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滅びの手前で、君の名をまだ呼ぶ  作者: しげみち みり


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第十七話 記者

 昼前、校門の前に見慣れない白い車が止まった。塗装の白は新しく、泥よけだけが遠くから来た色で薄く茶に汚れている。屋根には折りたたみ式の皿のようなアンテナ。側面に小さく英字が書いてある。校舎の窓から見下ろした柊は、胸の奥がざわついて、無意識にカメラのストラップを握った。皿の角度が空に向けられたとき、この町の音と言葉が、外へ吸い上げられる。そう思うだけで、喉の奥が乾く。

 運転席から降りた男は、細いネクタイを指で伸ばし、背広の裾をぱんと払い落とした。顔は疲れているのに、目は元気だ。どこかで眠らないように訓練された目。助手席から出てきた若い女性は、三脚とカメラを肩に担いでいる。背筋はまっすぐで、靴はまだ傷がない。ふたりは門をくぐり、体育館の前で立ち止まった。風が弱く、風鈴は鳴らない。

 燈が出ていった。名札は外してあるが、手に持った板状のメモが彼女の仕事を語っている。彼女は男の前で足を止めた。

 記者です。取材をさせてください。

 男は名刺を差し出し、淡々と頭を下げた。名刺は受け取らない。紙より先に、条件を決める。燈は短く息を整えた。

 取材は可能です。条件があります。

 男が眉を上げる。条件という言い方に慣れている顔だ。

 第一に、避難所の人の顔には必ずモザイクを。名前は出さない。第二に、番組中に物資の窓口情報を必ず流すこと。水と薬と乾電池の集積先、搬入時間、連絡先。地図が出せないなら、簡単な言葉の案内でも。第三に、この学校が今何をしているか、誇張はしないでそのまま伝えること。嘘で励ますより、正直で短い希望を。

 男は腕時計を一度見て、それから肩をすくめた。

 モザイクは当然。窓口情報は本部に相談します。やれる範囲で。誇張はしないつもりです。ただ、伝わる絵がほしい。

 絵。柊の耳にその言葉は紙やすりみたいに当たった。きれいで強い画面。涙が大きく光る瞬間。瓦礫の上の夕日。わかっている。わかっているのに、胸の奥で何かが逆立つ。

 宙が柊の肘を軽くつついた。顔で合図する。落ち着いて、と。落ち着けるなら、最初から落ち着いている。柊は目を閉じ、欠けたレンズの縁に指先をそっと触れた。縁はひんやりしている。真ん中は暖かい。世界はいつも、そのふたつの温度でできている。

 御影は少し離れた場所で、車の屋根の皿を見上げていた。衛星回線。彼は口の中で一度だけその言葉を転がし、運用の説明を求めた。男は慣れた手つきで後部の扉を開け、中の機器を見せる。バッテリー、無停電電源装置、変換器。御影は針の振れを目で追い、納得する。これは、本当に遠くへ届く道具だ。町の外へ、さらに向こうへ。

 凪は兄の包帯を確かめ、無線のスイッチを一度だけ入れて切った。外の世界とこの世界を、細い糸で結ぶ瞬間が近い。糸は切れやすい。引き過ぎても緩め過ぎても、切れる。引く人間が多いほど切れる。だから、少ない人で引く。凪は自分の指の力を測った。

 記者の女のカメラマンは、体育館の中の光を測り、三脚を立て、水平を取った。顔は仕事の顔だ。緊張は表に出さない。でも、その靴が新しいという事実は隠せない。新しい靴は痛い。痛みは人を慎重にする。慎重さは、今は悪くない。

 茉莉は木箱の前に座って、便箋の束を撫でた。外へ送ることになるかもしれない。誰が読むか分からない誰かへ。宛先は変わらない。明日の私たちへ。差出人は、今日の私たちより。二行目に、外の人へとも小さく足す。それはわがままではない。外にいる明日の私たちへ、だ。

