第5話 声のかわりに手を
診察室の壁に貼られた発声器官の図は、色あせていた。赤や青で塗り分けられた筋肉と粘膜の絵が、夏の終わりの光にさらされて、ところどころ白く抜けている。耳鼻科の先生は、丸い鏡を額から外し、深くうなずいた。机の上でペンが転がる音がした。
「機能性発声障害。声帯そのものに大きな異常はありません。けれど、息と声の筋肉がうまく噛み合っていない。原因は一つじゃない。疲労、恐怖、喪失、そして……環境」
苑は小さく頷いた。喉は痛くない。痛いのはもう少し内側で、言葉に触ると染み出す場所だ。先生は優しく笑って、紙に呼吸の練習のやり方を書いてくれた。吸って、吐いて、声をつけずに音を送る。次の段階で、声に触れる。触れるだけ。掴まない。
「焦らないこと。声は逃げません。追うほど遠のくから」
その言葉を、苑は喉ではなく指先で受け取った。診察室を出ると、廊下の壁に貼られた避難経路図が目に入る。赤い矢印があちこちで途切れ、手書きの補助線でつなぎ直されている。世界が少しずつ切れていく。切れたところを、だれかがつないでいる。声もきっと同じだ。
会計を済ませ、外に出ると、光条が薄く揺れていた。空は焼け焦げたまま、ところどころに新しいひびが走っている。病院の前の植え込みで、小さな子が母親の手をぎゅっと握って、泣き止もうとしていた。泣く代わりに、手に力を込めている。声のかわりに手を使う。それはずっと前から、だれもがやってきたことなのかもしれない。
校舎へ戻る途中、苑は譜面の端を指で叩いた。たたく、止める、たたく。音を言葉の前で止める。合唱室のドアを開けると、薄い埃の匂いが胸に入ってくる。譜面台が並んでいる。椅子は半分しかない。窓からの風が、残った椅子の背を撫でていく。黒板に、前に先生が書いた発声記号の残りが白く浮いていた。
「苑」
燈が入ってきた。腕には配給のリスト。くたびれた腕時計が、彼女の手首で小さく光る。柊が後ろから顔を出し、カメラを胸に提げている。御影は遅れて現れて、工具の袋を肩にかけたまま、教室の蛍光灯を見上げた。
「夜、照明、一灯だけ。体育館の端がまた使える。宙の人形劇のあと、合唱をやるって聞いた。本当に?」
燈の問いに、苑は頷いた。声のない頷きは、嘘をつけない。喉の奥がむずむずして、いっそ咳が出てほしかった。出ないから、代わりに指が動いた。譜面の端を軽く叩く。タン、タン、タ、タン。柊がそれに合わせて小さく指を鳴らす。御影が工具袋を床に置き、金属の小さな音を足で止めた。音を止めるのが、こんなにも難しい。
「歌う、じゃなくて、鳴らすにしよう」
苑はそう書いたメモを三人に見せた。歌の字を丸く書こうとしたら、手が震えて角が立った。柊が近づいてきて、文字の上にカメラをかざした。カメラのシャッター音が、教室に小さく落ちた。
「鳴らす、いいね」
燈が言った。腕時計を外して、机の上に置く。時計の針は、今もいつも通りに進んでいる。でも彼女は、針の上に指先をそっと置いた。触れるだけで止まったふりをする。止まったふりが、いちばん長持ちする時間の止め方だと知っているみたいに。
「宙は人形劇の台本を直してる。君たちの十五分を、渡す橋にするって」
苑は笑ったつもりだった。唇の形は笑いの形になったが、音は出ない。音がなくても、笑いは笑いの形をとる。その形を見て、人は安心する。形はやさしい。形を、続けよう。
避難所の広間には、御影が一灯の照明を組んでくれていた。光は青白く、舞台の片隅だけを明るくした。宙と真帆の人形劇が終わると、子どもたちがいっせいに拍手をした。笑い声と泣き声がいっしょに上がって、天井に触れて消えた。苑はその音を背中で受け取った。背中は、声より正直だと思う。
「次は、声を使わない合唱です」
燈が前に出て言った。説明の言葉は短く、見れば分かるように配置を決めてある。床に白いテープで小さな丸が並べられていて、そこに子どもたちや大人が立った。譜面台は使わない。ただ、空の高さと床の硬さを使う。御影がアンプの電源を切り、照明を少しだけ落とした。柊がカメラを首から外して、舞台と客席の間に立つ。苑は中央の白丸に立ち、深く息を吸った。
