第8話 雨と塩の匂い
午前の空は低かった。水平線からむくむくと伸びた雲の腹が堤防の上に垂れ、光の筋を鈍く飲み込んでいく。風はぬるく、けれど尖っていた。町全体に、まだ濡れてもいないのに海の匂いが満ちていく。塩の匂いは、昨日までと違っていた。形があった。鼻の奥で四角く引っかかる匂いだ、と柊は思った。
防潮扉の前に、老人が立っていた。海から戻ってきた古い漁師だと、柊は知っている。背中が海の線を覚えていて、町の背骨みたいに真っ直ぐだ。扉は半分閉じたまま動かず、係員ももう来ない。老人は黙って海を見ている。来るのを待つ人の目じゃない。来てしまったものの形を測る目だ。
柊はファインダーを覗いた。シャッターに指を置いた。指が降りない。降ろす前に、胸のなかで何かが固くなった。撮って、残して、ここにあったと証明して――頭は言うのに、体が前へ行かない。
「柊」
宙が横に来て、柊の手を握った。細い指先が、シャッターボタンの上からふわりと重なる。
「撮れないなら、見て。見たことは消えない」
風が二人の間を抜けた。塩の匂いが強かった。柊はファインダーから目を離す。望遠で切り取った長方形ではなく、裸眼の広さで老人を、扉を、海を見た。押し寄せる波の肩が堤防の縁に砕ける。砕けた白が風で戻り、空と混ざる。老人が肩をほんの少し落とす。その落とし方は、降参ではなかった。合図に近い。受け入れる側の合図だ。
「……撮る」
柊は息を整え、指を降ろした。シャッターが一度、低く鳴る。もう一度。三度目は押さなかった。押しすぎると、見たことが写真に取られてしまう。残すために、残さないものを選ぶ。
空が鳴った。遠雷ではなく、断面の乾いた音。堤防の端で水が溢れて、きしむように流れていく。防潮扉の隙間から黒い帯が伸びる。柊は肩を叩かれ、宙とともに後ずさった。老人も踵を返し、歩き出す。歩幅は小さいが、迷いがない。波が足首を打っても崩れない。崩れない歩き方を、人は年を重ねるといつのまにか覚える。
町の川筋を伝って、水が速くなる。水位計の白い柱に赤い目盛りが並び、細い針が一段、また一段と上がる。海斗は針を見た。走らない日にしようと思っていたのに、足が勝手に地面を探す。水は膝の下、すぐに脛、そしてふくらはぎに触れた。祖母の家は川の少し上。角を曲がるたび、路面が光る。アスファルトの上に薄い塩のガラスが張られて、靴の裏で割れる。
「ばあちゃん」
玄関で呼ぶと、返事がすぐにきた。祖母は荷物をまとめていた。大きな袋に、写真立てと薬と小さな裁縫箱。戸棚の中を片付けすぎて、必要なものが外にあふれている。海斗はしゃがみ込み、袋をひとつにまとめ、祖母を背に背負った。
「重くない」
祖母はそう言ったが、海斗の背中に広がる骨は軽く、皮膚の下の体温が強かった。軽くて、熱い。軽いものは上へ行く。背にあるから、上へ行けない。だから足がやる。走れるだけ、走る。そう決め直す。
家を出ると、もう道は川だった。高台への坂の入り口で、何人かがつかまり合っている。足元の砂利が行方不明になる。海斗は祖母の足に手を添え、前の人の背中と背中の間を選ぶ。誰かが腕を伸ばし、支える。ありがとう、と言おうとして、言葉が水に落ちた。言わずに目で合図する。合図は水に強い。
避難所の掲示板は、今日も紙で重くなっている。場所、時刻、必要なもの、足りないもの、探し人。凪は濡れたポケットから兄のヘルメットの写真を取り出し、見なくても知っている傷の位置をもう一度確かめた。にじんだメモの切れ端――北の高台 無線――を、手のひらで伸ばす。
