第12話 手紙の宛先
図書室の奥は、午後になると少し涼しい。窓が西を向いているせいで、朝の熱が溜まりにくい。茉莉は背の低い書架の後ろに身を入れ、埃っぽい床に膝をついた。木の節目がやわらかく膨らみ、そこに紙の角が当たっている。誰かが長い間、ここを隠れ場所にしていたのだとすぐに分かった。
棚の裏のスペースに、取っ手のついた古い箱があった。革の持ち手はひび割れている。金具は錆びて、でも閉まってはいなかった。茉莉は息を止め、そっと開けた。紙の匂いが上がった。海とも土とも違う、乾いた匂い。箱の中には、避難記録の束と、細い紐でまとめられた便箋の束がいくつも並んでいた。帯に鉛筆で書かれている。「一九八六」「洪水」「三学年」。年代も出来事もバラバラだ。最後の束の帯は、何も書かれていない。
茉莉は紐を解いた。便箋の一枚目に、さらさらした文字が並んでいる。見知らぬ高校生の字だ。丁寧なのに、急いでいる。インクの濃淡が、息の深さに似ていた。
あなたが読むとき、まだここがあるなら
それだけで、胸が動いた。茉莉は続きを読んだ。ある年の夏、町の川があふれた。学校に泊まり込んだ生徒たちが夜に交代で見回りをした。ひとりの生徒が、その夜に見たことを一枚の便箋にまとめ、箱に入れた。翌日、別の生徒が同じように書いた。数日は続き、やがて終わる。最後の手紙は、こう結ばれていた。
ここにいたということを書きます。ここにいたということを読む人がいると信じます。あなたが読むとき、まだここがあるなら、私たちは少し笑うと思います。
茉莉は箱に入っていた避難記録と、手紙の束を机に広げた。紙が光を返す。窓の外で風が鳴り、どこかの欠けた風鈴が音を探している。
「見つけた」
茉莉が呼ぶと、宙が先に顔を出した。肩に小道具の袋。汗で額が光っている。
「宝箱?」
「宝箱。過去の」
宙は身をかがめ、便箋の一行目を指でなぞった。あなたが読むとき、まだここがあるなら。口に出して読むと、言葉がまっすぐ喉から出て、胸に落ちた。
「これ、舞台にしたい」
「する前に、まずは書こう。今の分」
茉莉は便箋の束を二つに分け、半分を宙に、半分を自分の前に置いた。万年筆のインクはもうない。ボールペンの芯は残りが少ない。鉛筆は短い。選べる道具が少ないほど、手は早く決める。
宙が時計を見て言う。
「踊り場の時間に合わせる?」
「合わせる。十三時から十三時十分まで。最初の十枚は、今日の十三時に何をしていたか。次の十枚は、昨日までにあったことの要約。最後の十枚は、明日のための目印。読みやすい順番に並べる」
宙は笑った。笑って、すぐ真顔に戻った。
「読みやすいように、少しだけ嘘を混ぜていい?」
「混ぜて。優しい嘘。読みやすくするための嘘なら、いい」
紙の余白を広く使う。行間を詰めすぎない。読み上げても息が切れない長さに区切る。茉莉の頭の中に、教室の板書のリズムが戻ってくる。授業の準備みたいだ。違うのは、宛先だ。誰にも出さない手紙。それでも宛先は必要になる。
「宛先を、最初に決めよう」
「町の外?」
「違う。明日の私たち」
茉莉は迷わず言った。宙が目を丸くする。
「二週間後でも、いい」
「二週間後の私たちに」
「今の私たちが、届かない明日を代わりに跨ぐ」
宙は頷き、便箋の一枚目の左上にそっと書いた。宛先 明日の私たちへ。
教室のドアが開いて、苑が顔を出した。手に譜面。その紙には、昨日から彼女の指の跡が薄くついている。声はまだ出ない。出ない代わりに、彼女はいつものように両手を上げ、指で四角を作って見せた。階段の形。踊り場で止まる手の合図。
茉莉が手招きすると、苑は机に近づいた。便箋を一枚渡すと、苑は目を細め、紙の行間に小さな記号を書き込んでいく。二分休符。四分休符。加線で伸ばした音符。読むテンポ。次の行に行く前に、ここで指を一度止めてね、という印。手紙にテンポがあるというのは、考えてみれば当たり前だ。読まれる言葉は、どこかで息を吸い、どこかで吐く。苑が付ける記号は、息の場所を教える。
「写真もいるな」
柊が遅れて現れた。首から下げたカメラには、欠けたレンズ。彼はキャップを外さず、まず机の上の便箋を眺めた。読みたい顔をしている。読む前に、撮るものを決める顔だ。