息を吸う音が、広間に広がった。だれかの息が少しだけ震える。だれかの息は、波みたいにゆるやかだ。苑はその上に、指でリズムを置いた。胸の前で、手のひらを重ねる。叩かない。まだ叩かない。空の真ん中に、音の形だけを置く。
最初の音は、靴底から始めた。右、左、右、右。床が薄く鳴る。次に、手拍子。強く打たない。指先で触るように、手のひらの内側で小さく。パ、パ、パ。譜面台の棒を一本だけ残しておいて、軽く触れて、金属の細い音を鳴らす。チン、チン。どの音も、言葉の手前で止まっている。
子どもたちが真似をした。最初はばらばらで、音が人を探して跳ねた。やがて跳ね方が揃って、近くの人の呼吸に寄り添うようになった。肩が触れる。手のひらが重なる。誰かが強く叩きすぎて、隣の子が笑った。笑いは音の外にあるけれど、すぐに音に戻ってくる。音の中に笑いの居場所があると分かると、居場所は増えていく。
苑は中央で、手のひらを胸に持っていった。心臓の上で、指先を軽く打つ。打つ、止める、打つ。打つたびに、胸の中が空いて、空いたところを別の何かが満たす。その何かは、涙に似ているけれど、涙ではない。声に似ているけれど、声じゃない。苑は困惑した。自分は歌っていないのに、歌より強いものが胸から溢れてくる。喉ではなく、骨の隙間から出てくる。骨は、嘘をつけない。
燈が配給列の端に立ち、腕時計の針をまた指で押さえた。押さえた指先がわずかに震える。震えは止められない。止められないものの上に、人は手を置く。手を置くと、震えは少し弱くなる。弱くなると、遠くの震えに気づく。気づいたものは、共有される。共有されると、音になる。
御影が照明の影の濃さを微妙に調整した。青白い輪の中で、人の輪郭が柔らいだ。影と光が交互に人の顔を撫でる。撫でられた顔は、少しだけ若くなる。子どもたちが大人の手を引いた。大人の手は、子どもの手よりも冷たかった。冷たさを、音が温めていく。
柊は、シャッターを刻む。音に合わせて、シャッターも音になろうとする。シャッターの軽い金属の声が、手拍子の隙間に落ちて、すぐに拾われる。柊は狙って落としている。落とした音が回収されることを知っている。知っているから、迷いがない。迷いのないシャッターは、現実に優しい。
苑は、手をひらいた。ひらいて、空をつかむ。空は柔らかくない。硬くもない。つかむふりをすると、指先の力が腕に戻ってくる。その力を足へ流し、ステップを踏む。右、左、回る。周りの人も、回る。誰かが回り方を間違えて、別の誰かが笑いながら肩を戻す。戻り方が、音の通り道になる。通り道が増えるほど、言葉の出番は減る。
「ここ」
燈がゆっくり歩いてきて、苑の近くでささやいた。声は小さかったが、音の中に埋もれない。
「この瞬間は、動かさない」
腕時計の針に触れた指先を、今度は空中で止める。止めた仕草だけで、周りの手が一斉に止まった。音が消える。消えると、息だけが残る。息はつながる。つながると、涙は出ない。涙が出ないと、胸に残るものが増える。増えるものは、まだ名前がない。
「再開」
燈は言わなかった。言わないで、指先を下ろした。その動きが合図になった。手拍子が戻る。床のステップが厚くなる。譜面台の細い音が、星みたいに散らばる。御影の照明が、ほんの少しだけ明るくなる。柊のシャッターが二度、続けて落ちる。
宙が幕の裏からこちらを見ていた。人形の王子の手が糸の先で揺れている。王子はもう、この舞台を卒業した。卒業したけれど、まだ手を振っている。人形の手は、嘘の手だ。嘘の手なのに、いちばん素直な動きをする。素直さは、人を無防備にする。無防備になると、音が直接入ってくる。直接入って、骨の隙間に沈む。沈んだものは、なかなか抜けない。
苑は、終わりの合図を探した。探す代わりに、手をつないだ。隣にいた小さな男の子の手を、指先だけで包む。包まれた手が、ゆっくりと力を返してくる。返す力が、胸の奥に届く。胸の奥が、形を変える。変わった形のままで、最後のステップを刻む。チン、パ、タン、タン。静かに、静かに、音を閉じた。
