肯定3
ハナエの実家は東北の政令指定都市にある。両親とは縁を切っている為、実家そのものに用事は無いが、ハナエの祖母が入居していた介護施設はそう遠くない場所に存在した。
電車で二十分、新幹線で一時間半、またタクシーで二十分と、産まれて初めての遠出である。目的意識の方が強かった為何ともなかったが、今思い出すと少し具合が悪い。
とはいえ、もうここまで来たのだ。自分には当たり前の事が出来るという自信にも繋がる。
「もしもし」
『ああ、タツコ。どうしたの』
「来てるの。どこ行けば良い」
『――は?』
「だから、貴女のお婆様が入っていた介護施設まで来てるの。どこにいるの?」
『ちょ――な、なんだそれ? アンタ、え、電車乗って来たのか? 大丈夫なのか?』
「うん。それは良いの。私は良い」
『――なんだ。どうした。声、自信あるな。おかしいな』
「おかしくないよ。それで、どこに行けば良い」
『……これから出棺だ。裏手から回ってくれ。そっちに行く』
電話を切り、指示通り裏手門に回る。五分もせずハナエが迎えにきた。
カナメの葬儀の時は洋装であったが、今の彼女は喪服の着物に身を包み、髪も結い上げている。本来元気の良い筈の彼女だが、数日会わない間に、大分と窶れたように見えた。
「馬鹿だな。何で来たんだ――んん?」
「どうしたの」
「いや。タツコ、だよなあ」
「他の誰かに見えて?」
「ま、まあ良いや。車に分乗するから、あの一番後ろのに乗ってくれ」
指差された方向を見ると、やがて施設のヒト数人が棺を担いでやってくる。
「ご両親は」
「嫌だったけど呼んだよ。呼んだけど来なかった」
「お父様は」
「賭け事に忙しいそうだ」
「お母様は」
「他の宗教の葬儀なんて出れるかだと。爺さんの葬儀も嫌がってたな」
「凄いね、絵にかいたような碌でなし」
「全面的に同意する他ないのが我が親ながら悲しい限りだよ」
疲れた顔をするハナエを宥め、出棺の手伝いをする。
施設の人だろうか、皆涙を流してそれを見送っていた。涙をわざわざ流さなければならない程の人物であった事が容易に見て取れる。
「こっからは坊さんと担当者二、三人だけで、小さいものになるよ。人混み嫌だろう」
「それは良い。お婆様、慕われてたんだね」
「人懐っこい人でさ。でも芯が通ってるから、あのカタブツのじい様の嫁なんてやれてたんだろうさ。後ろの車、乗って」
「うん」
霊柩車の後ろにつけられた車に乗る。運転は葬儀会社のヒトだ。見送りが脇に並び、ハナエの祖母に別れを告げる。
動き出した車に揺られながら、十分ほどだろうか、何も喋らずに私はただハナエの手を握っていた。
ハナエはどんな気持ちで居るだろうか。親のように慕った祖母の死に対しての悲しみは当然あるだろうが、こんな時にも顔を出さない両親をどう思っているだろうか。勿論、縁を切ったのはハナエだ。だが自分達の面倒を見て来た祖母の死に際して言葉の一つもないというのは、何か徹底した冷たさがある。
もう本当に、どうでも良いのだろう。人間の冷酷で自分勝手な面を直に観ているようだ。
「そんなんじゃダメだよ。お父さんもお母さんも、連れてこないと。私、ひっ捕まえてくるから、火葬は待ってあげて」
「よしてくれよ」
「そんな事言いだす人いるのかな」
「冗談かギャグだけだろう」
「どれだけ近くてどれだけ御世話になった人でも、一度関係が断たれると、まるで他人のようになるんだね」
「煩わしかったんじゃないか。家族だから、なんて言葉程当てにならないものはないな」
「貴女はでも、家族が幸せであれる世界が良かった」
「そりゃそうだ。家族が不幸で好ましい人間なんぞサイコパスだけだろ」
「貴女の新しい家、何もかも、家族分用意されてた」
「……そりゃそうだ。私は幸せになりたかったんだから」
彼女の抱える闇は深い。
