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滅びの手前で、君の名をまだ呼ぶ  作者: しげみち みり


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第3話 発電室の青い火

 理科棟の地下の扉は重かった。押すと、湿った鉄の匂いがした。階段を下りきるまで、蛍光灯は一本も生きていない。懐中電灯の円い光だけが前に落ちて、埃をゆっくり漂わせる。床は夏の雨を吸ったコンクリートで、足音が水底みたいに鈍い。

 御影は工具箱を脇に置くと、非常用発電機のカバーを外した。指が油で滑る。ネジはところどころ錆びて、頭が潰れていた。ドライバーを噛ませ、じわりと力をかけると、金属が低い悲鳴を上げて回った。中から配線の束が出てきた。古い赤いテープが巻かれている。誰かがいつか応急でやった手当ての跡だ。

 「今日は動けよ」

 御影は小さく言った。誰に向けてとも分からないつぶやきは、機械に吸われて消えた。発電機の内部に手を入れると、指先が冷たさを取り戻していく。触れたものが、意味を持ち直す瞬間が好きだった。ここだけ、世界の崩れが遅くなる気がする。電気が流れれば、医療機器は安定し、夜の酸素濃度は少し上がる。眠れない人が少し眠れて、止まりかけのポンプがまた回る。そういう数字を、御影は頭の中に並べた。

 地上からかすかに歓声のようなものが聞こえた。すぐに遠雷にかき消される。空は今日も焦げている。空の筋が一本増えるたび、誰かが避難所の表で数を数える。十三がまた出た、という話を昨日も聞いた。偶然だろう、と御影は思い、思考から追い出した。偶然や前兆は、計算を腐らせる。

 工具箱から小型のアークトーチを取り出し、接点の焼けた部分に触れる。青い火が跳ねた。瞬きの間、発電室が水中のように青く染まる。御影は頬に熱を感じた。火傷になるほどではない。けれど、火の気配は皮膚の裏にしばらく残る。人の体は、熱いものの形をよく覚える。

 足音が近づき、階段の上に影が落ちた。生徒会の腕章。燈が配給用の紙束を抱えて、息を落ち着けている。

 「御影くん?」

 光が差し込む扉の隙間から、彼女の声が降りた。御影はトーチを置き、振り返る。燈は額に汗を浮かべていた。紙束の端がしっとりしている。避難所の湿度は、高すぎる日が増えた。

 「忙しいところ悪い。配給の電力再配分、相談したくて」

 「発電機が生きれば、話は早いんだけど」

 御影はむき出しの端子を示し、雑に笑った。燈は発電機の脇にしゃがみ、図面を覗き込んだ。数字に強い人の眼だと、御影は思った。紙の上の線に震えがない。

 「体育館と理科棟と、保健室。夜はどこを厚くするべきだと思う?」

 「保健室は最優先。酸素を使ってる人が三人。ポンプが止まると危ない」

 「体育館は避難民の集会と配給所。灯りが落ちると不安が伝染する。理科棟は、今夜はここ以外落としてもいい」

 燈の声は平らに響く。決める人間の声だった。御影は頷きつつ、電圧の計算を書き込んだ。自作の表に数字が増えていく。最大出力、ロス、予備。そこに、ふと別の数字を重ねてしまう。合唱室の使用電力。ステージのスポットライト。二台。弱くても一灯。

 「ステージに光を戻せるかもしれない」

 言ってから、自分の声の熱に気づいた。燈が顔を上げる。ほんの一秒、彼女の瞳が揺れた。合唱室。苑。声が出ないのに譜面を読む少女のことを、燈はよく知っている。

 「歌わせたいの?」

 燈は自分に問うように言った。御影はちいさく肩をすくめる。

 「歌いたいなら、光はあってもいい」

 「歌えないかもしれない」

 「歌えないなら、光だけでも。光があれば、誰かがそこへ集まる。集まれば、酸素の配分を変えられる。人の流れを、少し整えられる」

 御影は、論に隠れてしまう自分の本心を、気づかないふりで並べた。光が欲しいのは、理屈のためか、誰かの顔を見るためか。数字で説明できるうちは、まだ逃げ場がある。

 燈は配給表を持ち直し、深く息を吐いた。

 「今夜、試せる?」

 「うん。バッテリーとコイルを生き返らせる。体育館の片隅だけ、灯るはず」

 「柊に連絡する。点灯の瞬間を撮ってもらおう」

 燈の口元に、少しだけ笑みが戻った。写真に残るものを、彼女は現実の形にできると信じている。御影は頷いた。現実に重なる記録を、彼も必要としていた。

 その夜、体育館に人が集まった。扉は半分開き、外の空気が入る。天井には細かなひびが蜘蛛の巣のように広がり、ナトリウム灯の残照が薄く漂っていた。床の一角には医療用の簡易ベッドが並ぶ。そこに寝ている老人の胸が、リズムを探して上下している。