広間に、静けさが落ちた。落ちた静けさは、すぐに誰かの肩に掛かった。肩が軽くなる。軽くなった肩が、別の肩に寄りかかる。寄りかかった肩が、笑う。笑うと、泣き声が少し小さくなる。小さくなった泣き声は、耳の奥にしまわれる。しまった場所は、誰にも見えない。見えないものを、音は知っている。
拍手は起きなかった。起きないかわりに、誰かの手が誰かの手に触れた。触れた手が、離れずにいた。離れないでいる間、外の空は止まったふりをした。光条が震えを弱め、遠雷は遅れてしか来なくなった。嘘だとしても、嘘は役に立つ。役に立つ嘘は、誰も傷つけない。
「ありがとう」
燈が小さく言った。声は低く、落ち着いていた。苑は頷いた。喉は静かだった。静かさが、怖くなかった。怖くないことが、怖くなる瞬間もある。でも今は、大丈夫だった。手がある。手は、声より近いところにいる。ここにいる。ここで触れる。触れたまま、終わりを見ている。
人が少しずつ散っていく。御影が配電盤を閉め、照明を落とした。青白い光がなくなると、暗さが近づいた。暗さは、怖がらせようとはしてこない。ただ、そこにいるだけだ。そこにいる暗さに、目が慣れていく。慣れていくあいだ、手は離れない。
柊が苑のところへ来た。液晶に映った写真を見せる。光の輪の中で、人の手が連なっている。顔はぼやけていても、手ははっきりした線を持っていた。手の形は年齢を選ばない。小さな指、大きな掌、細い手首、傷のある甲。全部が輪になって、真ん中に小さな空白を作っている。空白は、音が入る場所だ。音がもう出ていないのに、そこには音がいる。
「きれい」
苑は声に出さずに言った。柊はうなずいた。うなずく動きが、写真の手と重なった。重なると、写真は現実になる。現実になった写真は、保存できる。保存されたものは、あとでだれかの目に入る。入った目が、また手を求める。そうやって、音の代わりに手が残る。
「今夜、もう一回できる?」
燈が尋ねた。御影が首をかしげる。配電の表を頭に浮かべている顔だ。
「短くなら、いける。アンプは切って、照明だけ。酸素の配分は、さっきのほうがよかった。人の集まり方が、よかった」
「じゃあ、短く。五分。五分は、長い」
燈の目は疲れていたが、どこか楽しそうだった。配給表の端に指が触れ、紙の角がわずかに曲がる。曲がった角が、なぜか安心させる。完璧じゃないものは、優しい。優しいもののそばでは、息が楽だ。
苑は黒板の前に立ち、小さなチョークで円を描いた。円の中に、点を一つだけ打つ。その点が、始まりでも終わりでもいい。円の外から、手を伸ばす。伸ばした手に、だれかの手が触れる。その触れ方だけを覚えていれば、声がなくても、戻れる。
準備のあいだ、苑は診察室の言葉を思い出した。声は逃げない。追うほど遠のく。逃げないものを、追わない練習。追わないで、待つ。待つあいだ、手を忙しくする。譜面を整える。椅子を並べる。子どもの靴紐を結ぶ。御影の工具をまとめる。燈の配給表を抑える。柊のストラップを直す。宙の人形の糸をほぐす。やることはいくらでもあって、どれも小さい。小さいことは、声より確かだ。
夜が深くなった。空のひびが増える。増えるのに、音は静かだ。遠雷は、もう驚かせない。驚かないことは、麻痺とは違う。驚かないための準備をして、驚かない。準備は手でする。手だけが、最後まで信用できる。
二度目の合唱は、さらに短かった。最初の息の合図で、みんなの胸が同じ高さまで上がる。手拍子は三回だけ。ステップは二回だけ。譜面台の音は、一度だけ。最後に、手をつないだ。五分に満たない時間のなかで、流れがつくられた。流れがあると、夜の長さが切り分けられる。切り分けた間に、眠る時間を置ける。眠ることは、最高の合唱だと苑は思った。声を使わないまま、全身で同じ調子に入る。寝息が重なると、それだけで、歌だ。