どれだけ自由に出来るお金と時間があっても、家族は帰って来ないし、一度崩壊した家庭を繕えはしないのだ。大人という自我が形成されて久しい人間の精神は、ちょっとやそっとでは入れ替わったり、改善したりはしない。両親を説き伏せようと、一か月後には元通りである。
もう彼女に、彼女が望んだ温かい家庭という幸せは絶対に訪れない。
「そういえば、なんで来たんだ。まだ聞いてなかったな」
「貴女の泣き顔を見に来たの」
「嘘つけ。笑わせるな」
二十分ほど車を走らせ、小高い山を登った先に火葬場があった。木々に囲まれており、規模としては大きくないが、真新しい。
「ヒトを焼く場所って、改めて考えると不思議ね」
「公衆衛生、それが一番良いだろう。不自然だと思うか?」
「ううん。生きる人の為だものね」
「……そう。葬式も、火葬も、これから生きる人の為なんだよ」
待ち時間もなく、整えられていた通り葬儀が進む。
大理石で囲われた前部屋の真中にポツリと棺桶が据えられた光景は、ついこの前初めて経験した、カナメの火葬と光景が被ってしまい、私は首を振る。
なんとも大仰な袈裟を羽織ったお坊様が経文を唱える中、私はハナエの悲しみについて考えていた。
「では、ご家族の方」
葬儀社の人に促され、ハナエの祖母の顔を覗く。ハナエは首を振り、棺桶の中に写真を数枚入れた。恐らく、祖父のものだろう。そしてもう一枚は、自分のものだ。
「もういいの」
「ああ、散々泣いたから」
火葬が済むまで待ち時間がある。
私は控室に、ハナエは喫煙所へと別れる。控室といっても個別に用意されているものであり、親族がない密葬では私一人だ。
つい最近もこうして、火葬を待つ時間があった。どれだけの人生があろうと、終わってしまえば白い骨だ。残るものといえば、人の記憶のみである。
人の価値がどこで決まるか、それはどれだけの人間に覚えていて貰っているかだろう。勿論絶対的な価値観ではないが、死してなお生きるという意味においては揺るぎないものである。
語り尽くされた、書かれ尽くされた人の死についての哲学だが、やはり、どれだけ頭をこねくり回したところで、目の前に現れた現実は過酷だ。
『……タツコちゃんとお話するようになってからかしら。カナメは、とても明るくなったのよ。なんだかそれがね、私には、死ぬ前に燃え上がる、蝋燭の灯のように観えたの。あの子、最期まで、貴女が健在か、馬鹿な事はしていないかと、心配していたわ』
『そう、ですか』
『あの子、貴女がとても好きだったのね。貴女も、うちの子が好きだった。変だなんて言わないわ。恋だもの。性別も年齢も関係ないの。互いに必要だと思えたのなら、きっとそれが最も、真実に近い想いなのだと思う。私は、生憎、得られなかったけれど』
『カナメちゃんを産んで、育てて、澪さんは後悔していますか』
『――少しだけね。もっと健康に産んであげられたなら良かった。申し訳無い気持ちで、一杯よ。でも、あの子、幸せそうだったから。ありがとう、タツコちゃん』
私は感謝される謂われなどない。まさにエゴが調和した、みすぼらしい愛の形である。
偶然によって齎されたものだ。図らず手に入れた関係だ。だが、そういったものに宿る感情こそが、計算尽くの打算的な関係以上の関係を作りあげるのかもしれない。
理想が現実を超越した先にある未来は尊いが、理想が現実を駆逐してしまった場合は真っ当ではない。
私は一歩踏みとどまった。駆逐される前に、現実を知ったのだ。
彼女という存在は理想だが、その理想こそが私に惨い世界を齎し、そこで歩めとのたまっている。
私は笑った。
「大武華江様……あら、ええと、御友人の」
葬儀社の女性が頭を下げて入ってくる。大人一人の火葬だ、もっとかかる筈であるから、終わった訳でもあるまい。
「旗本です。何か」
「大変申し訳ございません。どうやら機械が不調らしく、少し時間がかかる様子でして……」
「……そうですか」
「ええと、その――」
「大武さんに伝えておきます」
