1.黄昏の 闇に飲まれし ナツノカワ
夏の夕暮れ。空がほんのり赤色に染まっていく中、僕と彼女はただこの世界を埋め尽くすかのように鳴き続けている蝉の声に会話を任せていた。
学校帰りの静かな村。辺りは自然に囲まれており、時折畑や青々とした田圃、民家が見えるだけで、のんびりとした場所である。
「ねね、あのさ」
彼女――樋口和葉はやや長くなり始めている細い艶やかな髪を指先で弄りながら口を開く。
「今度、花火に行かない?」
「花火……?」
僕は思わず聞き返した。
「そう、となり町で来週花火大会があるのは知ってるよね」
「うん」
「それに行かない? ってこと」
僕は鞄を肩にかけ直してから、うん、とだけ返事した。
そしてしばしの沈黙が二人の間に訪れる。気まずいというわけでもなく、和葉と僕の間はいつもこんな感じの時間が流れている。周りの男女を見れば、やれカラオケに行こうだの遊園地に行こうだのどっちの家に行っただのそんなようなことばかり絶え間なく、忙しなくしているのだが、僕らは時間を共有しているというだけで幸せであった。
他人がどうとか、そういうことを比べる人がいてたまに僕らのことをつまらない、冷めているだのいう人がいるが、特に相手にもしない。
「……あ、ねえ」
僕がふと目線を上げると、赤とんぼの群れが夕日に輝いて田んぼの上を泳いでいた。
「綺麗だね……銀色の翅が夕日に反射して金色みたい」
彼女がそれを見つめながらぼんやりと言う。
「なるほど、うまいこと言うね」
「そうでもないよ」
彼女は静かに微笑んだ。そのいつもは白い肌も黄金色に見える。
「おーい! 誰か来てくれ! 助けてくれ!」
突然背後から大きな声がしてとっさに振り向く。麦わら帽子をかぶったおじいさんが大きく手を振りながらこちらを見ている。
僕は和葉と顔を見合わせて、駆け出した。
「頼む。早くこっちへ」
おじいさんが走る後に続いて僕らも走る。
ついた先は猪瀬川という川だった。村の中でもそこそこ深く、流れの早い川だった。
「ここでわしの孫が……有希子が流されたのだ……」
「え」
それはまずい。と僕は鞄をその辺の草原に投げ捨て、飛び込んだ。
「ちょ、ちょっと! 良樹! 危ないって!」
「まだそこまで時間は経っておらんから! 頼む! 本当に……」
二人の声を水中で微かに聞きながらもうすっかり暗くなってしまった水中を睨む。何も見えない。
心臓が体中に酸素を回そうと躍起になる。昼間はこの川は透明でよく見えるのだが、今は本当に何も見えない。
息継ぎに水面へ浮上する。いくら現役水泳部と云えども、こんな流れの早い水中での捜索はなかなか困難を極めそうである。
「いた! いたって! 良樹! 向こう!」
振り返ってどちらのものともわからない陰が指差す方向を見ると、水面に微かに浮かぶものが見えた。前方五メートルくらいだろうか。すぐそこだ。
平泳ぎで向かう。流れのおかげもあってすぐに追いついた。そしてその少女を抱きかかえる。苦しそうにしている。とりあえず上げないと――と辺りを見渡すも、暗くて見えない。月光はちょうど森に遮られてしまっている。
川底には足がつかない。しかも制服がぐっしょりと水を吸っているお陰で思うように進めない。ただ川の流れに従って流されていく――
「良樹!」
和葉がこっちに駆けて来る。
「早くこの子を――」
岸辺になんとか左手を引っ掛ける。彼女は岩を慎重に降りてくる。
「良樹! 大丈夫?」
「うん、とりあえずこの子を」
そして和葉に少女を預ける。とりあえず一段落――と気を抜いたその時――
「っ!?」
掴んでいた左手に激痛が走り、その手を離した。
あまりに咄嗟のことで僕は水流に完全に飲まれてしまった。
嘘だ……息ができない……
水がどんどん冷たくなっていく。視界がどんどん暗くなっていく。
そしてその闇はどんどん僕を包み、やがて白に変わったのだった。