 海斗は校庭で子どもたちに足踏みを教えながら、無意識に耳の一部だけを体育館のほうへ向けていた。走る準備はいらない。止まる準備だけがいる。止まる準備をしていると、走る時に転ばない。

 苑は喉に手を当てた。声は出ない。けれど、今日の合図を外に出せるなら、声より先に手で出せばいい。彼女は譜面台に紙を立て、記号をいつもより大きく書いた。テレビには映らなくても、ここにいる人たちには見える。見えることは力になる。

 放送の打ち合わせは短かった。宙が舞台の位置と立ち位置を示し、御影が電源の配分を決め、燈が原稿の順序を調整した。記者は短いコメントを求める。町の代表としての言葉。燈は首を振った。

 代表はやめましょう。みんなの言葉は、ここに散らばっている。拾ってもらうだけで十分です。

 じゃあ、と記者は少し考え、町の子どもたちへ言いたいことはありますか、と問いを変えた。宙がすっと手を挙げた。

 ぼくがひとつ、言っていいですか。台詞の一行だけ。

 どうぞ。

 宙は笑わずに言った。

 終わる世界にも宿題はある。

 短い。短いのに、体育館の空気が少しだけ変わった。床の傷の光り方がほんの少し柔らぐ。茉莉は便箋の端に、その一行を書き写した。書いて、角を折った。折った角は小さく、それでも目印にはなった。

 リハーサルなしの本番。観客席は昨日より少し少ない。疲れているからだ。それでも通路は開けてあり、子どもの泣き声と笑い声が扉の外に届く。記者のカメラが赤い光を灯す。全国、と男は言った。この小さな箱の向こうに、見えない広がりがある。その広がりの端に、誰かの食卓があるかもしれない。誰かの寝室。誰かの通学路。そこに、今からこの町の手触りが届く。

 燈が短く挨拶した。誇張のない言葉で、ここにいることだけを伝える。宙が一歩前に出て、台詞を言った。終わる世界にも宿題はある。言い切ったあと、笑わない。笑わないことで、言葉は軽くならない。

 苑が手を上げ、合図を出した。足踏みが始まる。机の打音が追いつく。息の層ができる。ページがめくられる。昨日と同じで、昨日とは違うリズム。柊は一枚だけ、シャッターを切った。記者のカメラには顔が映らないように角度を調整する。手の形、足の裏、机の角、ページの白。どれも顔ではないのに、どれもはっきりと今を持っている。

 オンエアの最中、記者の耳に凪の声が重なった。物資の窓口情報を、お願いします。彼は頷き、隣のカメラマンに目で合図し、スタジオにいる編集へキューを入れた。画面の下に細い帯が出る。文字が流れる。学校の裏門横、午後から受け入れ、連絡先。帯は小さいが、確かだ。小さい帯が、どこかの誰かの手の中で大きくなることを、今は信じるしかない。

 放送が終わると、体育館は少しだけ静かになった。静かで、重くない。終わったというより、ひとつの息がつながった感じがする。宙は舞台袖で黒幕を押さえ、御影はボックスの針を下げ、燈はメモの端に短く丸を付けた。うまくいった。うまくいったの定義は、誰かが明日の手を出しやすくなったかどうかだ。

 記者は最後に校門の前で一礼し、車に乗り込んだ。皿が空を向き、角度を変える。御影は無意識に針を探した。針はない。でも、耳が針の仕事をしてくれる。風が少し強くなった。風鈴が短く鳴った。

 夕方、凪は無線室でダイヤルを三つだけ回した。ノイズの粒が少し粗くなる。粗い粒の中に、別の国の言葉みたいな抑揚が混じった。抑揚はすぐに消え、次にこの土地の言葉が入る。

 こちら西の沿岸線。映像見た。窓口情報、受け取った。トラック、一台回せる。夜になるが、向かう。

 凪は返答した。ありがとう。道路の状態を伝え、入れる道を三つ示す。御影が地図に印を付け、海斗が段差のある場所に棒を立て、宙が入口に小さな灯を準備する。燈は門のところで、名簿の一番下の欄に空欄を作る。遠方支援、と書く。茉莉は木箱から便箋を一枚取り、宛先を二重線で囲んだ。明日の私たちへ。差出人、今日の私たちより。外からの支援が来る。たぶん、望んでいたものと違う形で。それでも、届く。希望は輸送方法を選ばない。