 柊は手持ちのカメラを肩から下げ、電源ケーブルの近くに立った。燈は配電盤の前で腕を組み、御影はケーブルの結線を確認していた。体育館の片隅には、ステージがある。幕は垂れ、埃が積もっている。そこに小さな照明スタンドを立てた。御影の手で組んだアンプに、細いコードが繋がる。

 「準備、いい?」

 燈の合図に、御影は発電機のスイッチを入れた。理科棟地下から引いた仮設ラインが、わずかに振動しているのが足元に伝わる。エンジンが咳をし、息を吸う。空のどこかで雷が鳴った。体育館全体が、呼吸を合わせようとしているみたいだ。

 「いくよ」

 御影がアンプのスイッチを押す。青白い音もない光が、ぱっと点いた。体育館の片隅が、昼間のように浮かぶ。埃が金色に反射し、人々の顔が視線を集めた。ステージの上、照らされた幕の前に、一人の影が立っていた。苑だった。燈がいつの間にか連れてきていたらしい。スニーカーのつま先が照明の枠の中に入って、止まる。

 柊がシャッターを切る音が響いた。手ぶれを嫌う長い吸気の気配が、体育館の広さに溶ける。その瞬間、天井のひびに沿って走る一筋の白い光が見えた。外の空で光条が震え、建物に伝わったのだろう。遠雷が遅れて落ちてくる。体育館の空気が押されて、照明の光が小さく揺れた。

 御影は発電機から伸びるケーブルを握り直した。握った手の中で、電気の気配は熱ではなく冷たさだった。熱は自分の頬にあった。さきほど地下で跳ねた青い火が、皮膚の内側にまだ残っている。指で押さえると、そこだけ現実の密度が濃い。体のどこが今を覚えているか、はっきり分かってしまう。

 苑は口を開いた。声は出ない。けれど、その口の形で曲が分かった。合唱部が何度も練習していた曲名を、体育館のあちこちから囁く声が拾う。誰かが小さく息でハミングを始めた。無理に音にしない。呼吸の延長で続ける。音が重なり、薄い川のようになる。アンプは、ただ光を支えるだけだった。その光の下で、人の声が重なった。

 照明の縁で柊がまたシャッターを切る。御影は彼の横顔を見る。カメラを構える時の目付きは、恐ろしく静かだ。現実の重さと距離を測るための眼。御影はそれが少し羨ましかった。彼は数字で世界と話すが、数字はいつも頷くだけで、表情を見せない。

 「御影」

 燈が、小声で呼んだ。彼女の手には配電盤のスイッチがある。アンプのメーターが、限界に近い緑に張り付いている。

 「持つ?」

「持たせる」

 御影はケーブルの結束を確かめ、コイルを手の甲で触れた。熱い。けれど焼け切れる前の熱だ。金属の匂いと、埃と、どこか甘い匂いが混じる。発電機を想う。地下で跳ねた青い火。機械は嘘をつかない。出ないものは出ない。出るものは出る。今は出る。

 天井から細かな砂が落ちてきた。光に照らされ、小さな雪のように見える。誰かが咳をした。ハミングは細くなったが、途切れない。光はまだある。その光の下、御影は自分の頬に触れた。皮膚の下に残る熱を、指先で確かめる。痛みは思ったほどではない。後からくる痛みのほうが、いつも強い。

 スパークの匂いが強くなった瞬間、体育館の奥で小さな悲鳴があがった。天井のひびがひとつ、筋を太らせたのだ。誰かが立ち上がり、誰かが座らせた。燈が壇上から手で落ち着かせる合図をする。御影はアンプの出力をほんのわずかに落とした。光はほぼ変わらず、メーターの針がやっと一目盛り下がった。

