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滅びの手前で、君の名をまだ呼ぶ  作者: しげみち みり


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第15話 兄の声

 その日の空は、朝から薄い紙みたいに頼りなかった。光条は数えるのをやめたくなるくらい増えたり減ったりし、風は湿って、土の匂いより鉄の匂いが勝っていた。凪は無線室の椅子に正座みたいに座り込んで、ダイヤルの同じ位置を何度もなぞっていた。紙の上の周波数の数字は鉛筆の粉で黒々して、端がほつれ、角が柔らかくなっている。

 午前の踊り場が終わって、体育館からひときわ大きな笑い声が消えたころ、砂みたいなノイズに別の粒が混じった。普通の人の声の粒は丸い。機械の音の粒は角ばっている。今の粒は丸かった。

 「……こちら……北……」

 凪は息を止めた。止めながら、目だけで柊と海斗を呼ぶ。ふたりは戸口に立っていて、すぐに近づいた。御影は配電盤の針から目を離し、こちらに向き直る。

 「ハザワ……聞こえるか。……北の……採石場で……動けない人がいる。来るな」

 来るな。その言い方は、誰かを守る時の硬さだった。凪の喉から小さく音が出る。兄の声だ。間違いない。幼いころ、同じ布団で風邪を引いた夜に聞いた低い咳のあと、痛みを我慢しながら冗談めかして言った「来るな」と同じ場所の声だ。

 凪は送信ボタンを押した。押す手が震えないように、机の角で手の甲を固定する。

 「聞こえる。葉沢凪。こちら学校。兄さん、葉沢遼。場所をもう一度」

 砂が強くなり、窓ガラスが薄く鳴った。外の風が、海の塩ではなく、乾いた石の粉の匂いを運んでくる。

 「北の……採石場。旧道の上。崩れて……来るな。来て……ほしくない」

 言い換えた。来てほしくない。来るな、よりやわらかい。でも意味は同じだ。凪は目を閉じ、一秒だけ踊り場を作った。指で腕時計の十三の場所を押す。押して、離す。

 「行く」

 凪は言った。声は高くも低くもなかった。海斗が頷く。柊は何も言わないで、欠けたレンズのキャップを外した。御影は机の上の道具を三つ取った。スパナと、布テープと、ジャッキのハンドルだけ。彼は少し考え、さらに細い鋼材を二本追加した。

 「車のジャッキは一本。足りない。代わりを作る。梁と斜材で簡易のねじり支柱。楔の代わりに鉄の短い棒を挟む。崩れた石の下に空間を作るだけなら、数字はいらない。必要なのは繰り返しと順番」

 凪は無線を肩から斜めにかけ、紙と鉛筆をポケットに押し込んだ。宙は舞台の箱を抱えたまま廊下で立ち止まり、目だけで「気をつけて」を言った。燈は名簿を胸に抱え、「戻ってから泣いて」と短く言った。凪はうなずいた。言葉の形が胸の中に印を残す。

 学校を出ると、空の端で光条が細く震えていた。北へ向かう旧道は、枝が低く、舗装があちこちで剥がれ、石の粉が白く積もっている。風鈴のない風鈴がどこかで鳴りかけて、鳴らなかった。海斗が先頭に立つ。彼の背中は広く、汗が肩甲骨の下で暗く滲んでいる。

 「走りたい?」

 柊が小さく訊いた。海斗は首を横に振った。

 「走るのは、戻る時にする」

 凪はその背中を見て、呼吸を数え直した。三で吸って、四で吐く。そのやり方は好きじゃない。好きじゃないけれど、今は役に立つ。

 採石場は町の北の丘陵地帯の端にあった。石灰の白い壁が斜めに削られ、段々畑の逆みたいに段が続いている。重機は止まって久しい。ベルトコンベヤは骨みたいに空に向かって止まり、サイロの縁に絡んだツタが乾いている。風が吹くと、粉が舞い、喉の奥がすぐにからからになった。

 「遼さん」

 凪は呼んだ。声は石に吸われる。吸われた音が返ってきて、場所を教えた。上の段と下の段の間、崩れかけたスロープの真ん中。大きな岩の下、男が身を伏せて、別の人の頭を腕でかばっている。凪が駆け寄ろうとすると、御影が腕を掴んで止めた。足元の石が、土ではなくガラス片みたいに滑る。海斗は別の角度からゆっくり近づく。柊は一瞬だけファインダーを覗き、すぐに目から外した。今は撮らない。今だけ撮ることを許すのは、あとでいい。

