第13話 踊り場
朝の空気は、いつもより少し重かった。
遠くで避難用のサイレンが鳴っている。けれど誰ももう、振り向かない。町全体が疲弊していた。目の下に影を抱えた大人も、走ることをやめた子どもも、みんな同じように、肩の力を抜けずにいた。
燈は市庁舎の屋上からその光景を見下ろしていた。風が止まり、雲が低く垂れこめている。どこまでも鈍い色の世界の中で、彼女は胸の奥に決めた言葉をひとつ、押し込めていた。
——今日だけは、止まる。
避難計画の時間割の欄を赤鉛筆で引き直す。そこには大きく「踊り場」と書かれた。
「十三で踊り場」。
かつて、海斗の祖母が歌っていたあの数え歌の一節を思い出しながら。
燈は放送マイクの前に立ち、短く息を吸い込んだ。
「本日、全班に通達。午前の巡回を中止し、全員半日の休息を取ること。理由は単純です。私たちは、少し疲れすぎています」
ざわめきが広がった。誰も反対はしなかった。疲労は隠せなかったし、今は「止まること」に罪悪感を覚えないほどに、みんな限界だった。
体育館の中には、即席の休息所が作られた。毛布と枕を並べ、子どもたちがその間を走り回る。窓から入る光は淡く、埃が舞っている。
宙が木箱を抱えて現れた。
「即興でやるね」
彼は少し照れくさそうに笑い、子どもたちの前で人形劇を始めた。舞台は段ボール、登場人物は靴下で作った王子と姫。笑い声がぽつぽつとこぼれ、やがて拍手が広がる。
「嘘でも笑える口実を」——彼がそう言っていた理由を、みんなが少しだけ理解した。
苑は舞台の隅でハミングをしていた。声はまだ完全には戻らない。それでも息の音が、静かに響く。誰かが泣きそうになって、それを誤魔化すように手拍子を打つ。音が重なり、リズムになる。
茉莉は椅子に座って、手紙を一枚ずつ読み上げた。
「宛先は、明日の私たちへ。差出人は、今日の私たちより」
読み上げるたびに、子どもたちは少しだけ背筋を伸ばした。言葉が、呼吸を整える。手紙の中の自分たちは、まだ少し元気で、まだ少し笑えている。
海斗は外のグラウンドで子どもたちを集めていた。
「走ると、心が軽くなるんだ」
言いながら、土の上を裸足で駆け出す。子どもたちが真似をしてついてくる。息が上がって笑い声が上がる。あの塔の倒壊のあと、彼はずっと走ることを躊躇っていた。けれど今、子どもたちの笑顔の中で、自分の足がまだ動くことを確かめていた。
御影は体育館の隅で腕を組み、黙っていた。指先が微かに震えている。
「機械を触らないと、落ち着かないんだろ?」と宙が声をかける。
御影は笑って首を振った。
「だから今日は、何もしない練習をしてる」
「そんな練習ある?」
「あるさ。壊す前に、止まる練習」
その言葉に宙は「なるほど」と笑い、舞台の小道具を直す手を止めた。
柊はカメラを床に置いていた。欠けたレンズが、体育館の天井の光を静かに受け止めている。
「撮らない日も、あっていいんだな」
ぼそりとつぶやく。彼は初めて、目の前の景色をファインダー越しではなく、裸の目で見た。笑う人も、眠る人も、泣いている人も、みんな同じ画面に収まっていた。
凪は無線を切って、外に出た。風が頬を撫で、海の方から潮の匂いが届く。静寂の中、誰の声も届かない時間がこんなにも落ち着くとは思わなかった。空を仰ぐと、光条が十三本に増えていた。けれど、その一本一本は昨日よりも淡く見えた。まるで誰かのため息のように、光は揺れて消えそうだった。
体育館の中。宙の人形劇が終わると、拍手が静かに溶けていった。
茉莉が読み上げる声に、苑のハミングが重なる。海斗の外の笑い声が遠くから入り、御影の短い息が間に混じる。柊の視線がその全部を捉えて、凪の無線の代わりに空のノイズが繋がる。
燈は入口で、それを見ていた。
「……これが、踊り場」
誰かに話しかけるように呟いた。
「立ち止まることで、前に行ける。そんなの、ずるいって思ってた。でも、ずるくていいのかもしれない」
彼女は体育館の中央に歩み寄り、床に座り込んだ。
「今だけ、時間を止めます」
その言葉に、みんなが顔を上げた。誰も時計を見ない。見なくても分かる。止まることの意味を。
子どもの笑い声と、大人のため息と、誰かのすすり泣きが同じ音量で響く。
それはまるで、ひとつの音楽のようだった。
苑が両手を重ねて拍を取る。柊がその手の動きを目で追う。御影が目を閉じて呼吸を整え、凪が再び空を見上げる。宙は舞台の王子を手に取り、最後の台詞を口の中で呟いた。
「終わりの先で、また会おう」
茉莉は小さく笑い、手紙の束を抱えたまま目を閉じた。
燈が放送マイクに手を伸ばし、スイッチを入れる。
「全員へ。今日の踊り場、記録します。止まることで続ける。それを、覚えていてください」
その瞬間、風鈴の音がひとつ、外から鳴った。
誰も風を感じなかったのに、確かに鳴った。
柊が無意識にカメラを持ち上げた。シャッターを押す。欠けたレンズの向こうで、光が滲む。
体育館の中、毛布に包まれて眠る人たちの姿、笑う子ども、静かに泣く大人。その全部が一枚の画の中で重なっていく。
その写真を、後に柊は「踊り場」と題した。
彼らが戦わずに、ただ生きようとした一日。その一枚が、終わりの世界の中で最もやさしい光になった。
夕暮れが差し込み、風鈴が再び鳴る。燈は立ち上がり、静かに言った。
「次の段に行こう」
踊り場で息を整えた者たちは、再び立ち上がった。
まだ終わらせないために。
止まることで、進むために。
その夜、光条は十三本のまま、音もなく揺れていた。
町の空の下、風鈴の音だけが、ゆっくりと時間を刻んでいた。




