を回された。彼女の額が私の背中につく。

 私がこれから聞こうとしている話がどのようなものなのか、察しが付いた。詮索するつもりはなかったが、それがどうしても彼女のウィークポイントを通過してしまうようだ。


 私は、回された手に手を添える。


「爺さんが居た間は、良かった。昔堅気でおっかなかったけど、家族を誰よりも大切にする人だった。入り婿の親父のケツを叩いて、弱気な母ちゃん励まして、気の強い婆さんと仲良くやっていたんだ」


 それは、聞いた事がある。チャットで話していた通りの事だろう。


「ある時、親父が事業で失敗してね。職を失った親父の為に、爺さんは昔のツテを頼って働き口を探してくれた。やっと雇ってくれる所が見つかって、親父も改めてやる気になった、丁度その時、母ちゃんが事故にあった」

「どのくらいの、怪我だったの」

「両足を骨折したんだ。だからまあ、大怪我といえばそうなんだが……さっき言った通り、母ちゃんは宗教ハマっててね。心の弱い人だったから、拠り所が必要だったんだろう。爺さんから何度咎められても脱会しなかった。それからが、地獄の始まりだよ」


 ハナエが震えているのが解る。彼女の体温が、少しずつ服越しに伝わって来た。


「医療に関する定義が酷く面倒な宗教でさ、大怪我だってなんか、ほら、あるだろ、変な力。自然治癒が一番だとか謳いやがってね。母ちゃんもそれ信じて、自宅療養を続けたんだ。私はそれを遠目に見ていたんだけど、今度は爺さんが倒れた。爺さんが倒れると今度は親父が腐りやがって、仕事が合わないだのなんだのと文句言い始めて、結局辞めやがって。もう解るだろう。マトモな人間は、婆ちゃんと私だけになった。婆ちゃんだって歳だ。家族の世話を、私が焼くようになった」

「悲惨」

「まさにさ。爺さんは倒れたまま逝き、親父は呑んだくれ、母ちゃんは今度傷口から黴菌が入って感染症起こして、両足切断。なんだそりゃと、なんなんだと。意味わかんないよと。学校もマトモに行けなくなって、退学して、家族の面倒み始めたが最後、もう抜けられない煉獄だよ。私には、公的支援とか、相談所とか、そういう頭もなかった。日々介護と掃除洗濯。料理は辛うじて婆ちゃんがやってたけど、婆ちゃんだって無理出来ない。毎日高いビルを見上げては、あそこから落ちたら楽になるんじゃないかっておもったさ」

「……ハナエ」

「……いつ寝れるかも解らなくて、仮眠をとるか、ネットを弄ってるか、介護するか、そんな生活続けてたんだ。引きこもりじゃなくて、引きこもらなきゃいけない状態だった。勿論クソ鬱憤溜まる訳で、そのはけ口が、まあ、ネトゲだったり、ソシャゲだったりした訳だな……そんな折だ。二年ぐらい前だな。チャットしてたら、アンタが入って来た」


 引きこもって半年辺り。私自身の境遇がどっちにもつかず、頭を悩めていた頃だろう。なんでそのチャットに入ったのか、その理由は良く分からないが……私の事だ、おそらく、誰でも良いから、会話がしたかったのだろう。


 チャットで出会った当初から、ハナエは傍若無人だった。

 他の人が居ない時、二人で会話したのを覚えている。個人の情報を交換したのも、その辺りだった筈だ。


「ネットに疎い感じだったし、メディアリテラシーも無さそうだし、話聞いてりゃお嬢様みたいだしさ。不遇煮詰めたような環境にいた私からすりゃ、恰好の攻撃対象だろ。んでも、何言っても軽くいなされるもんだから、改めて自分振り返って、馬鹿らしくなってな」

「なんか、当初はもっとキツかった記憶がある。ただ、顔も観えないヒトの言葉は、痛くも痒くもなくて」

「なんだ、ある種強靭だな、その精神。まあほら、アンタは恵まれてても、引きこもりだろ。なんか逆に同情しちゃってね。慰めとか、共感とか、そんなもん求めた訳じゃないが、アンタとチャットしてる間は、凄く気が紛れた。それから、ネトゲにも誘ったし、いつアンタがログインしても解るように追っかけたりしてたな」

「ネットストーカーっぷりはそこから」

「いやあうん、その、済まない。アンタと他愛ない話の一つでもしてないと、駄目になるような気がしたんだ。抜けられない介護と、自由の無い苦痛、一切見えない将来への展望。そういうの全部、忘れたかった。自分に人間らしい生き方が存在しないなんて現実、見たくなかった」


 ……。

 彼女からすると、私という存在はやはり、私におけるカナメとの関係性に似るのだろう。


 逃避先と言ってしまえば悲惨だが、少しでも生きようと思うならば、辛すぎる現実から目をそむける事も必要になる。誰も彼もが、押し迫る不運と対峙出来る程強くないのだ。


 私達はそういったものに真正面から対峙するよう仕向けたりはしないし、同情も、共感もしない。そんな立場にないからだ。ただ出来る事があるとするならば、それは『そこにいること』である。