 夜が早く降りた。光条は数えない。数えないのに、一本、目の端で細く揺れた気がする。校門の前に小さな灯が置かれ、風鈴のない風鈴が暗がりの中で短く息をした。雨は降らない。タイヤの音だけが遠くからやってくる。

 トラックは思ったより小さかった。荷台に高く積まれた段ボール。運転席の男はやせていて、目の下に濃い影がある。助手の若者は帽子を後ろに回し、口の中で何かを数えている。彼らは降りるなり、紙を見てうなずいた。

 飲料水、乾電池、医療品。そう書かれていた。けれど、一番上に積まれていた箱のラベルは違っていた。学用品、文具、ノート、クレヨン。記者が流した帯を見て、どこかの学校が余ったものを送ってくれたのだと男は言った。

 燈は一瞬だけ困り顔をしたが、すぐに笑った。困る前に、場所を見つける。海斗が子どもたちを呼び、茉莉が箱を開け、宙が広げる場所を指示する。御影は重い箱を先に下ろし、軽い箱を後に回す。凪は無線で到着を知らせ、柊はシャッターを切らない。切らないで、箱の中身を見た。真新しいノート。消しゴム。鉛筆。クレヨン。画用紙。定規。白い紙のにおいがする。紙の匂いは、昼の体育館の匂いに少し似ている。冷たくて乾いて、指に粉を残す。

 苑がクレヨンの箱を開け、色をゆっくり見た。赤は赤で、青は青だ。当たり前だけれど、当たり前は今、うれしい。彼女は黒を一本取り、譜面台の紙に小さな音符を描いた。音符はクレヨンの線で少し太い。太い音は、遠くまで行ける。

 記者の女のカメラマンが、ここで初めてカメラを下ろした。彼女は自分のポケットから小さなメモを出し、鉛筆で何かを書いた。胸の前で自分にだけ読める声でつぶやく。届け。届け。言葉は放送のためではない。自分のためだ。彼女はメモをポケットに戻し、箱運びを手伝い始めた。靴はもう少し汚れて、少し馴染んだ。

 ノートは避難所の子どもの手に。クレヨンは宙の舞台の裏で、一部が自由帳コーナーになった。茉莉は便箋に本文を書いた。今日届いたものと、今日足りなかったもの。次に必要な場所。書きながら、紙の角が指の腹を丸くしていく。指は毎日紙を触る。触った分だけ、未来に触れやすくなる。

 医療品の箱は少なかった。それでも、包帯は新しい巻きで、消毒液はきれいなラベルで、冷却材はまだ冷たかった。御影はそれを見て、目だけで笑った。数は少なくても、順番はできる。順番ができれば、次の人に回る。

 飲料水は車の下のスペースに最後まで残っていた。重い。重いが、重いほど嬉しい。トラックの運転手は腰に手を当てて息を吐いた。海斗が肩を貸し、御影が持ち上げ方を教える。腰を落とし、腕だけで持たない。重さを足に渡す。足で受け取る。受け取ることは、渡すことの一部だ。

 搬入が一段落すると、運転手は空を見上げた。皿のような雲が薄く伸び、光条は遠くへ引かれている。男はぼそりと言った。

 テレビ、見ました。あれ、よかったです。

 宙が笑った。

 宿題のやつ?

