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滅びの手前で、君の名をまだ呼ぶ  作者: しげみち みり


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第二十一話 残る

 朝の空気は濁っているのに、冷たさだけはまっすぐだった。体育館の前に広げた地図の上に小石を置き、燈が丸で囲んだ家を指でなぞる。丸の中には短い印。高齢。車椅子。酸素。ひとり暮らし。印が増えるほど、地図が呼吸するように見えた。


 残留班は七人。柊、凪、海斗、茉莉、宙、苑、御影。名簿の右に小さな丸が並び、丸と同じ数だけ肩に載る荷物が増える。だが、増えすぎない。増やし過ぎると、身体が動きを忘れる。忘れない重さにする。御影は配電の表を折りたたみ、ポケットに差し込んだ。


 「発電機は二割。救護一。通信一。街灯、校門、切る。冷蔵庫は時間制。交流は避ける。直流で回せるものは直流に」


 数字を口にすると、胸の奥が冷える。冷えるから、言葉は短く。短い言葉は、背中で持てる。持ち歩ける。


 柊はカメラのキャップを外し、欠けたレンズの縁を一度だけ指でなぞった。今日は玄関の前で撮る。人の顔を撮らない。家と、表札と、植木鉢。洗濯バサミ。窓の格子。新聞受けの傷。ここにいる、を写す。ここにいた、にならないように。


 宙はポーチの中から小さな紙束を取り出した。紙には、台本の一節が印刷されている。大人にも子どもにも読めるだけの長さに切ってある。彼は紙の角を一枚ずつ折り、指でぎゅっと押しつけた。折れ目は小さい。小さい目印のほうが、後で見つけやすい。


 茉莉は木箱から便箋を数十枚とり、宛名のない手紙の本文を書いていく。宛先は、明日の私たちへ。差出人、今日の私たちより。本文は短い。一文か、二文。長くすると、途中で落とす。落ちた文は道で汚れる。短い文は、ポストの冷たさでも崩れない。


 凪は無線機のバッテリーをふたつ背負い、予備のダイヤルをケースに入れた。海斗はリュックの腰ベルトを締め、苑は指先に油性ペンで小さく文字を書く練習をした。今日はこの手のひらで、言葉を残す。声が出なくても、言葉は残る。残るものがあれば、人は待てる。


 出発前、燈が輪の真ん中で合図をした。右手を二度、空に軽く叩く。音はほとんどしない。しない分だけ、全員の指先が同じ重さで動いた。動くことで、体の中の迷いが小さくなる。


 最初の家は、体育館から坂を下りてすぐの古い貸家だった。戸袋の木は黒く、雨に削られた筋が縦に走っている。チャイムは鳴らない。海斗が軽く戸を叩く。草の匂いが内側から微かに漏れてきて、やがて錆びた鍵の音が二度、遠くで鳴った。


 扉が開く。腰の曲がった女性が、片手で枠に捕まったまま、こちらを見上げる。目は強く、言葉は少ない。柊は頭を下げ、足を一歩引いて間合いを広げた。距離が近すぎると、言葉が重くなる。


 「配給と、次の予定の確認に来ました」


 声に名乗りは含まない。名前を出すと、別れが大きくなる。別れを小さくするために、役割だけを置く。


 御影は部屋に入り、コンセントの位置と古い酸素機器の型番を目で追った。連結の部分にひび。延長のタップが過負荷。壁の裏の配線が湿っているかもしれない。彼は床に膝をつき、タップを一つ外し、代わりに持参した直流の小さな変換器をつないだ。女性は黙って見ている。黙っている人の目は、作業を不必要に急がせない。急がない手つきは、機械に良い。


 茉莉が便箋を一枚、手渡しではなく、台所のカゴにそっと入れた。手渡すと重くなる。重くなると読めない。読めなくてもいいが、読みたいときに手元にあるほうがいい。カゴの中なら、いつでも手が届く。


 宙は玄関の靴箱の上に、台本の一節を置いた。紙の角は折れていて、表の言葉は短い。


 「終わりを待つ人には、待つ以外の用事がある」


 女性の視線が一瞬だけ紙に落ちて、またこちらに戻る。紙はそのままでいい。読む時に読む。読まない時は、そのまま置いておけばいい。


 苑は手のひらにペンで、ゆっくり文字を書いた。黒い、分かりやすい字。「また来る」。女性は眉を上げ、細く笑った。声は出ない笑い。けれど、笑いはここにいる印になる。


 外へ出る前に、柊は玄関の庇と表札と、手すりの錆をフレームの中に入れて、一枚だけシャッターを切った。欠けたレンズの縁に午前の光が集まる。家の顔は、こちらを見ない。それでも写る。ここにいる、が紙の上で呼吸する。