「似顔絵、描く」
凪は太いマーカーを借り、画用紙を押さえた。兄の顔。輪郭。眉。目。目の下のくぼみ。口角の癖。思い出すのに時間はいらない。迷子を探す時に思い出す顔は、いつもはっきりしている。輪郭が穏やかでも、外に向けた目が厳しい。描きながら、凪はもう片方の手で紙を押さえ続ける。押さえていないと、雨の風で飛ぶ。飛んだ似顔絵は、役に立たない。
隣に、小さく「無線」と書いた紙を貼る。周波数と、聞こえた言葉の断片。西の沿岸線、退避。聞こえるか。無事。文字はにじむ。にじむ紙の上で、凪はマスキングテープを十字に貼る。十字は目印になる。目印は、いつか誰かの足を止める。
広間の片隅で、苑は譜面を広げていた。濡れて波打った紙を、一枚ずつ本の間に挟み、机の角で押さえる。合唱部の仲間が手伝ってくれる。紙の端が指にまとわりつく。ハミングが始まる。最初の音は、紙の擦れる音に似ている。短く、軽い。子どもがそれを真似する。声を出さない歌は、声の代わりに呼吸を寄せる。寄ってきた呼吸は、不安の形を少しずつ崩す。
「大丈夫」
目の前で泣きそうな子の口の形が、そう動いた。音は出ない。出ないけれど、意味は伝わる。苑は頷き、ハミングの高さを少しだけ上げる。照明の真下で、紙は少しずつ乾く。乾く間隔が、歌の小節になる。
その照明の根元で、御影が配電盤を睨んでいた。雨が吹き込んだ。屋根の継ぎ目から水が落ち、盤の中のどこかに触れた。焦げた匂いがして、赤いインジケーターが瞬く。御影はためらわずにカバーを開け、素手でケーブルを押さえた。火花が跳ねる。青い粒が頬に散った。ヒリ、と皮膚の奥が震えた。
「そこ、押さえたまま」
彼は横にいた先生に短く言い、別のケーブルを束ね直す。絶縁テープが滑る。指先に水が残っている。タオルを投げてくれる手がある。受け取らない。受け取る前にやることがある。やりながら、受け取る。順番を間違えると、電気はすぐ怒る。
火花が一度、大きく跳ねた。御影の手首がわずかに揺れる。誰かが「痛い」と言いそうになった。言わない。代わりに、短い言葉が走る。
「大丈夫?」
「大丈夫」
「いける」
「いける」
薄い言葉のやり取りが配電盤の前から広間の端まで瞬く。言葉は短いほど速い。速いだけじゃなく、重なる。重なると強くなる。御影は最後のひと巻きでテープを噛み切り、スイッチを戻した。照明が安定する。光が紙の上に戻る。苑のハミングが、わずかに明るくなる。
雨音が強くなった。屋根を叩く音が、会話の隙間を奪っていく。奪われた隙間のぶんだけ、言葉が短く濃くなる。燈は体育館の入口で列を整えながら、指先で合図を続けていた。押すな。前へ。止まって。深呼吸。短い指の動きが順番を作る。順番があると、心臓は落ち着く。落ち着いた心臓は、足に正しい重さを送る。
「塩」
柊が戻ってすぐに言った。髪から水が垂れる。カメラはタオルに包んである。宙が近づき、乾いた布でファインダーを拭く。柊は息の長さを整えながら、撮った老人の姿を口で描写した。見て、撮って、また見る。その繰り返しが、記録の形になっていく。
「堤防、持たない」
海斗が祖母を預けて戻り、腕についた白い結晶を見せた。塩だ。水が引いても、皮膚に残る。残った塩を舐める子がいる。苦い、と顔をしかめる。苦い顔をして、笑う。笑いは短い。短い笑いほど、空へ上がる。