 男はうなずいた。子どもが笑って、そのあと少し泣いて、また笑った。うちにも宿題がありました、と。男の声は低く、よく通った。荷台の角で風鈴がないのに、風が鳴るような気がした。

 凪は無線で遠方へ短い礼を送った。届くかどうかは知らない。知らなくても送る。送ることで、こちらの手が少し軽くなる。軽くなった手で、次の箱を持てる。

 記者の男は、門のところで電話をしていた。帯の情報は夜のニュースでも出す、と誰かに言っている。言いながら、目だけこちらを見て会釈した。燈も会釈を返す。互いの肩に乗っている責任は違う種類だ。違うのに、重さは似ている。似ていると分かると、少しやさしくなれる。

 夜は深くなった。体育館の奥に、灯りがふたつ。救護の隅にひとつ、宙の小道具の上にひとつ。御影のボックスは眠り、柊のカメラは机の上で静かに横になる。茉莉は便箋を箱に戻し、角をひとつ撫でた。苑は喉に手を当て、呼吸の深さを確認する。海斗は靴を脱いで足裏を揉み、凪はアンテナを一度だけ窓の外へ向けて、すぐ戻した。燈は台本の裏に小さく書いた。放送、支援、到着。終わる世界にも宿題はある。次へ渡す。

 柊は一度だけ校庭に出た。風がゆっくり。風鈴は鳴らない。かわりに、トラックの運転手が落としていった空のペットボトルがころんと転がって、砂を鳴らした。砂の音は乾いている。足の裏で踏むと、低く歌うような音になった。柊は耳を澄まし、シャッターを切りたい気持ちを、そこへそっと置いた。今夜は撮らなくていい。明日の朝、光が少し斜めになったとき、撮ればいい。

 その時、校舎の影の向こうで、遠くから短い無線が入った。凪が窓辺で応答する。届いたときの音は、ほんの少しだけ厚い。厚さは人の手のひらに乗せられるくらいで、だから落とさない。

 明日の午前に、もう一台行けるかもしれない。たぶん、また品目はずれる。すみません。

 凪は笑って言った。

 ずれても、届けば大丈夫。届いたものから使い方を決めます。

 返事の向こうで、誰かが笑った。笑いは短く、眠気に溶けた。溶けても消えない種類の笑い。宙の言葉が夜の中で薄く響く。終わる世界にも宿題はある。宿題は、誰かに丸付けしてもらうものじゃない。自分で丸をつける。丸は小さくていい。小さくて、はっきりしていればいい。

 柊は空を見た。光条はあるのか、ないのか。数えない。数えない代わりに、ここにいる人の数を頭の中で呼んだ。名前は数に変わらない。数に変わらないものを重ねる方法を、ここにいる人たちは少しずつ覚えてきた。写真も手紙も合唱も橋も、きっとぜんぶ同じ類いの橋だ。渡る最中は揺れる。揺れに名前がつけば、怖さは少しだけ小さくなる。

 体育館に戻ると、燈が眠る前の点呼をしていた。欠席が減り、丸が増える。今日増えた丸は、外から来た丸だ。外の丸が内の丸に重なると、丸の輪郭がはっきりする。はっきりした輪郭は、夜に溶けない。溶けない輪郭の上で、朝は始まる。

 柊は眠る前に、机の上のカメラにキャップをはめた。目を閉じる直前、耳の中で砂の音と紙の音と、遠い無線の音が重なった。重なって、薄い合唱になった。言葉はない。言葉がなくても、意味は増える。今日の放送も、届いたトラックも、予定とは違う形で、ここへ入ってきた。違う形でも、届く。希望は輸送方法を選ばない。選ばないで、勝手にどこかへ降り立つ。降り立った場所を見失わないように、明日の朝もまた、誰かが名前を呼ぶ。誰かが手を上げ、誰かが笑い、誰かが泣く。それで十分だ。十分の上に、少しずつだけ積む。積んだ重さが宿題の重さで、宿題の重さがここにいる、の重さだ。

 風鈴が最後に一度だけ鳴った。鳴ったあと、夜はすぐに静かになった。静かさは、今夜は味方だ。今夜の静かさの中で、柊は眠った。皿のようなアンテナのことを考えないで。画面の向こうの誰かの食卓のことを考えないで。ここで撮るために、目を閉じた。明日のために。明日の丸を、今夜のうちに少しだけ大きくしておくために。

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