「余白に挟む。手の写真。作業の前と後。失敗の形。誰かの背中。うまくいった一瞬。全部じゃなくていい。肝心なところだけ、真ん中に置く」
「私は無線」
凪が息を切らして入ってきた。掲示板の前で人に囲まれ、次の時間の知らせを回していたのだろう。手にはメモ。周波数と時刻。新しく拾えた断片はない。それでも、と凪は言う。
「ここにいるよ、って言葉を入れたい。無線で言えない時にも。紙に書いとけば、遅れて届くから」
御影は少し遅れてやって来て、机の端に腰をかけた。頬の火傷は薄くなった。彼は手紙の枠組みを一度見てから、迷いなく一枚を手に取った。
「数字を書き込む欄を作ろう。今日の電力、酸素、配給、無線の回数。踊り場の時間に測った数を、角に小さく」
宙が鉛筆を走らせる。
「主人公は要らないね」
「要らない」
茉莉は頷いた。
「ここにいる人の手が、それぞれの行を持てばいい。手紙はひとり称じゃなくて、みんな称で書く」
書き始めた。最初の十枚、十三時の踊り場。体育館の端の人の列。水を飲む音。顔を見た時の目の揺れ。短い言葉。「いける」「大丈夫」「戻ったら」「無線」。苑の記号が間に挟まれて、読み手の息が整う。宙の嘘は、会話の隙間に少しだけ混ざる。笑えるほどの嘘。嘘だと分かる嘘。読みやすくするための嘘。
次の十枚、昨日までのこと。堤防の塩、十三の数え歌、踊り場、扉、倒れた塔。倒れる前に少しだけ灯った遠い光。海斗の「怖かった」。御影の「怖いは正しい」。凪の紙に追加された「一晩、点灯」。柊の欠けたレンズが拾った光の縁。苑のハミング。宙の人形の王子。王子は階段の上で扉を二回叩く。開いても開かなくても、次の段へ行く。
最後の十枚、明日のための目印。朝の無線。アンテナの角度。配電の順番。配給の増便。計画Nの巡回ルート。丘陵側の角を右に、塩の白い筋のところで一度止まる。止まって、風の匂いを嗅ぐ。匂いが海なら、引く。匂いが木なら、行ける。行く前に目を合わせる。目が合わなかったら、待つ。待って、もう一度目を合わせる。それでも合わなかったら、踊り場へ戻る。
書いている間、茉莉の手は止まらなかった。止めないで書くと、言葉は薄くなる。薄い言葉は読みやすい。読みやすい言葉は、遠くへ届く。便箋は三十枚を超え、机の上に重ねられた束は手のひらの厚さを超えた。苑の記号は増え、柊の写真は四枚。手の写真が一枚。倒れた塔の足元が一枚。踊り場の列の足元が一枚。最後の一枚は、図書室のこの机だ。便箋の角と、万年筆の空の軸と、箱の縁。
「宛名は表に出す? 出さない?」
宙が聞く。
「出す。宛名が最初に見えたほうが、手紙だと分かる」
茉莉は表紙に、はっきり書いた。宛先 明日の私たちへ。差出人 今日の私たちより。
仕上げに、苑が表紙の右上に小さな音符を描いた。読み始めの合図。合図の形は音になって、音は手に戻る。凪が掲示板から持ってきたピンを一つ拝借して、宙が束を軽く留めた。糸で縛ると、あとでほどきにくい。ピンなら、あとで増やせる。
夕方、体育館の隅に小さな読み会を開いた。風は弱く、雨は降らない。子どもたちが床に座り、年配の人が壁に背を預ける。燈が丸で囲んだ十三の印を指で押さえ、茉莉に目で合図した。
茉莉は一枚目を開いた。苑が横に立ち、譜面のように記号を差し示す。宙は声に出して読む役。声は柔らかく通り、ところどころで笑いが生まれる。笑ったあとで、手の甲で目を拭く人がいる。拭いた手の動きは、読みのテンポと同じだ。柊はその手を撮った。欠けたレンズの縁に、拭われた水の光が集まる。
途中で、凪が前に出て、小さな嘘の行を読み直した。「昨日の夜、三本足の送電塔が海まで散歩に出ました」。笑いが起きる。御影が口の中で笑い、海斗が膝をさすりながら肩を揺らす。嘘は、重さを均す。均した場所に、本当が置かれる。
読み会の最後に、表紙をもう一度見せた。宛先 明日の私たちへ。読んだみんなの顔が、その文字を追う。読んで、うなずく。人のうなずきは、紙に書けない。書けないものは、目の中に残る。残ったものは、明日の手が拾う。
読み終えると、拍手が起きた。短い拍手。短いけれど、濃い。それで充分だ。燈が立ち上がり、束のコピーを作ると告げた。学校の印刷機は、まだ生きている。A4に二ページずつ割り付ければ、配りやすい。「置き配」に混ぜる。計画Nのルートに沿って、ポストに入れていく。置かれた手紙は、誰かの夜の間に読むものになる。