凪は掲示板の前で、最後のテープを押さえた。似顔絵の横に、今日の無線の時間帯を書き足す。誰かが「見ます」と言った。誰かが「貼ってくれてありがとう」と言った。誰かが「それ、うちの息子に似てる」と言って泣きかけた。凪は肩に手を置いた。大丈夫。言葉を出さずに伝える。伝わった分だけ、涙は落ち着く。
御影は配電盤から離れると、頬の熱を指で押さえた。痛みは遅れてくる。遅れてくる痛みのほうがいつも強い。強いものは、分ける。分けるには、短い合図がいい。彼は燈を見る。燈がうなずく。うなずきが返る。返ったうなずきが、広間の隅々へ拡散していく。指示じゃない。合図だ。合図は、重力を輪にする。
雨脚はさらに太くなった。屋根の継ぎ目が負け、体育館の一角で水が筋を作る。宙が段ボールを並べ、子どもの座る場所を移動させる。真帆が人形の箱を抱えて走る。人形の王子の赤いマントに水が染みる。宙はマントを外し、素顔の木の頭を撫でた。木は水を吸う。吸った水は、乾いたら痕にならない。残らない痕もある。
「大丈夫」
宙が人形に言う。人形は黙っている。黙っているのに、心配させない。そういう顔をしている。人形の顔は、嘘をつけない。嘘をつけない顔を舞台に上げると、人は安心する。安心して、泣く。
風が変わった。横殴りに回り、窓ガラスに雨の爪が立つ。窓の向こう、街路樹が片側へ傾く。その向こう、遠い海の色が黒に寄る。柊は一歩だけ外へ出て、レンズを上げた。濡れる。濡れて、塩が残る。残るのに、撮る。撮ることは、後回しにできない。今しかないものが、今日は多すぎる。
「柊、戻って」
燈が短く言う。柊は一枚だけ押して、すぐに戻る。押した瞬間、老人の背中を思い出す。背中の線は、堤防と似ていた。上がって、平になって、少し下がる。下がるところで、力を溜める。溜めた力は、誰のものでもない。町のものだ。
避難した人の中に、耳の悪い男がいた。雨音で何も聞こえないと、顔に書いてある。苑は近づき、両手で合図した。ここ。水。休む。男は眉を上げ、ゆっくり頷く。頷いた顔が少し緩む。緩んだ顔で、ハミングに合わせて手拍子を一度打つ。その一度で、場所が少し温かくなる。
御影が体育館の袖で、臨時の延長ケーブルを束ねていると、袖の奥で小さな火花が走った。別の盤だ。彼は走った。走ると足音が水の上で滑る。滑るのを、体が学んでいる。配電盤の前には先生が立ち尽くしていて、何も触れられずにいた。御影は先生の手を肩から外し、自分の手で中に入れた。青い火が頬を撫でる。頬の火傷の輪郭が、そこに新しい地図のように重なる。
「大丈夫」
先生が言った。御影はうなずいた。うなずきながら、別のときの「痛い」を飲み込む。飲み込んだものは、あとで水を欲しがる。あとで、でいい。今は、やる。
掲示板の前に、濡れた若者が駆け込んできた。凪の描いた似顔絵の前で足を止める。若者は指で兄の顔の頬の線をなぞり、「この人、港の倉庫で見た……かもしれない」と言った。凪の心臓が一度、強く跳ねた。跳ねた分だけ、足が冷える。冷えを、手で温める。
「いつ、どの倉庫?」
「午前。雨が強くなる前。無線機を持ってた人たちの中に……似てる人が」
似てる。似ている、と似ているだけ、は違う。違うけれど、今は十分だった。凪は若者の手を握った。「ありがとう」と口を動かす。音は出ない。出ないかわりに、目を見てうなずく。若者がうなずき返す。うなずきの共有が、次の動きを決める。