 「間に合ううちに使おう」

 誰にともなく、御影は言った。燈がそれを聞き、短く頷いた。

 「間に合わせるためじゃなくて?」

 「間に合わないものは、間に合わない。だから、間に合ううちに使う。光も、電気も、人の体力も」

 言いながら、御影は自分の言葉が静かに怖かった。間に合ううち、と言えるほど、遅れを測れる自信が、どこから来るのか。数字に頼るほど、数字の向こうに顔が増える。酸素濃度、出力、許容量。その横に、誰の呼吸、誰の声、誰の不安が並ぶ。目盛りは増え、数字は重くなる。

 照明の光の輪の中で、苑が両手を胸の前で組んだ。歌えない代わりのその動作は、振りのようで祈りに見えた。誰かがそれに合わせて息を整える。柊が少し下がり、全体を入れる角度で構え直す。その手の震えは、御影の手よりも小さい。恐怖ではなく、何かを取りこぼしたくない時の震えだ。

 ふと、電源ラインが揺れた。地下の発電機がうなり、ノイズが走る。御影がケーブルを押さえる。青い火が頭の裏側でちらつく。頬の中の熱が、そこから再び燃え始める。痛覚は現実の証明書だ。ここにいる、と体が押してくる。

 灯りが強くなった。体育館の片隅が、少しだけ広がる。御影は息を吐き、目を閉じた。まぶたの裏も青い。地下で見た色が、ここまで上がってきた気がした。光の輪の外側では、暗闇が静かに寄ってくる。世界は縮んでいる。縮みきる前に、灯せる場所へ灯すだけだ。

 やがて一曲分の時間が過ぎ、苑はゆっくりと手を下ろした。ハミングは消えて、体育館に静けさが戻る。誰かが拍手をした。誰かが続け、音が混ざっていく。拍手はすぐにやみ、誰も声を出さなかった。言葉は、今日は少なかった。少ないことで、守られたものがあるように、御影は思った。

 アンプのスイッチを落とす。光が消える。暗闇がまた元の場所を取り戻す。山を越えた後のように、耳が静かになる。遠雷は小さく、まだ続いていた。

 「今夜はここまで」

 燈が言い、配電盤から手を離した。御影はケーブルを丁寧にまとめる。捨てる時も、丁寧にたたむ習慣が染み付いている。使い切ることと、粗末にすることは違う。間に合ううちに使い、使い切る。

 体育館を出ると、夜風が熱を奪った。頬に触れると、火傷の輪郭が鮮明になっていた。柊が近づいてきた。

 「御影、その顔」

 「大したことない」

 「撮っておく」

 柊がカメラを上げる。御影は拒まなかった。撮られることは、消えることへの時間稼ぎにも思えた。証明写真のような無表情でいれば、あとで誰かが使える。数字で書けない温度を、誰かの手の中へ渡すこともできる。

 シャッターの音がひとつ、夜の空気に落ちた。柊は液晶で確認し、頷いた。燈が柊の肩を軽く叩いた。

 「ありがとう。点灯の瞬間、撮れた?」

 「撮れた。光が揺れた時の顔も」

 「誰の?」

 「みんなの。御影のも、苑のも」

 燈は目を伏せた。少しの間、彼女は生徒会の顔ではなく、ただの同級生の顔をしていた。御影はそれを見た。数字の列に名前をつける作業が、彼女にも増えている。配給のリストは重い。重いのに、腕にその重さが表れないように抱える技術が、日に日に洗練されている。洗練が、人を削らないことを祈る。

 「御影」

 燈が、もう一度名前を呼ぶ。彼女の声には、現実の硬さと、頼る柔らかさが同居していた。

 「明日の夜も、できる?」

 「発電機が生きていれば。部品の替えがもうない。今日の出力は、かなり無理した」

 「無理なら、やめる?」

 「やめない。やめる前に、出力を変える。別の場所を落として、ここを灯すかもしれない。逆もある。数字が決める。……数字だけが決めるべきじゃないのかもしれないけど」

 燈はうっすら笑い、うなずいた。

 「数字と、顔と。両方で決めよう」

 「顔が増えすぎると、計算が遅れる」

 「遅れてもいい。遅らせるための計算なんだから」

 御影はその言い方に、少し救われた。遅らせるため、という言い方は、誰かを責めない。世界全体を相手にしている。責める対象を選ばないことは、弱さでもあるが、誰かが眠るためには必要な弱さだ。

 燈が体育館へ戻っていき、柊も続いた。御影は理科棟へ向けて歩く。地下の発電室に戻り、発電機の音を自分の耳で確認する。まだ回る。回り続けている間だけ、今夜の光は現実でいられる。