片付けを終えてから、苑は合唱室に戻った。黒板の円は、まだ消えずに残っている。チョークの粉が指についた。粉は軽く、すぐに消える。消えるものを、手はよく掴む。掴んだあとで、手を洗う。洗った手は白くなる。白くなった手で、窓を開ける。夜風が入る。風鈴の残骸が軒の隅で鳴った気がした。音がしないのに、鳴った気がした。気がしただけでも、いい。
「苑」
背後で、柊が呼んだ。声は細く、届く距離を知っている。苑は振り返る。柊はファインダーを覗かずに立っている。カメラを下ろしたまま、両手をこちらに出した。長い指。カメラのストラップで擦れた跡が、手の甲に薄く残っている。
「ハイタッチ、してもいい?」
苑は笑った。声にしない笑いを、手に集める。柊の手に、自分の手を合わせる。パン、と軽い音が鳴った。鳴った瞬間、胸の奥で何かがほどけた。手を合わせただけなのに、長い歌を歌った後みたいに、息が楽になった。楽になった息は、すぐに夜の湿度を吸って、重さを取り戻す。でも、その短い楽さが、今は十分だった。
「お疲れ」
柊の口がそう動いた。声は出ない。出さないことを選んでいる。選んでいるから、優しい。優しい言葉は、声がなくても届く。届いた言葉は、胸の奥で音になる。音になったものが、次の手の動きを決める。
御影が廊下を通っていく。頬の火傷の赤みは引いていたが、目の奥に青い火が残っていた。燈は腕時計を巻き直し、時間を進めた。宙は図書室から戻ってきて、台本の最後の行を撫でた。終わりの先でまた会おう。嘘の橋は、今夜も渡れた。渡れた足音は、ここに残っている。
苑は黒板の円を手で消した。粉が舞い、夜の中で光る。光はすぐに消える。消えるものを、もう怖がらない。怖がらないで、手を出す。出した手に、だれかの手が触れる。触れた手が、声になる。声は、戻ってこなくてもいい。戻ってきたら、嬉しい。戻ってこなくても、歌はできる。歌は声じゃない。歌は、ここにある。手のひらの、熱の中に。
窓の外で、光条が一本、静かに薄れた。遠雷はこなかった。風が少し冷たくなった。夜と朝のあいだに、見えない線が引かれる。線は、人の手で引ける。引いた線の上に、手を置く。置いた手が、誰かの手と重なる。重なった場所が、歌になる。歌のない合唱の、中心になる。
苑は譜面を胸に抱え、合唱室の灯りを落とした。暗闇は、静かに寄ってきた。寄ってきた暗闇の中で、苑は自分の手を見た。見えないけれど、そこにある。そこにあるものだけで、明日もやる。明日も、鳴らす。鳴らして、つなぐ。つないで、渡す。渡して、戻る。戻る場所が、まだここにあるうちに。
廊下で、誰かの笑い声がした。笑いは短く、軽かった。軽いものは、空へ上がる。上がりながら、どこかで手に変わる。手に変わった笑いは、次の瞬間、誰かの肩に乗る。肩に乗って、眠らせる。眠らせたあとに、朝が来る。朝が来たら、また手を使う。声のかわりに手を。終わりが近いほど、言葉より近いところで、手が繋がる。そうして、まだここにいる。まだ、ここに。
苑は胸の中で、小さく拍を刻んだ。刻んで、止めた。止めた瞬間、喉の奥に、かすかな音の芽が触れた気がした。芽は小さく、頼りない。頼りないのに、確かだった。確かさは、手の感覚に似ている。似ているものは、育つ。育つまで、手を使う。声のかわりに、手を。
その夜、苑は眠った。夢の中で、だれかの手がだれかの手を探し、見つけ、握る。握った手の間に、薄い布が挟まっている。布には、見えない歌詞が書いてある。読めない。読めないけれど、歌える。歌えるから、布はほどける。ほどけた布が、朝の風に揺れる。揺れた布の端を、だれかが掴む。掴んだまま、笑う。
目を覚ますと、窓の外の空は、まだ焦げていた。焦げているのに、どこかで鳥が鳴いた。鳥の声は、だれにも止められない。止められない声は、羨ましい。でも、羨む代わりに、手を伸ばす。伸ばした手が、今日もどこかと繋がる。繋がったところから、歌が始まる。声のかわりに手を。その簡単な合図を、苑は胸の中で何度も繰り返し、静かに起き上がった。