「はい。申し訳ございませんが、お待ち頂くようお願いいたします」
何ともお粗末な話だが、不調というならば仕方が無い。まさか遺体を『早く焼け』なんて冗談でも口に出来るものでもない。
私は鞄を持ち、ハナエが向かった喫煙所に足を運ぶ。
部屋には数人の男性がいるだけで、しかしハナエの姿が見当たらない。私は踵を返して、外へと出る。どうせ彼女の事だ、影でこっそり吸っているのだろう。
建物の周囲をぐるぐると回ってみたが、ハナエの姿が見当たらなかった。
御手洗いにでも消えたのかと疑っていると、裏手に小路があるのが解った。周囲は森林に囲まれているが、整備されているらしく歩くのに不自由はしない。
「ハナエー?」
やがて建物の煙突が少し小さく見える距離まで来た。そこは少し開けた遊歩道のようになっており、先に小川が流れているのが見て取れる。
ハナエはそこで蹲っていた。
「良い人って、恵まれず逝くよね」
「運命を決める神様とやらがいるなら、そいつは糞ったれだな」
ハナエが立ち上がる。顔は真っ赤だった。折角の綺麗な顔は、涙に濡れ、化粧も滲み、酷い有様である。
「八つ当たり」
「アンタだってそうだろう。カナメの死の怒りを、有りもしないものにぶつけただろう」
「もう良いの」
「良い訳があるか」
「良い筈でしょう。だって貴女、カナメが邪魔だったでしょう」
ハナエはそれを聞き、バツの悪そうな顔をして伏せた。
解っていた事だ。
ハナエにとってカナメは何でもない、私の知り合いでしかない。彼女がカナメに抱く感情なんてものはたかが知れるのだ。まして、自分の好きな女性の心を全部持って行った少女であるから、むしろ憎しみを持っていたとしても、私は驚かない。
「私は嬉しい。私から大切なヒトが減り、貴女から大切なヒトが減った。その分私は貴女に、貴女は私に想いを注ぎこめるでしょう」
「――本気で言ってるのか?」
「冗談で心打ち砕かれた人に暴言なんか吐かない」
「幾らアンタでも、怒るぞ」
「怒って良い。ぶっ飛ばしてくれて構わない。嘘は吐いていないから」
彼女の手があがる。私は小さく眼を瞑った。
しかしその手が振り下ろされる事はなかった。
「……そうだよ。私は、カナメが邪魔だった。死んでくれて助かったとすら思った。私は独占欲が強いから、アンタが他の奴に持って行かれる事なんて想像もしたくなかったね。でもそれがさ、まさか、何もかも持って行かれた後で、アンタはまんま抜け殻だったなんてな」
「お見舞いにいった時、カナメと何を話したの」
「ああ。『タツコは私が面倒をみるから、お前はさっさとおっ死ねクソガキ』って言ったんだ。そしたら、あのガキなんて言ったか解るか? 『邪魔をしたわ。もう直ぐだから、少し待っていてね』ってよ。はははっ、冗談じゃないっつの。なんだそれ。十歳の子供にさ、気遣われたんだぞ、私は!!」
「あの子らしい」
「窘められたんだよ。私は、あのガキよりも沢山持ってる。時間もお金も、余裕もだ。無知は罪で、無能は犯罪だって悟って、頑張って頑張って、幸せになりたくて。親も切り捨てて、婆ちゃんまで施設においてけぼりにして、自由を手に入れたんだ――それがどうだ? 私は好きな女の子一人満足させてやれずに気を揉んでいた。何故この子は私に振り向いてくれないのか。私の何処が不満なのか。蓋をあけてみたら、もうガキに全部持って行かれた後だったんだよ。胸糞悪いったら無いだろう? 私はさ、アンタが好きだったから、何でもしてやりたいと思って、尽くそうと思ってたのに、当の本人は私を見向きもしない。アンタの価値観は全部カナメが定めてた」
「酷い話があったものね。そんな話を聞いたら、私も暴言を吐きそう」