凪は無線の紙の隅に、港の倉庫の名前を書き足した。書いた字が雨でにじむ前に、透明のテープで覆う。テープの下で、字が閉じ込められて、じわりと落ち着く。落ち着かせる作業は、小さな手順の積み重ねだ。小さな手順は、声がなくても回せる。
夕方に近づくほど、雨は太くなる。言葉は短くなるのに、密度が増す。短い「ありがとう」と、短い「大丈夫」と、短い「いける」と、短い「こっち」。それだけで、体育館の中の空気は崩れない。崩れない空気の中で、子どもたちがうとうとする。寝息が重なる。寝息は歌に近い。歌に近いものが増えるほど、夜の入り口は柔らかくなる。
燈は列の最後尾で深呼吸を一度だけして、腕時計に触れた。針は進む。止めない。止めなくても、止まったふりはできる。ふりをしない夜もある。今日は、しない。進む針の上に、短い言葉を置く。
「大丈夫」
誰かが誰かに渡す。そのたびに、雨音がひとつ分、静かに聞こえる。静けさは、大きな音の陰で育つ。育った静けさが、足元を支える。
夜。堤防の上で、柊はもう一度だけ海を撮った。黒の中に、白い筋が斜めに走る。遠くで崩れた光条の欠片が、雲の層のどこかに残っている。レンズに雨が当たる。拭わない。濡れたままの一枚は、濡れたままの記憶になる。記憶は乾かさなくていい。乾かしてしまうと、匂いが抜ける。
宙は体育館の隅で人形の糸を拭き、乾いた糸を一本ずつ指に巻き直した。真帆が横でうつぶせに眠る。王子の木の頭が、段ボールの上でこちらを見ている。宙は人形に囁く。次はなくてもいい。次があったときのために、準備だけをする。準備は、明日を呼ぶ。
海斗は祖母の寝顔を見てから、外へ出た。高台の端で雨に顔を上げる。体の熱が雨で冷やされ、残った熱が筋肉の内側で落ち着く。走れるだけ、走る。走らない夜もある。走らない夜の分、明日の足は長くなる。自分でそう決めた分だけ、足は裏切らない。
凪は掲示板の前で、最後に似顔絵を撫でた。紙の上で指が滑る。滑った跡がほのかに光る。兄の目の線が、さっきより優しく見えた。優しく見えるのは、光のせいか、疲れのせいか。どちらでもいい。優しさを信じるほうが、無線のスイッチを入れる指が迷わない。
苑は譜面を積み直し、最後の一枚だけを胸に抱えた。紙はまだ冷たい。冷たい紙の上に頬を当てる。頬の熱が紙に移る。紙の冷たさが頬に移る。交換すると、どちらも落ち着く。落ち着いた頬で、苑は短くハミングした。誰かがそれに重ね、また誰かが真似をする。声がないのに、合唱は生まれる。生まれた合唱は、雨音に負けない。負けない合唱は、眠りを呼ぶ。
御影は配電盤の前に立ったまま、最後の針の揺れが真ん中に戻るのを見届けた。頬の火傷はもう痛くなかった。痛くない、という事実は、あとから恐ろしくなる。恐ろしさは、明日へ送る。送るために、短い言葉だけを今夜は残す。
「大丈夫」
誰かが言う。別の誰かが返す。返した人がまた別の誰かへ回す。回るたびに、言葉は薄くなるどころか、厚みを増していく。厚くなった「大丈夫」が、体育館の天井に当たって、静かに落ちてくる。落ちてきた言葉を、手のひらで受ける。受けた手が、また誰かの肩に乗る。
深夜、雨はまだ止まなかった。塩の匂いは弱まり、代わりに濡れた木の匂いが近くなる。堤防の向こうで波が呼吸を続け、町の中で人がそれぞれの呼吸を整える。言葉は短い。短いのに、今夜ほど長く響いた夜はなかった。鳴らない風鈴の舌が、どこかの軒で小さく揺れた気がした。音はしない。しないけれど、その揺れが、明日の朝の合図になる。