 私はハナエの手を解き、彼女を正面に据える。彼女は酷く辛そうな顔をしていた。


「ごめん。良いよ別に、無理して話さなくて」

「アンタは無理したろ。私は私の立場を明確にしようと、こうしてるんだ。アンタは光なんだ。光の一つも届かないような場所にいた私が持てた唯一の希望だったんだ。アンタと話してたから、少し前向きになれた。一度、お金の話をしたろう」

「うん」

「何もかも、私の不運を覆そうと思ったら、やっぱりお金が必要になる。溜めてた小遣いを元手にして、私は打って出た。どうせそのまま居ても死ぬだけだからさ。それで、一世一代の大勝負だ。で、どこの株買うかって事になってね。それで、アンタの親父さんの会社にしたんだ」

「――え?」

「私には経済的な知識なんぞ無かったから、本当に運だな。買ってから暫くして、丁度親父さんの会社、先進技術の廉価実用化に成功したろう。市場需要も相まって爆上げだよ。上手いタイミングで売り抜けてね。なんか神がかってた気がする。笑っちゃったよ。数週間で何もかも覆すだけの資産が出来あがった時は、震えが止まらなかったね。私には、アンタが神様に見えたんだ。幸運以外の何ものでもない……また、そこからが大変だったけど」

「娘が大金を手にしたら……」

「ああ。親父がタカり、母親は教団に収めろとか言いやがる。通帳とカードと印鑑を身体に巻き付けて寝てたよ。それから法律に経済に勉強してさ、お金もあったし、社会福祉事務所やら、弁護士事務所やら相談持ちかけて、兎に角縁を切ろうと必死だった。最終的には、親父と母親に念書書かせて札束ぶつけて、婆ちゃんにはランクの高い介護施設に入って貰って、私は家を飛び出した。扶養義務はあるが、養うだけの金は叩きつけて来た。これで文句言うなら出る所出る。借金作った所で子供に支払う義務はない。相続が発生した場合は即破棄だ。もう、私はアイツ等に縛られて生きたりはしない。自由に生きる。人間らしい時間を手に入れたんだ」


 ハナエの表情に光が戻る。彼女の憂いは既に過去のものなのだ。


 直系血族である場合、その扶養義務は果てしなく重たいが、働かず食いつぶし、娘の扶養を放棄した両親等が彼女に強いた苦痛を考えれば、法的救済措置も観えて来るだろう。その辺りは、ハナエが切り抜けて来た所だ。


 嘘ではこのような話はしない。するメリットがない。彼女は地獄からの生還者だ。

 私も漸く合点が行く。私自身に自覚がないのも当然だ。私が齎したものとは言い難いが、少なくとも私の存在が、彼女の手助けとなったと言える。


「そこからは、もう好き勝手だ。私はアンタが愛しくて堪らなかった。引きこもりに喘ぐなら喘ぐで、傍で陰ながら支えるつもりだった。でも外に出るって言う。じゃあ勿論、私は助けなきゃいけない。勝手な話だけど、これを、今さっき、アンタも肯定してくれた。私はもう十分貰ってるんだ。だから、何でも言ってほしい。私は、アンタ降りかかる火の粉も、万難も、全て排する覚悟で居るから」

「ありがとうって、言った方が良い?」

「言われると嬉しい。でも此方こそだ」


 彼女の話が終わると、なんだかむずがゆい空気になる。私は恥ずかしくなり、顔をそむけた。

 そうだ。虚しい話なのである。例え産みの親だろうと育ての親だろうと、それが絶望を齎す存在ならば害悪でしかない。


 吐いて捨てる程度のプライドしかなかった父と、その心を全て他人に委ねてしまった母の間に産まれたハナエには、何もかもを無為にするだけのお金が必要だった。


 到底実現し得ないであろう脱出を彼女は試み、そして成功したのである。


 家族とは何なのか。信じる心とは何なのか。ハナエの存在が、改めて考えさせてくれる。


 生きる為の信心は全てを破壊した。愛すべき家族はとても愛せるモノではなくなった。その時、自分だったらどうするだろうか。


 同情も共感も出来ない。ただ現実として受け入れるばかりだ。物事は、テンプレートでは処理出来ない。だからこそ、ハナエは心に留めるだけ留めておいてほしいと言ったのだろう。


「……飯、食いに行くか。何食う?」

「カロリー高いの」

「肉だな。ホテルの食い放題行くか」

「えっ……人の前でご飯よそうとか、怖い」

「他人の前で全裸になれる奴が何言ってんだ。ほら、行くぞ」

「えー……ハナエだからこそなのに」

「ん、んん。なら次は震えないで脱げ。手出しようがないわ、あんな小動物みたいなの」

「酷い」

「本当の事だろ。ほら、リスみたいに口にためこむんだろ。行くぞ」

「うん。馬鹿」

「うっさいわ……ふふっ」


 ハナエは今、きっと幸せなのだろう。彼女の絶望に比べれば、私の悩みなど微々たるものだ。だというのに、ハナエは決して私を軽く見たりはしない。人の心の痛みを知る人間だからこそ、なのだろうか。


 カナメに、心の中で謝る。


 申し訳無い。


 でも私には、この人が必要だった。


 きっときっと、当たり前の人間として、貴女の前に顔を出せるようにするから。

 きっときっと、成長したと言ってもらえるようにするから。


 だから、ほんのしばらく、許してほしいのだ。


 ああ、だけれども。

 鏡に映った幸せそうな私の顔が憎らしい。


 

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