第11話 送電塔
鉄塔は、根元から静かに傾いていた。真横ではない。じわじわと、誰かの肩が疲れた時の角度で。斜面の土はぬかるみ、ボルトの周りに白い塩の輪ができている。空へ伸びるケーブルは途中で千切れ、風にあおられてかすかな唸りだけが残っていた。
御影は足元のコンクリに膝をつき、基礎のひびを指でなぞった。ひびは新しい。昨夜の揺れの線だ。彼は顔を上げ、傾いた頂を一度だけ見上げてから、短く言った。
「この塔は、持たない」
言葉は冷たく、でも突き放さない。海斗が頷いた。凪は携帯無線のボリュームを絞り、耳から外す。柊は欠けたレンズを拭わず、そのままファインダーに目を入れた。宙は人形劇の小道具袋を肩に掛け、何も取り出さずに立っている。
御影は図を描いた。砂の地面に、指で。千切れた幹線。近くの分岐。沿岸部の避難所にある酸素濃縮機の位置。電源のルート。声にしたのは、必要な順だけ。
「断線部分を短絡でまたぐ。ここからここへ仮の橋を作る。負荷は限定。遠くの沿岸に小さく流す。照明を一晩、酸素を数時間。持たせるだけ。安全ではない。危険はある」
凪が顔を上げた。風で髪が頬に張りつく。彼女は首を縦に振るだけで、質問を飲み込んだ。質問は後でいい。今は決める番だ。
「やる」
海斗が言った。迷いはなかった。祖母の寝息と、体育館で見た酸素マスクの跡が、背中を押した。
御影は荷を開き、ハーネスを取り出した。古いが丈夫な安全帯。ロープは二本。カラビナは四つ。簡易の短絡用ケーブル。被覆を剥いた先に圧着端子。絶縁手袋は一双だけ。御影は迷わず海斗へ渡し、替わりに自分は布テープを腕に巻いた。
「俺が上る」
海斗は言い、ハーネスを腰に回した。バックルを締める。腿のベルトを通す。掌で腰骨を叩き、位置を確かめる。その動作は陸上のスパイクを履く時に似ていた。走る前と違うのは、足元ではなく、上を目で測ることだ。
「合図は短く。上と下で混乱しないように。俺が『止まる』って言ったら止まる。『戻る』って言ったら戻る。『無理』って言ったら無理」
凪がうなずき、無線のチャンネルを固定した。周波数の紙は汗で少しふやけている。宙は海斗の肩を軽く叩いた。軽く叩いて、手を離す。
「怖い」を誰も言わなかった。言えば、今ここに落ちる。代わりに、宙が言った。
「戻ってきてから言おう」
燈の声が頭のどこかで重なる。十三で踊り場。今日の踊り場は今ではない。今は段差の角だ。御影が腕時計に指を置き、短く合わせる。
準備は速かった。御影はロープを鉄骨へ回し、支点を二重に作る。錆びたフランジに布を噛ませ、摩耗を減らす。カラビナを掛け、ロープの余りを小さくまとめる。海斗は手袋をはめ、深呼吸を二回だけした。三回目はしなかった。三回目は、足を鈍らせる。
「行く」
海斗が鉄骨に足をかけた。傾いた塔は、真っ直ぐよりも怖い。足の裏が斜めに世界を感じる。登る方向と落ちる方向が同じほうへ向かう。ロープが腰から伸び、御影の手の中へ収まる。凪は無線を耳に押し当て、宙は地面の上で目を細めた。柊はレンズを上へ向け、中央に海斗の体を置いた。画面の端は滲む。滲んだ空に、光条の薄い筋が横切っている。
数メートル。鉄骨の一段ごとに、海斗はカラビナをかけ替えた。手の汗が手袋の中で冷える。腕の筋肉が張る。下から御影の声。
「いい。落ち着いて。右へ一歩。そこで止まる」
止まる。足を置き、膝を軽く曲げ、腰を壁へ寄せる。ロープの張りが少し緩む。緩んだぶん、御影の手がすぐ補う。補いすぎない。それが彼の技術だ。凪は無線で短く繰り返す。
「右、一歩。止まる」
宙は口の中で数を見えないように数え、柊はシャッターを半押しのまま呼吸を整えた。欠けたレンズの縁に、鉄の光が細く集まる。そこだけが鋭い。
断線は目視でも分かった。ぶ厚いケーブルの銅が露出し、黒い被覆が裂けて垂れている。鳥の巣にも似た乱れ。風で触れ、火花が散った痕が焦げ茶で残っている。御影は下から指示を上げた。
「その束は触らない。二つ下。腕の長さで届くところ。短絡のケーブルを先に固定。絶対に二本同時に触れない。触れる前に合図」
海斗は頷き、肩から下げた短絡ケーブルの片端を取り出した。圧着端子の穴が、露出した銅に対して小さく見える。御影は目を細め、声を落ち着いたまま少し強くした。