 次の家は、坂を上がって角を二つ曲がったところの団地だった。古い二階建て。階段の踊り場に、車椅子の跡が細い黒い線で残っている。凪がインターホンを押す。沈黙。もう一度。窓のカーテンが少し動く。海斗が階段を降り、裏口から声をかける。


 「来ました。扉、前に引きます」


 内側で鎖の音。少しだけ開いて、白い手が見える。手は小刻みに震えて、汗で光っていた。凪がその手を掴まないように、手の下に自分の手を差し入れる。何も支えない動き。支えないと、支えになる。


 扉が開く。車椅子に座る中年の男性が、息を整えながらこちらを見る。室内の棚の上には薬と時計と、使われていない家電の説明書が重なっている。御影はまず窓を少しだけ開け、空気の行き来を作った。空気が動くと、言葉が動きやすくなる。動き過ぎないように、窓の下に雑誌を挟む。挟んだ角が、風を切る音を柔らかくした。


 柊は踊り場から、扉と手すりと表札のナンバーを一枚に収めた。表札の上にはクモの巣が細く渡っている。古い巣だ。誰も払わなかった時間の線。そこに、新しい印を重ねる。


 宙は「今夜のテレビは音を消して。字幕で」と紙に書き添え、台本の一節を短く置いた。


 「静かな場面は、静かなままに」


 男性は受け取らず、目だけで読む。読んで、うなずく。読む人のうなずきは、こちらの肩のこわばりを解く。読むことが、距離の半分を歩く力になる。


 苑は手のひらに「また来る」と書いて見せ、茉莉は便箋をポストに差した。差した紙の角が少し外へ出た。出ている角は目印だ。夜でも見える。


 巡回は続いた。角を曲がるごとに、家の色が少しずつ変わる。閉めない窓。閉めるしかない窓。濡れた段ボール。干せない洗濯物。猫の足跡。鉢の中で丸くなった土。全部が、ここにいるの証拠だった。証拠に名前は要らない。名前は人に付く。証拠は場所に付く。


 途中、小さな交差点で足が止まった。柱の根本が割れて、信号機が片方だけ斜めに傾いている。赤のレンズに泥が付着し、光が濁って見える。海斗が手を上げ、人の流れを止める合図をした。誰も車には乗っていないのに、合図は意味を持つ。合図は誰かの足を止め、誰かの足を進める。進んだ足の分だけ、止まった足が休める。


 茉莉は歩きながら、便箋の文を少しずつ変えた。同じ文を繰り返すと、文が軽くなる。軽くなると、風に飛ぶ。飛んだ文は誰でも拾えるけれど、拾われる前に濡れる。濡れる前に、別の文にする。


 「明日の朝に、水の受け取りができます」


 「夜は静かに。眠れなくても、目を閉じるだけでいいです」


 「窓の隙間に、紙を挟んで。風が言葉をこぼします」


 紙は重くない。重くないから、誰でも持てる。誰でも持てるものが揃うと、町は息を合わせやすくなる。


 昼過ぎ、丘の上の平屋に着いた。庭の柿の木に実が残っている。低い塀に手を置いて、柊が息を整えた。扉には貼り紙。「外出困難」。墨で太く書かれている。扉を叩く前に、宙が庭の端で祈るみたいに深呼吸した。深呼吸を祈りと呼ぶと軽すぎる。でも、今はそれくらいがちょうどいい。


 扉が開く。老夫婦が並んで立っていた。背丈が揃っていて、目の高さが同じ。二人とも会釈をして、言葉は少なかった。御影が酸素の予備の確認をし、凪が電波の入りを試し、茉莉が便箋をテーブルの角に置いた。苑は少し迷ってから、奥の部屋の戸口へ行き、壁のカレンダーに黒いペンで丸を付けた。今日の日付。丸は小さく、真ん中が塗られていない。空いた真ん中は、明日の分だ。