 「兄さん」

 凪が呼ぶと、男が顔を上げた。眉と鼻の境に石の粉が白く積もっている。目だけがはっきりしていて、笑っていないのにやさしかった。

 「凪か。来るなって言ったのに」

 「来ないでの反対を、今日は逆にした」

 男は笑った。笑って、すぐに顔をしかめた。腕が変な角度で曲がっている。肘から先が岩の下に挟まれて、血が粉に吸われている。彼の胸の下に、少年がうずくまっていた。頭を腕で隠しているが、肩の震えで生きていると分かる。

 「こいつ、名前は?」

 凪が問うと、少年は小さな声で言った。

 「タカト」

 凪は彼の手を握った。指は冷たいが、しっかり返ってくる。御影が近づいて、岩の隙間と支えになっている部分を目で測る。石は割れ、割れた面が粉を吹いている。力をかける順番を間違えると、全体が崩れて二人とも潰れる。

 「まず、上から」

 御影は短く言い、持ってきた鋼材を斜めに差し込んだ。テコの腕を作る。反対側を土の凹みに掛ける。海斗がそこに体重を預け、ゆっくり押す。岩が少しだけ浮く。御影は空いた隙間に布を折り重ねて押し込む。直接石と皮膚を触れさせないためだ。次に、ジャッキを支点の近くに入れ、ハンドルを回す。音はしない。代わりに、筋の擦れる音が腕の中で鳴る。柊が周囲の細かい石を素手で払う。指の腹に粉が刺さる。痛い。痛いのは、あとでいい。

 「凪、少年の頭を覆って。顔は上に」

 凪はタカトの後頭部を自分の膝に乗せ、掌で額を覆った。彼の呼吸が掌に当たる。速い。どんどん速くなる。凪は自分の呼吸のリズムを少し大げさにして、掌から彼に渡す。彼はわずかに合図に乗った。海斗がジャッキにさらに体重を乗せる。御影は鋼材の角度を変える。石が半音下がるみたいに沈み、凪の兄の腕が一瞬だけ自由になりかける。

 「今、引く」

 御影が言った。柊が兄の肩を抱える。海斗が腰に腕を回す。凪はタカトの肩をさらに自分の方へ引き寄せる。石がずるりと動いた。ジャッキの根元が滑る。御影の足が地面をとらえ直し、鋼材の位置を変える。海斗が一瞬で判断して、兄の体を下へ、タカトの頭を上へ持ち上げる。石は落ちず、息が戻る。手のひらの下でタカトが深く息を吐いた。兄の腕は、肘から先がだらりと下がったままだった。

 「ごめん」

 凪が言うと、兄は首を振った。顔は土と血でまだらだが、目だけがやっぱりやさしい。

 「謝るな。来たのは、いいほうの間違いだ」

 御影は腕の状態を見て、すぐに目を逸らした。顔に何も出さない。出さないで、布と包帯を取り出す。止血。圧迫。水平。順番は決まっている。決まっている順番を守れば、助かる確率は上がる。彼は声に出さないで「助かる」という言葉の形を舌の裏で作り、飲み込んだ。

 「ここで時間をかけない。下へ降ろして、校舎へ戻る」

 柊は頷き、兄の肩に自分の肩を貼り付けるように当てた。海斗はタカトを抱き上げる。子どもを持ち上げるときの癖で、腰ではなく太腿に力を入れて上げる。タカトは抱えられながら、凪の袖をつかんだ。

 「お兄さん、腕……」

 言いかけて、凪を見上げる。凪は小さく首を横に振った。

「帰ったら泣く。今は歩く」


 タカトはそれで安心したのか、顔を兄の胸のほうへ押し付けた。兄は片腕で彼の頭を撫でた。指先に力はない。それでも、撫でられた側の髪が少しだけ寝た。

 崩落の危険があるスロープを降りる間、風は一度も止まらなかった。体に纏わりつく粉が汗に貼りつく。靴底が滑る。石の角が足首に当たる。御影は先に降り、支点になりそうな岩の位置を確かめ、手の位置を指さしで示す。海斗はタカトの重さを自分の中心に寄せ、着地点を確実に選ぶ。柊は兄の体温の位置を感じ取り、肩が離れないように歩幅を揃える。凪は無線のスイッチを一度入れ、「学校、搬送」と短く告げてすぐ切った。応答は聞かない。今は聞かないほうが、手の中の作業が少なくて済む。