「入る。入ってから締める。いける」
「いける」
青い空気が薄く波打つ。遠くの海はまだ白くない。風が止み、音が小さくなる。海斗は片手で鉄骨を掴み、もう片手で端子を押し込んだ。入る。入った。レンチで締める。一拍。二拍。三拍。締まる。指が震えないように奥歯を噛み、体重のかけ方を少し変える。
「よし。反対側、いく」
御影の声。凪が繰り返す。宙が「よし」とだけ言う。柊はシャッターを切らない。切らずに見る。見て、覚える。
反対側は高い位置にあった。海斗は足を上げ、腰をひねり、肩を出す。ロープが鳴る。御影の手がわずかに走る。止めない。止めるのは海斗の判断だ。彼は止めない。端子が銅の束の上で滑り、すぐに引き直す。深呼吸はしない。浅い呼吸を細かくつなぐ。指先の感覚はまだ残っている。入る。締める。最後のひと回しで、風が戻った。
「接続、仮完了」
御影が言い、凪が市庁舎の臨時配電班へ短く伝える。宙は目を細め、地平の向こう側を探す子どもの顔で遠くを見た。柊はレンズを少しだけ引く。真ん中の海斗、下の御影、横で無線を支える凪、後ろで宙。画面の端はぼやけて、中央の四人だけが立っている。塔の足元で塩が白く光る。
御影はボックスのスイッチ前に手を置いた。手首のテープが湿っている。彼は目で凪に合図し、凪はうなずいて、送信ボタンを押した。
「いく」
御影がスイッチを入れた。音はしなかった。風が一度だけ低く鳴り、遠くの空気が震えた気がした。その震えはすぐに町へ走った。丘の向こう、沿岸の建物の一角に、小さな灯がひとつ点いた。すぐに消えず、点き続けた。もうひとつ。間をおいて、またひとつ。点の列は短い。短いが、確かな線になって伸びる。
柊はそこで初めてシャッターを押した。欠けたレンズの縁に灯の輪郭が集まり、光の縁だけが鮮明に浮いた。ぼやけた周囲の中で、見えなきゃいけないものだけがはっきり出る。写真の中の世界は、今の町の縮図みたいだった。
御影は針の揺れを見続けながら、声を上げた。
「負荷、安定。過電流なし。電圧、いける。酸素、入る」
凪が無線の別回線で、沿岸の避難所へ飛ばす。返事は短い。「点いた」「音が戻った」「ありがとう」。ありがとうは一回しか言わない。言わなくても、伝わるから。
その時、塔が音を立てた。軋みではない。低い骨の音。根元へ亀裂が走り、塩を固めた輪が砕ける。御影が顔を上げる。目の中に、数字ではない危険が跳ねた。
「海斗、降りろ。今すぐ」
凪が繰り返す。宙がロープの余りを抱える。柊が息を止める。海斗は迷わない。工具を捨てない。捨ててよかったのに、捨てない。腰のカラビナを一度、二度、三度とかけ替え、足を外し、鉄骨を滑るように降りる。塔は低い息を吐き、角度をひとつ増やした。
「飛べ」
御影の声は短かった。命令ではない。合図だ。合図は、体のどこかを直接動かす。海斗は最後の鉄骨から足を離し、斜面へ身を投げた。ロープが鳴り、御影の手が走る。張ったロープが一度だけ悲鳴を上げ、次の瞬間、カラビナが支点を抜け、空を切った。
地面が揺れた。塔が倒れた。ゆっくりに見えて、速かった。鉄の影が土へ刺さり、粉塵が白く上がる。音は短く、重い。凪は膝を折り、腕で顔を守る。宙は目を閉じて開け、砂の味の口内で笑いかけてから笑わなかった。柊は反射的にシャッターを押したが、その一枚は何も映っていない。粉塵だけだ。粉塵は、後で何にでも変わる。
海斗は斜面を転がり、泥に背中を打ち、膝を滑らせ、最後に肩で止まった。肺から空気が抜け、すぐに戻る。痛みは後から来る。御影が駆け寄り、凪が膝で土を蹴り上げて近づき、宙がロープを引きずったまま座り込んだ。
「生きてる」
御影の声は確認の形だけで、安堵の形ではない。海斗はうつ伏せからひっくり返り、泥まみれの顔で笑った。
「怖かった」
笑いながら言えた。言葉の重さが、泥と一緒に体から落ちる。凪が泣き笑いの顔で「遅い」と口を動かし、宙が「だから戻ってから言えって」と胸を小さく叩いた。御影は腕の力を抜き、額の汗と土を袖で拭った。
塔は横倒しになっていた。仮接続は塔の根元を外れたが、短絡の橋は地面側で辛うじて生きている。御影は針を見に走り、凪は無線へ戻った。
「沿岸、まだ灯ってる?」