 帰り際、海斗が庭の柿をひとつ、老人の手に乗せた。老人は受け取らず、海斗の手の上に自分の手をそっと置いた。受け取りの形。受け取らないまま、受け取る形。二人の手の間で、柿が重さを持って、軽くなった。軽くなったのは、気のせいではない。


 道中、何度か言葉に詰まる瞬間があった。声にできない知らせ。声にしたくない現実。宙はそのたびに、自分の台本を読むのをやめた。やめて、溝の水の流れを見た。水は溝の角で小さな渦を作り、葉っぱを回して、やがて外へ押し出す。押し出す力は強くない。強くないのに、確かだ。


 午後、雲が少しだけ位置を変え、日射しが斜めになった。御影は腕時計を見ない。見ないかわりに、影の長さで電源の切り替えの時刻を測った。救護一。通信一。照明は必要なときだけ。体育館へ戻る前に、最後の家を回る。ここは地図の端。端は忘れられやすい。忘れられやすい場所ほど、先に行く。先に行った分だけ、中心に戻る道が見える。


 最後の家は、小さな床屋だった。シャッターは半分降りて、ガラス越しに中の椅子が見える。椅子は磨かれていて、背もたれはひびひとつない。扉を開けると、刈り込みの音の代わりにラジオのノイズが流れてきた。老人が椅子の背に手を置いて立っている。背筋は伸びているのに、目の下に深い影があった。


 「水。絆創膏。爪切り。新聞。できれば髪を切ってやりたいんだが、客がいない」


 老人は困ったように笑い、椅子の背を撫でた。椅子はなにも言わない。言わないのに、目の前の誰かの背中の形を覚えている。覚えているから、そこに人が座ると、すぐに馴染む。馴染むことは安心になる。安心は道具だ。今は不足している道具だ。


 茉莉が便箋を差し、宙が小さな紙を置いた。


 「髪はまた。鏡の前で、背筋を伸ばすだけでも、顔が変わります」


 老人はそれを読み、鏡の中の自分に向かって一度だけ頷いた。椅子は空のまま。空のままでも、椅子は仕事をする。空の椅子を写真に撮るのは、少し勇気がいる。柊は構え、シャッターを半押しのまま呼吸を整え、ひとつ吐いてから押し切った。欠けたレンズの縁に、椅子の背と鏡の光と老人の手が、ぎりぎりの距離感で収まった。


 体育館へ戻る道の途中で、海が見えた。防潮扉の上に出ると、光がふっと増した。日は落ちかけているのに、波打ち際が淡く光っている。夜光虫。子どものころに理科の図鑑で見た言葉が、胸の奥で音を立てた。波が崩れるたびに、青い火花みたいな光が散って、すぐに消える。消えるたびに、次の波の縁にまた光が生まれる。


 「きれい、って言っていいのか分からない」


 宙が小さく言った。誰も何も答えない。答えないまま、並んで立つ。光は遠くまで続いているようで、実際には足元の数十メートルだけだ。だけど、見えるものが少ない日には、これで十分だった。十分は、時々、救いと同じ意味になる。


 凪が空を見上げた。光条は、残り二本。数えない、と決めたのに、目は勝手に数える。数えないほうがよい夜と、数えたほうが覚悟ができる夜がある。今夜は、たぶん後者だ。誰も「二本」とは言わない。言わないのに、背中のどこかで同じ数字が冷たく、重く、落ち着いて座っている。


 苑は砂の上にしゃがみ込み、指で小さな音符をいくつか描いた。波がひとつ来て、音符の半分が消える。すぐにまた描く。消えても描ける。描ける場所が砂でよかった。描ける場所が砂でしかないのは、少し悲しい。でも、悲しいから、手を動かす。


 御影は防潮扉の上に腰を下ろし、靴の底を見て、小さな石を取り出した。歩いていると、いつのまにか底に石がはさまる。足を止めないと取れない。止まるのは、悪いことではない。止まったことで、次に進める。彼はその石を指で弾き、海に向かって軽く投げた。石は光の縁に触れ、沈んだ。沈むのは、終わりではない。底に着いたものは、動かない。動かないものの上に、動くものが流れる。


 柊はカメラを下ろした。今は撮らない。撮らないことで、残る枠が胸の中で形を持つ。枠の中に入ってくるものは、明日の朝まで待ってくれない。待ってくれないなら、夜のあいだに枠を温めておく。温まった枠に、明日の朝の光が入る。