 階段を降りると、湿った壁が呼吸をしているように見えた。扉を押すと、青い匂いが残っていた。トーチの火が跳ねた場所が黒く焦げている。指で触れると、粉がついた。粉を親指と人差し指で擦ると、細かな粒が音を立てずに崩れた。時間が細かく崩れる音は、耳ではなく指の腹で聞くほうが分かる。

 発電機のカバーを閉める前に、御影は手を止めた。アンペアのメーターは、真ん中で揺れている。美しい揺れだった。中心から少し外れ、また戻る。人の心拍のようだと思い、すぐに振り払う。似せて考えるのは、計算を曇らせる。

 工具を片付け、最後にトーチを手に取った。口元に持ち上げ、息を吹きかける癖は、工場で働いていた父から移ったものだ。父は息を吹くことで火の機嫌を知った。御影は火の機嫌を、数字でしか知らない。それで十分に動かすことはできる。けれど、今日の頬の熱は、数字の外にあった。

 地下から上がる前に、扉の前で立ち止まった。耳を澄ます。体育館の方角から、遠く、揺れるような声が届く気がした。言葉ではなく、音の残り。誰かが続けている。照明が落ちた後も、誰かが息で繋がっている。発電室の青い火は消えたが、体育館の薄闇には、顔が残っている。

 階段を上がると、夜の空が視界いっぱいに広がった。光条が一本、ゆっくりと薄れていくところだった。薄れる音はないのに、消える気配だけが街に降りてきて、唇の内側を乾かす。御影は舌で湿らせ、頬の内側の熱をもう一度押さえた。

 間に合ううちに使おう、と彼はもう一度心の中で繰り返した。間に合わせることには、いつも誰かが落ちる。間に合ううちに使うなら、落とす人間を選ばずに済むかもしれない。そう思うこと自体が、選ぶことの逃げなのかもしれない。それでも、今夜の光は良かった。良かったと、はっきり言える。

 帰り際、校舎の窓に、誰かの影が映った。柊かもしれない。燈かもしれない。苑かもしれない。御影は手を挙げかけて、その手を下ろした。手を挙げると、明日の光の分を使ってしまう気がした。使うべきところで使う。それ以外では、貯める。貯めて、必要な瞬間に燃やす。その瞬間はきっと、また来る。

 歩いていると、ふと足元に光るものがあった。小さなガラスの欠片。校舎のどこかから落ちた風鈴の一部だろう。拾い上げると、指先で薄く鳴った。耳に当てると、ほとんど聞こえないほどの音で、遠くで誰かが呼吸しているのが分かる気がした。

 御影はガラスをポケットに入れた。明日、発電室の机に置こうと思った。数字の横に、鳴らない風鈴の欠片を置く。計算の途中で、指先が当たって、小さく鳴るかもしれない。鳴らなくてもいい。そこにあることが、計算の形を少し変える。

 理科棟の角を曲がった時、空がまた鳴った。遠雷ではなく、もっと乾いた音。光条が遠く、地平へ沈むのが見えた。街が、ゆっくりと形を変えていく。変わる前に灯した光が、誰かの目の裏に残る。それで十分だと思える夜が、今はまだある。

 発電室の青い火は、簡単に人を焼く。簡単に人を照らす。そのあいだにある薄い線の上に、御影は立っている。線の上で、数字を並べ、顔を思い出す。顔の輪郭は、光が消えた後のほうがはっきりする。照らされた瞬間より、消えた瞬間のほうが、記憶に残る。

 校門へ出ると、風が少し冷たかった。夜の匂いは海へ傾いている。遠くで犬の吠える声がして、すぐにやむ。明日になれば、また決めることが増えるだろう。配給の数、電圧の配分、移送の時間。数字の列の端に、書けないものが増えていく。書けないものを、ポケットの中の欠片が少しだけ支える。

 御影は足を止めずに歩いた。間に合ううちに使う。使い方を間違えないように、間違えることを怖がり過ぎないように。頬の熱が冷める前に、もう一度、地下へ行こうと思った。眠らずに、回路を点検しよう。眠らないでいる誰かのために、眠らないでいる自分のために。

 空は焦げたまま、薄い色をかすかに取り戻しつつあった。夜の遅さを、発電室の青い火で少しだけ早めることはできる。朝が来る前の、その短い間に、灯すべきところへ灯す。灯った光の輪の中に、今夜は確かに人の顔があった。その顔の輪郭が、御影の目の裏に、青い余韻で残っていた。

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