 ベルトコンベヤの下をくぐると、風が少し冷たくなった。陰になる。粉が少し減る。凪はそこで一度だけ兄の横顔を見た。頬の筋肉がきゅっと上がっている。痛みだけじゃない。安心の形もそこに混じっている。混ざって、区別がつかない顔になっている。

 「写真、撮る」

 柊が低く言った。誰に許可を求めるでもなく、誰かに断るでもなく、自分に向かって言った。彼は歩きながら一度だけシャッターを押した。欠けたレンズの縁に光が集まり、手の形がいくつも重なる。抱える手、支える手、押さえる手、撫でる手。縁だけが鋭く、周囲はぼやける。ぼやけたところには粉と風がいる。風は何もしていないのに、役に立っていた。

 旧道の角で、宙と燈が待っていた。知らせを受けて、可能なところまで来ていたのだ。宙は冗談を言わなかった。言わずに、タカトの手に小さな紙を握らせた。紙には音符がひとつ描いてある。読み始めの合図。燈は兄の顔を一度見て、頷き、足元を見た。足元を見ながら、「渡り切った」と短く言った。

 学校に戻るまで、誰も長い言葉を使わなかった。短い言葉は昼の空に合っている。長い言葉は夜に取っておく。夜は夜のためにある。

 体育館の隅はすぐに小さな救護室になった。布と水と、消毒液の匂い。御影は静かに動き、必要なものを必要な順番で並べた。医者はいない。看護師もいない。でも、順番があれば、手は動く。凪は兄の顔の汗を布で拭いた。拭いた布の端に薄い血が残る。兄は目を閉じて開け、凪の額の髪を指で押さえた。

 「髪、伸びたな」

 その言葉で、凪の喉の奥にあったものが少し動いた。動いたが、落ちなかった。落ちるのは、帰ってからでいい。帰ってから、泣く。今は、細かいことを数える。包帯の巻き数。呼吸の回数。窓の風の往復の回数。

 タカトは別の布団に移され、茉莉が手を握っていた。茉莉は「宛先 明日の私たちへ」と書かれた便箋の一枚を読み上げる代わりに、タカトに耳打ちで今日の出来事を短く話した。倒れた塔。渡った橋。踊り場のハミング。彼はうなずき、小さな声で「ありがとう」と言った。言葉は小さくても、厚かった。

 夕方、兄の腕のことを確かめる時が来た。薄い布の下で、肘から先がもう自分のものではない形になっている。御影は凪に目線を合わせ、短く告げた。

 「手術はできない。感染を防ぐため、切るしかない」

 凪はうなずいた。兄は目を閉じ、目を開けた。目の中に海がない。石の粉の白の中に、細い黒が走るだけだ。彼は息を一つ吐いた。

 「左で箸、持てるようになるよな」

 凪は笑った。笑って、すぐ真顔に戻った。

 「私が練習の相手になる。何度でも」

 その夜、簡単な処置と止血の延長線で、腕は失われた。人が少ない中で、できる限りの衛生と、できる限りの手順で、静かに終わった。音は最小限で、声はさらに少なかった。凪は見なかった。見ないで、兄の肩を押さえていた。押さえる力は強すぎず、弱すぎず。押さえながら、自分の掌の下で兄の呼吸の深さが変わるのをたしかめていた。

 処置が終わると、凪は兄の額に手を置いた。熱は低く、汗は冷たい。兄は目を開け、天井を見た。体育館の梁が暗い線で交差する。宙が何かを言いかけ、やめた。燈は腕時計の針から目を離さなかった。海斗は背伸びをして、背中の筋肉の張りをほぐした。柊は欠けたレンズのキャップを戻し、机の上に静かに置いた。御影は手を洗い、布テープを新しい巻きに取り替えた。茉莉は箱の前に座り、便箋を一枚増やした。苑は記号を少しだけ足した。読み始めの音符の位置を、一行目の右に寄せた。

 「泣かないのか」

 兄が凪に問うた。凪は首を横に振った。

 「帰ったら泣く。帰れたら、泣く」

 兄は笑った。笑いの形は大きくない。でも、目の中の黒がそれで少しだけ太くなった。太くなった黒は細い線を一瞬だけ追い越し、またすぐに細く戻った。

 夜になった。窓の外の空に、光条が並ぶ。十三あるかもしれないし、十二かもしれない。数えることをやめた夜は、だいたい長い。凪は無線室の椅子に座り直し、今日の記録を短く読み上げた。無線に誰がいるかは分からない。だからこそ、読む。短く、読みやすく。