「二週間後の自分にも渡そう」
茉莉が言った。宙が首を傾げる。茉莉は箱を指さした。古い手紙たちの横に、新しい束を一つ入れる。もう一つは、体育館の掲示板の横に据え付けた木箱に入れる。鍵はかけない。誰でも読める。誰でも入れられる。読み会の後で、箱の前に子どもが集まる。紙に何かを書いて、入れていく。「今日、牛乳をもらえた」「おばあちゃんが笑った」「怖かったけど寝られた」。字は細く、短く、まっすぐだ。苑が高い音符を一つ書き添え、柊が箱のふたを撮った。
夜。茉莉は箱の前に座り、最後の一枚を書いた。宛先の下に、小さく一行を足す。
あなたが読むとき、まだここがあるなら
手を止める。息を整える。書き足す。
ここで待っています。私たちはここにいます。もしここがもうなかったなら、たぶん近くのどこかで読み上げています。読み上げると人が集まって、息がそろって、ひとりじゃない感じになります。
書き終えると、ゆっくり箱に入れた。箱は軽く軋んだ。軋む音は痛くない。木が息をしている時の音だ。蓋を閉めると、遠くで低い音がした。光条が一度だけ震え、夜の端が白くなって、すぐに黒へ戻る。体育館の高い窓に、その白さの名残が薄く残った。
その夜、凪は無線室で便箋の一枚を読み上げた。周波数は合わせてある。誰かが聞いているかは分からない。だからこそ、読んだ。声の代わりに息で区切った言葉が、砂の音に混じっていく。砂の向こうで、誰かの耳に紙の手触りが届くなら、それでいい。
海斗は祖母の横で、表紙を指でなぞった。宛先 明日の私たちへ。祖母は頷き、数え歌の最初の一行だけを口の形で作った。一でいとまの合図。海斗は笑って、二で荷をおろす、と続けた。踊り場と扉のあいだに、読まれる手紙が置かれている。置かれた紙は、階段の角の手すりみたいに、少し冷たくて、安心する。
御影は配電盤の前で、今日の数字を小さく書き込んだ。電力の目盛り、酸素の稼働時間、巡回車の本数、無線の回数。数字の横に、丸を一つ描いた。丸の中にN。計画Nの今日の分が回った印だ。丸の縁がはっきりしている。縁がはっきり見えれば、真ん中は多少ぼやけても歩ける。柊のレンズと同じだ。
宙は台本の端に、手紙の言い回しを数行写した。王子が階段の踊り場で読む台詞にする。観客席が息を合わせるための一行。「あなたが読むとき、まだここがあるなら」。嘘を少し混ぜる。王子が少し照れくさそうに笑って、言い方を柔らかくする。嘘をまぶすと、本当が飲み込みやすい。
苑は譜面台に手紙を立て、記号の位置を一つずつ確認した。読み会がうまくいったのは、記号が多すぎなかったからだ。多すぎると、息が困る。足りないと、迷う。ちょうどよさを探すのが、彼女の仕事になっていた。声が戻らなくても、手でできる仕事は増えていく。
茉莉は図書室の電気を落とし、箱の前で小さく会釈した。箱は古い。古い箱の上に新しい紙。紙の上に手の跡。明日の私たちが、紙の手触りで今日を知る。今日の私たちが、箱の重さで昨日を知る。重さは変わらない。重さが変わらないから、ここにいたことが分かる。
明け方。校舎の窓が灰色に浮かび、光条は遠くで震えるだけだった。踊り場の時間の前に、燈が木箱の前で足を止めた。蓋を開け、いちばん上の便箋を手に取り、表紙の宛先を読んで、うなずいて、元に戻した。戻す動きが静かで、箱の中に入っていた古い手紙たちも、音を立てずに受け止めた。
二週間後に、この手紙をもう一度開く。約束ではなく、自分たちのための合図として。二週間で何が変わるか分からない。変わらなくても、変わっても、紙は紙だ。紙は燃える。燃えるなら、その前にいくつか配っておく。配られた紙は誰かの机の引き出しや、枕の下や、避難袋の隙間に隠れる。隠れていても、手は覚えている。そこに紙があることを。
その日、計画Nの巡回で、燈は配給箱の底に薄い封筒を一つずつ入れていった。封をしない。宛先は表に出ている。宛先 明日の私たちへ。差出人 今日の私たちより。開けた人の目が表紙を追い、苑の記号を目でなぞり、宙の嘘で少し笑って、柊の写真で息を止め、御影の数字で目線を水平に戻す。凪の書いた「ここにいるよ」が、最後の行で軽く光る。