返事はすぐ来た。「点いてる」「酸素、回ってる」。御影が目を閉じ、肩を落とし、すぐに目を開けた。目を閉じたのは一秒に満たなかったが、その一秒は大きかった。踊り場。ここで止まる。止まって、呼吸を水平に戻す。
柊は海斗の横にしゃがみ、欠けたレンズを空に向けた。倒れた鉄の縁、土の粉、遠くに小さく続く灯り。光の縁だけが鮮明だ。世界は壊れて、でも肝心なところは見える。写真はそれだけでいい。全部を写す必要はない。写すと決めた場所が、残ればいい。
「ありがとう」
海斗が言った。誰に向けてかは決めない。言葉は宙に浮かんで、塔の鉄に当たり、粉塵に混じって消えた。消えても、効く。
凪が戻って来て、海斗の手を握った。握るだけ。無線の話は今はしない。宙は真帆から借りた包帯を出し、海斗の膝に貼った。包帯は白すぎて、すぐに土の色をもらう。御影は地面に膝をつき、仮橋の確認をしてから短く頷いた。
「一晩は持つ。明日の朝、別ルートを考える。塔はもう使えない」
塔は横たわったまま、空の低さを教えている。木と鉄と土。海の匂いは弱まり、湿った草の匂いが近い。遠くの灯は小さい。小さいけれど、確かだ。宙が立ち上がり、両手を腰に当てた。
「もしものセリフ、出番なし」
「どんなやつだったの」
凪が笑って問うと、宙は肩をすくめた。
「落ちたら言うつもりだった。上手に落ちた。だから、要らない」
海斗は笑った。笑いで腹が痛む。痛みは生きている印だ。生きている印を、今日は人に見せてもいい。見せることで、誰かの呼吸が楽になるかもしれない。
丘を下りると、沿岸の空がわずかに明るくなり始めていた。灯の線が薄く残っている。避難所の窓の向こうに、誰かの影が動く。酸素の機械の音が一定になる。声は出さないが、口の形が「助かった」と動く。見える。見えすぎない距離で見える。
学校に戻ると、体育館の片隅に新しい写真を配る台が用意されていた。柊は塔の足元の一枚と、倒れた後の空を置く。写真には、欠けたレンズの印が薄く残っている。光の縁が強い。子どもが指でなぞり、「ここが光ってる」と言った。凪が「そう」と答え、宙が「縁が大事」と付け足した。御影は配電盤の前で、今日の記録に丸をつける。丸は小さい。小さくて、はっきりしている。
海斗は祖母の横に座り、膝の包帯を見せた。祖母は一度だけ怒ったふりをしてから、笑い、手を叩いて小さく歌った。
「十三で踊り場、十四で扉」
「十五で戻って、一でいとまの合図」
海斗が続ける。歌は予報。予報は外れる時もある。外れても、歌は体に残る。残った歌が、次の段へ足を置く時に役に立つ。
夜。窓の外の光条は遠くで揺れるだけで、海は光らなかった。塔のあった丘の上には、黒い影が一本少なくなっている。少なくなったことで、見えるものがある。空の低さ。町の幅。人の手の届く範囲。届かない範囲。
凪は掲示板の「北西 送電塔」の紙に小さく追記した。「一晩、点灯」。文字は細い。細いけれど、強い。兄の似顔絵は変わらない。返事はまだない。扉は、また明日叩く。
宙は台本の余白に短い書き込みを足した。「上手に落ちる」。落ちることは終わりじゃない。次の段へ戻る手順だ。手順があれば、怖さは少し薄くなる。薄くなった怖さを、帰ってから笑って言える。
御影は頬の火傷を指で押さえ、配電盤から離れた。手を洗い、布テープを新しく巻き直す。巻きながら、数字の列の横に小さな線を引いた。線は、光の縁に似ている。縁がはっきり見えていれば、真ん中は多少ぼやけても歩ける。
柊は欠けたレンズを外し、掌に載せた。欠けの縁がうっすら光る。今日、その縁のおかげで見えたものがいくつもある。壊れたまま使うことを決めたのは、正しかった。世界は直らない場所が多すぎて、全部は直せない。それでも、真ん中に置くべきものだけは、くっきり撮れる。
「怖かった」
最後にもう一度、海斗が笑いながら言った。宙が肩を揺らし、凪がうなずき、御影が「怖いは正しい」と短く返した。正しいものは、言っていい。言っていい時に言う。言える場所まで帰ってきてから言う。
静かな夜だった。体育館の天井の隅に、薄い光が縁を作る。風鈴のない風鈴が、どこかで揺れた気がした。鳴らない。鳴らないのに、明日の朝、誰かの手の中で音になる。灯りは遠くで小さく続き、塔のない丘の上に、見えない階段の一段目が浮かんでいた。