 日が沈むころ、体育館に戻ると、燈が配給の最後の列を切っていた。列の終わりに短い線。切ることで、残った人の目が寝床のほうへ向く。向いた視線の先に毛布を置く。毛布は柔らかい。柔らかさは、今日いちばん必要な道具だ。


 御影は配電のスイッチを一度だけ切り替え、校門の灯をほんのわずか弱くし、救護のほうをほんのわずか強くした。数字では分からない差だが、現場には分かる差だ。差は小さいほうがいい。小さな差は夜の冷たさを怒らせない。


 茉莉は木箱の前に座り、今日の巡回のことを短く書いた。宛先、明日の私たちへ。差出人、今日の私たちより。玄関の錆。折れた紙の角。台所のカゴの冷たさ。椅子の背。鏡の光。柿の重さ。扉の鎖。クモの巣の糸。夜光虫。光条は、残り二本。誰も言わないけれど、終わりが近い。でも、近いから、近いものをひとつずつ拾えた。拾ったものは、輪の真ん中に置いた。読む人がいなくても、読む人がいても、置いたものは残る。角を折る。折った角は、明日の朝の目印になる。


 宙は人形をひとつだけ舞台の隅に立て、布の手を前に伸ばした。今夜は芝居をしない。しないという選択が、芝居の一部になる夜もある。人形は静かに立っているだけで、見ている人の肩の力を少しぬく。抜けた力のぶん、眠りが入りやすい。


 凪は無線を肩に置き、耳から少し離した。離すことが、聞くことの一部だ。離さないと、全部が同じ大きさになってしまう。大きさが全部同じだと、必要な音が見えない。今夜は必要な音が少ない。少ないのは、悪くない。


 海斗は体育館の外の砂に丸を描き、丸の中で足踏みをした。踏むたびに砂が音を出す。小さい音。小さい音を聞くには、耳を近づける。耳を近づけるには、頭を下げる。頭を下げると、胸が楽になる。


 苑は毛布の端に腰を下ろし、喉に手を当てた。声は出ない。でも、胸の中に温かいものがある。温かいものがあると、目を閉じやすい。目を閉じると、夜が短くなる。短い夜は、今は味方だ。


 柊は体育館の入口で立ち止まり、ふいに自分の両手を見た。指先の汚れ。爪の間の砂。角で擦れた皮膚の白い筋。今日触ったものの数だけ、手は重くなる。重い手を、彼はポケットに入れた。入れて、拳を軽く握る。握った手のひらに、何かを書いてみる。真似をするみたいに。油性ペンの匂い。黒い、分かりやすい字。自分に向けて。見せる相手がいなくても、書く。


 また来る。


 書いた字を、誰にも見せなかった。見せなくても、手は覚える。覚えた手は、明日の朝、扉を叩く。叩く音は小さい。小さい音を、誰かが聞く。聞いた誰かが扉を少し開ける。その隙間の冷たい空気に、今日折った角の温度が混ざる。


 夜、体育館の隅で風が少しだけ生まれ、どこにもぶつからずに消えた。風鈴のない風鈴が、鳴らなかった。鳴らない夜もある。鳴らないから、眠れる。眠る前に、凪が無線を一度だけ短く叩いた。北からの返事はなかった。ないままでいい。返事がない夜は、祈りの形をしている。祈りは輸送方法を選ばない。


 灯りが落ち、誰かの寝息が揃い、誰かの泣き声が短くなり、誰かの笑いが夢の中で静かになった。御影は配電の表を枕の下に入れ、茉莉は便箋を箱に戻し、宙は人形の手の位置を少しだけ変え、海斗は靴を毛布の下に押し込み、凪はアンテナを窓の外に向けたまま目を閉じ、苑は手のひらの文字を胸に当て、柊はカメラにキャップをはめた。


 光条は、残り二本。誰も言わない。言わないことが、合図になっていた。言わない合図のまま、夜は遠くへ進んだ。進みながら、薄く光った。夜光虫の青い火が消えても、砂の上に小さな音符が残っている。踏まれても、朝にはまた描ける。描けるかぎり、残る。残ると決めた人たちの夜は、少しだけ短く、少しだけ深く、少しだけ温かかった。明日の朝、扉を叩く。叩いて、また言う。手のひらで。声の代わりに。


 また来る。

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