「ああそうだな。私はカナメを呪ったぞ。アイツの死を一日千秋の想いで待ち焦がれたんだ。冗談じゃない。アンタは私のだ。あんな、枯れ枝か干物みたいなガキにアンタをやれるか。で、死んでみたらどうだ? 相変わらずだよ。アンタは私を見てない。カップ二つ用意して、ぶつぶつとアイツと喋ってるんだ。死んだ筈のアイツとさ!! 怒り心頭だ。ふざけるんじゃねえぞ、馬鹿女、糞淫乱の雌豚め。小児性愛者の上に精神障害者か、救いようがねえぞクソムシ」
私はただ、彼女から浴びせられる罵倒を甘んじて受け入れていた。彼女の言葉は尤もなのだ。何一つ批判出来ない。彼女にはそのように思われていて当然である。
何も与える事なく、ただ奪い去って死んだ少女に怒りを覚え、恋した女は異常者だ。
自分がどれだけ心血を注ごうと振り向いてすらくれないのである。
そんなもの、誰だって怒り狂う。
私が否定していたのならば、それは単なるハナエの粘着質だが、私はハナエの好意を受け入れていたのだ。
「……なんか反論しろよ。なんか反論してくれよ。これじゃあ、私が馬鹿みたいじゃないか……」
「いいの。知っているから。全部全部、知っていて、その罪悪も受け入れて、私は居るから」
「そうか。アンタ、そうだったな、糞ったれなんだった。ゴミクズで、心が弱くて、一人じゃ何にも出来ない社会不適合者で、支えられてなきゃ何時でも死んじまう、虚弱生物だった」
「うん」
「……頭に来て、腹が立って、心の中で恨み辛み呪詛怨嗟、カナメの奴にぶつけたよ。そしてアンタにもだ。でもさ、どんだけそう思っても、私はアンタが好きだった。アンタがカナメを見続けようとも、支えて行こうと思った。あのクソガキに、任されちまったしさ。そうだよ、アイツはたった十年しか生きられなかったんだ。クソ詰まらん人生で、頼る所はアンタだけだった。アンタに頼られる為に努力して生きて、満足に死んだんだ。私は、結局お人よしで、寂しがりの、馬鹿者なんだよ」
「ハナエ。私ね、貴女が好きよ」
私は数度頷き、懐からハナエ宛に書かれた手紙を取り出す。
書きだしを見て、ハナエがギョッと眼を剥いた。遺言は存在しない事になっていたからだ。
何故ハナエがそこまで驚く必要があるのか、答えは明白である。
ハナエは、あの少女が恐ろしかったのだ。
努力して自由を手に入れたハナエを見下す、持たざる者である筈の少女が。
少女の存在が、自分を否定してしまうのではないかという恐怖が、ありありと感じられる。
しかし私は首を振った。
ハナエはしぶしぶ手紙を受け取ると、それに目を走らせる。
――そして手紙を握り締め、歯を食いしばった。
「何もかも、カナメ様はお見通しってか。嫌になっちまうな」
「本当にね。私も、嫌になっちゃう」
「――人間って何なんだ。幸せってどこにあるんだ。私達は、どこに行けば良い」
「全部、ここにあるよ。見ないふりをしているだけ」
「アンタには、見えたか?」
「うん。少しだけね。本当に、少しだけ」
ハナエを抱きしめる。彼女は泣いていた。
自身の人生に、自身の家族に、祖父の死に、祖母の死に、ままならない現実に、恨みをぶつけ、憎み、しかし追い求めてしまう幸福という虚妄に踊らされ続けている事実にだ。
「私――私は、ほんの少しだけ、幸せであれば良かったんだ。家族が居て、楽しい時に笑えて、悲しい時に涙出来て、いろんな事があっても、乗り越えて行ける、そんな当たり前の幸せが欲しかったんだ――こんな筈じゃなかったんだ。アンタを罵るつもりも、アイツを憎むつもりも、そんなの、違うって解っていても、私は――私は――」
「ハナエ」
「タツコ、ごめん、違うんだ、私――お願いだから、嫌いにならないで――」
「大丈夫。大丈夫だよ、ハナエ。私、ここにいるよ。いつも有難う。こうして居られるのも、全部貴女のお陰だよ。こんな最悪な私でも、愛してくれる貴女が大好き」
「タツコ――?」
本心から、そう思えたのだ。
この虚しい人と乗り越えられる未来が、今初めて見えていた。
このヒトは馬鹿だ。
馬鹿で寂しがり屋で、どうしようもない。私と同じ、身体だけ大きくなった子供だ。
こんな彼女を理解してあげられるのは、祖母亡き今、私だけなのである。