配り終えて学校へ戻ると、体育館の隅で男の子が封筒を握っていた。表紙を読み終えると、彼は小さく扉を叩く真似をした。コン、コン。十四の合図。返事はない。ないけれど、顔が少し明るくなる。開かなくても叩く。叩いて、待つ。待ちながら読む。読みながら、息を合わせる。
柊はその横顔を撮った。欠けたレンズの縁に、表紙の「宛先」の文字が細く集まる。集まって、また広がる。広がる先に、明日の朝がある。
夜。図書室で茉莉は箱の蓋を撫でた。指に紙の粉がつく。粉は光を持っている。指を振ると、粉は空気に混じって、窓の上のほうへ上がっていく。上がった粉を、風がそっと運ぶ。運ばれた粉は、どこかの廊下の角で落ちて、床の上に薄い輪を作る。輪はすぐ消える。でも、消える前に、誰かの足がその上を踏む。踏んだ足が、次の段へ向かう。
あなたが読むとき、まだここがあるなら。
茉莉は心の中で、ゆっくり繰り返した。箱の中の古い手紙の一枚目と、今の手紙の一枚目が、同じ言葉で始まっている。そのことが、何より心強かった。時代が違っても、言い方は変わらない。変わらない言い方は、体のどこかに届く。
ここにいることの証明は、立て看板ではない。印鑑でも、役所の書類でもない。たぶん、たった一枚の便箋で足りる。「ここにいます」と書いて、誰かの机の上に置く。それだけで、二週間後の自分がそれを拾える。拾って、息を合わせられる。合わせた息で、扉を二度叩ける。
読み会の余韻が薄れる頃、遠くの海が一度だけ淡く光った。誰も騒がない。誰かが「明日、また読もう」と言う。誰かが「二週間後も」と返す。返した声は短くても、厚い。厚い声は、夜に沈まず残る。
手紙は増えていく。箱の中では、古い手紙と新しい手紙が混ざり、順番が混ざっても困らないように、宙が小さな矢印を付ける。茉莉は日付を書き、苑は記号を添える。柊は写真を小さく印刷して角に貼る。御影は数字を角に押す。凪は「ここにいるよ」を最後に書く。毎回、宛先は同じだ。明日の私たちへ。差出人 今日の私たちより。
そして、どの手紙にも、一行だけ同じ言葉がある。
あなたが読むとき、まだここがあるなら。
あるなら、笑ってね。なかったら、どこかで読み上げてね。読み上げると、たいてい誰かが来るから。来た人と、少しだけ息を合わせてね。合わせた息の間に、踊り場を置いてね。踊り場で水を飲んで、顔を見て、短く言ってね。大丈夫、と。いける、と。戻ったら、と。無線、と。
そう書かれた便箋は、夜の間に薄く温まって、朝には冷たくなる。冷たくなった紙の手触りが、今日のはじまりを教える。扉の前で、コン、と軽い音がした気がして、みんながそれぞれの場所で、同じ高さに目を上げる。目の先に、見えるものだけを真ん中に置く。見えないものは、いったん端に流す。端で滲んだものは、いつかまた輪郭を取り戻す。手紙は、そのための地図になる。
箱の蓋は、今夜も静かに閉じられた。閉じる音は小さくて、誰も気に留めない。気に留めないくらいの音で、ちょうどいい。ここにいることの証明は、大きな音ではなく、小さな手触りで残る。残った手触りが、二週間後の私たちの指にもう一度乗る。その時も、宛先は同じだ。明日の私たちへ。差出人 今日の私たちより。
そして、読み始めの合図は、いつもと同じ。苑の描いた小さな音符を目でなぞり、呼吸を合わせ、最初の一行を声に出す。あなたが読むとき、まだここがあるなら。声が出ない人は、口の形で。口の形が揃えば、それだけで十分だった。明日の扉を、二度叩ける。今日はまだ開かなくても。開かない夜のぶん、手紙は増える。増えた分だけ、ここにいたと書ける。書けた分だけ、明日へ渡せる。そうして、町の中に見えない郵便が走り続ける。
風が通り、欠けた風鈴が一度だけ鳴りかけて、鳴らなかった。鳴らない音のかわりに、紙がさわ、と小さく揺れた。揺れた紙の一番上で、宛先の文字がかすかに光った。明日の私たちへ。明日は遠い。けれど、手を伸ばせば、紙の厚みくらいは届く。届いた厚みが、階段の角で指を受け止める。指を受け止める場所が増えるほど、泣けるのに、泣くだけじゃ終われない夜は、少しだけやさしくなる。