 「宛先、明日の私たちへ。差出人、今日の私たちより。採石場から二人戻った。ひとりは腕を失った。ひとりは眠っている。戻る道で、風は冷たく、粉は軽かった。戻ってから、まだ泣いていない。帰ったら泣く」

 読み終えた瞬間、天井の高い窓の外で、光条の一本がふっと消えた。消えたというより、吸い込まれた。音はない。誰かの息のように、細く、静かに。

 凪は立ち上がって、体育館の中央へ出た。畳まれた毛布の山の間を抜け、扉のすぐ手前で立ち止まる。海斗が横に来た。柊が少し離れた位置に立った。御影は針の記録の前に立ち、燈は入口の柱に背を預けた。宙は両手をポケットに入れ、笑わなかった。茉莉は箱の蓋を撫で、苑は譜面台に手を置いた。

 外に出ると、風が額の汗をすぐに冷やした。空を見上げる。消えた一本の場所は、他の光より暗いわけではない。空全体が少しだけ深くなったように見える。遠くの沿岸の避難所の窓に灯がともる。御影の短絡の橋がまだ生きている。窓の灯りと、空から消えた一本の線の暗さが、同じくらいの濃さで目に入る。

 「同じ明るさだ」

 柊が言った。欠けたレンズを通さない目の声で、彼は静かに言った。

 「助かった灯と、消えた線。同じ明るさに見える」

 凪はうなずいた。うなずいて、口の中で数字の代わりに名前を数えた。葉沢遼。タカト。海斗。柊。御影。燈。宙。茉莉。苑。祖母。写真の中に写らなかった人たち。橋を渡った人たち。渡さなかった人たち。渡せなかった人たち。名前は数に変わらない。数に変わらないから、ここにいる。

 「帰る」

 凪は言った。兄の寝顔が体育館の布団にある。寝顔の横に、包帯を巻いた腕の残りがある。そこに触れたら、多分泣く。触れなくても、泣く。泣きながら、笑うかもしれない。笑いながら、泣くかもしれない。どっちでも、いい。どっちでも、明日へ渡る。

 海斗は首を回し、肩を鳴らした。

 「明日は走る?」

 「走る。走って、途中で止まる。止まって、また走る」

 宙がそれを聞いて、やっと口角を上げた。

 「じゃあ、泣くタイミングは、踊り場で」

 凪は笑った。笑いは涙の予告だ。予告をすれば、体は準備する。準備すれば、痛みは少しだけ小さくなる。小さくなった痛みの分、誰かの痛みを持てる。

 夜風が一度だけ強く吹き、風鈴のない風鈴が、やっと鳴った。短い音。短いのに、確かだ。凪は無線のアンテナにそっと触れ、感謝の形を指で作った。指の動きは誰にも見えない。見えないけれど、空のどこかで拾われる。拾われて、明日の朝の小さな灯になる。

 体育館に戻ると、兄は眠っていた。タカトも眠っていた。息は浅く、でも揃っていた。凪は兄の額に手を置き、髪を押さえ、触れて、離した。離した手を胸に当て、やっと、一度だけ泣いた。泣くというより、涙が勝手に落ちた。落ちた涙は、包帯ではなく、凪の手の甲に吸われた。

 「帰ったから、泣いた」

 誰にも聞こえない声で言い、涙を拭いた。拭いた指で、兄の髪をもう一度押さえ直した。指の腹に残った粉と塩が、わずかにざらついた。ざらつきは、今夜の印になる。印があれば、明日の朝は迷わない。

 窓の外で、消えたはずの一本の場所に、かすかに別の薄い筋が現れては消えた。見間違いかもしれない。見間違いでも、いい。明日の空は、今日とは違う。違う空の下で、同じ歌を歌う。声が出ないなら、手で。手がふさがっているなら、目で。目が閉じているなら、胸で。

 凪は椅子に座り、無線のダイヤルを一つだけ動かした。動かして、戻した。戻すことで、ここにいると確かめた。確かめたあと、目を閉じた。目を閉じたまま、兄の寝息を数えた。十三で踊り場。十四で扉。十五で戻る。一でいとまの合図。合図を胸の中で軽く叩き、眠りに落ちた。

 空の光条は、今夜は一つだけ少なく、灯りは一つだけ多かった。どちらも同じ明るさで、夜の中に残った。残った明るさの上で、町はやっと静かに息をした。息をしたこと自体が、記録になった。記録の隅に、凪は小さく書き足した。

 来るなの反対語を、来ないでではなく、行くにした日。

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