そしてこんな私を心から理解し、互いに歩んでくれる人は、このヒトだけなのだ。
愛には責任が伴う。
愛と表現すべきか否か、怪しいものまでひっくるめて、肯定しなければいけない場合すらある。それだけ、人間と人間を真に繋ぐものは、重たく、辛く、悲しく、虚しく、耐えがたいものなのである。
私は、それを嫌ったのだ。
そんなものは背負えないと思っていたからこそ、何も信じてあげられなかったのだろう。
だが、このヒトは一緒に悩んでくれる。一緒に背負ってくれる。
何もかも、カナメが身をもって、死をもって、教えてくれた事だ。
「大丈夫。私も支えてあげる。ハナエ、私と一緒にいて。私と苦労して、私と悲しい目にあって、私と辛い気持ちになって、悩んで、抗って」
「でも、アンタはカナメが……」
「信心は、胸の奥にある。でも、貴女はここに居るもの。私をこんなにも好いてくれる貴女が。私を光と仰いでくれる貴女が居るもの。見てあげられなくてごめんなさい。でもこれからは、違うから」
「信じると思うか、今更。異常者のアンタの言葉。そんなの、酷い話だ、酷い女だ、アンタは……」
「ごめんね、でも、お願い。私と一緒に、幸せになって――愛してるの。貴女を」
それが嬉しかったのか、悲しかったのか、ハナエは泣き崩れてしまった。私は一まわり大きな彼女の身体をしっかりと受け止める。
これで良かったのだと思う。これしかなかったのだと思う。
今はただ、目の前の手に触れられる現実だけを見ていなければいけない。
それが責任だ。
「頼りないかもしれないけれど。貴女が私を必要としてくれるのならば」
「本当に? 独りにしないでくれるか? 私を、私を見てくれるのか?」
「うん」
私達は人間だ。あまりにも弱く出来ている。
しかしその弱くどうしようもないその気持ちを慰めるものが、家族を含めた他人なるものだ。
知性と社会性故に地球を支配した種族は、知性と社会性故にその心を滅ぼす事がある。殊更酷かったのが私達だ。
他の人達よりも、少しおかしくて、少し壊れて産まれ育ってしまった。
ヒト以上に業を背負い、ヒト以上に悲しみを背負い、ヒト以上にヒトを恋しがる。正しくどうしようもない、人類の廃棄物である。
しかしそれでも、私達は人間になりたかった。人間でありたかった。どれだけ世の中を疎ましく思おうとも、それは単なる嫉妬でしかない。どうにかして認められて、生きて行きたいからこそ抱く感情だ。
『華江へ ただ一度だけ顔を合わせた貴女へこんなものを書くのは間違っているでしょうが、生憎書かざるを得ない程、貴女と私と、そして私達が愛してやまない彼女は、似通っていました。恐らく貴女も彼女に光を見たのでしょう。薄暗い檻の中に閉じこもった、小さく愚かで間抜けで馬鹿な彼女に、希望を見てしまった事でしょう』
『同族故に私は貴女を嫌悪し、憎悪し、そして同時に、どうしようもない程の同情と、羨ましさを感じています。貴女は私を嫌ってください。私も貴女を嫌います。そしてだからこそ、私を神と、女王と仰いだ馬鹿者に、苦言を呈し、問題を提訴し、彼女に現実を見せてあげる事が出来ると思います』
『貴女は私よりも沢山のものを持っている。何も持たない私ですが、けれど私はただ唯一、欲しかったものを手にする事が出来ました。そして自己満足にも死に逝くのです。羨ましいでしょう。そして私も貴女が羨ましい。貴女には私が出来なかった事が、これから出来る』
『愛しい人と、悩み、悶え、苦しみ、嘆き、笑い、悦び、生きて行く事が出来る』
『タツコをお願いします。羨ましい貴女』
「行こうタツコ。歩こう。私達は生きてるから」
遠くの煙突から死出の煙が上がる。火葬が始まったのだろう。
否応なしに襲いかかる絶望を回避し、幸福である事の嫌悪を乗り越え、いつか本当に心の底から笑う為に。
「うん」
私は小さく頷いて、ハナエの手をとった。
end