第10話 欠けたレンズ
落とした瞬間の音は、思いのほか軽かった。柊の手の中でレンズが跳ね、床を一度転がってから、金属の縁を下にして止まった。拾い上げると、前玉の端が小さく欠けている。爪で触れると、鋭い。胸の奥が冷たくなった。
試しに体育館の端を狙う。ファインダーの中で、いつも通りにピントリングを回す。合う。けれど、中央だけ。周囲は薄い霧の向こうみたいにぼやけて、四隅には欠けの反射か、涙の跡のような光がにじむ。
「やっちゃった?」
宙が笑いを抑えた声で覗き込んだ。柊は正直にうなずく。笑い返したつもりが、口の端は上がらなかった。
「直せる?」
「ここでは無理。部品もない。送って戻る時間も、もうない」
御影が配電盤の点検を終えて近づく。レンズを手に取り、光に透かして角度を変えた。欠けの縁で光が一回わずかに飛ぶ。それは目に見えるほど鮮やかではないのに、視界の端をひっかく。
「使えるよ」
御影の言い方は簡素で、余計な慰めがない。
「真ん中しか合わない。周辺は滲む」
「なら、真ん中で撮る。ついでに、滲むものは滲んだまま、そういう写真にする」
柊はファインダーから顔を上げ、体育館の隅で譜面を乾かしている苑を見た。彼女は濡れたページを一枚ずつ本にはさみ、両手で押さえている。その指先だけは、どんな時でも迷わない。写真に写るのは、その指の確かさだ。画面の端で滲むものは、今の町の輪郭みたいなものだ。
「欠けは、世界の縮図だよ」
宙が言った。彼は壊れた糸巻きをポケットで転がしながら、からりと笑う。
「全部は見えない。見えないから、真ん中を選ぶ。選ぶから、届く」
燈が配給表を抱えて通り過ぎ、立ち止まってこちらを見た。目が合うと、彼女は親指を軽く立ててみせる。短い合図。柊はうなずき、欠けたレンズをそのままボディにつけ直した。
その時、凪が走ってきた。濡れたスニーカーが木の床で鳴る。手にしているメモはにじんで、指の跡が何重にも重なっている。
「無線。新しく拾えた。北西、送電塔。断片的だけど、二回。別の局の声も同じ言い方だった」
言葉の端が急いでいても、発音ははっきりしていた。凪の目の奥は眠っていない。兄の似顔絵の横に貼った「無線」の紙に、小さな丸が増えていくような顔だ。
御影はすぐに地図を広げる。商店街の奥、丘陵を越えた先、北西の山稜に送電線が走っている。塔は三本。一本は去年の台風で傾き、今は使われていないはず。二本は現役だったが、この数日で状況は変わったかもしれない。
「行く」
凪は短く言った。「私も行きたい。でも、私は無線でここに残る。向こうと繋がったら、返せるように」
燈が近づき、編成を整える。御影は電気。宙は士気。海斗は脚。柊は記録。四人で動く。凪は無線。燈は学校と市庁舎の連絡。苑は広間。茉莉は資料。役割を声にして並べると、足元が固くなった気がする。
「出発は十五時。丘陵にかかる手前で一度止まる。夜は無理をしない。倒木で風と雨を遮れる場所を探して、そこで泊まる。夜半の無線は凪に一任。明け方に塔下へ」
燈の声は落ち着いていた。腕時計の針に人差し指を置き、十三の位置を軽く叩く。踊り場。宙が笑ってうなずく。御影は配電盤のチェックリストに一行足し、海斗は祖母に「行ってくる」と頭を下げた。祖母は短い歌の一節を口の形で作り、海斗の背中を一度だけ叩いた。
校舎を出ると、風は昨日より冷たかった。雨は細く、塩の匂いは薄れ、代わりに濡れた土と青い草の匂いが強い。北西へ向かう坂の下で、柊はレンズのリングを回す。中央に合わせる。端はぼやけたまま。欠けの縁で光が針のように跳ねる。その針は危ないわけではない。ただ、視界の端に小さな違和感を置く。
商店街の脇道を抜け、丘の手前で一度立ち止まる。踊り場。海斗が水を飲み、宙が短く手を叩く。御影は標識の柱に小さな目印を残した。凪がここを見つけられるように。柊は四人の足元を撮った。濡れたアスファルトに置かれた靴の重さ。中央はくっきり、端で揺れる。揺れているのは、終わりの気配と、まだ終わっていない気配だ。
丘陵の道は倒木で塞がれていた。根から倒れた杉が幹を道に横たえ、その先に何本も重なってトンネルのような影を作っている。葉は半分落ちて、残った葉は濡れたまま張り付いている。風が通るたび、水が細かく落ちた。
「ここを抜けるのは明日にしよう」
御影が言った。無理に行けば足を取られる。暗くなる前に泊まれる場所を作る。倒木のトンネルの入口は、風を避けるのにちょうどよかった。四人は落ち枝を集め、ビニールシートを立て、荷物を乾かし、食べ物をわけた。塩の効いた乾パンは、今夜はやけにうまい。温い麦茶でも、喉に正しく落ちる。
宙が指先で人形の糸を持つように枝をいじりながら、口を開いた。
「怪談をするよ」
海斗が顔を上げる。御影は笑わないが、耳は向いている。柊はレンズを膝に置き、キャップをはずしたまま空を仰いだ。トンネルの隙間から見える空は細い。光条は見えない。代わりに、雲が流れる。
「でも、真面目なのはやめよう。嘘みたいな、楽しいやつ。怖がったら負け、笑ったら勝ち」
宙は手を軽くひらひらさせた。
「昔々、この町には『オバケの電柱』がいたんだ。夜になると、足が生えて歩き出す。どこへ行くと思う? コンセントを探すんだよ。自分のプラグがどこにも刺さらなくて、いつも困ってる。で、ある夜、ついに見つけた。大きな壁に『ここから先は関係者以外立入禁止』って書いてあって、そこにたくさんコンセントが並んでる。電柱は喜んで駆け寄って、プラグをぐいっと差した。そしたらさ……」
宙は間を取る。三人が息を小さく止めたのを、わざと見逃す。
「コードの先がみんなドライヤーで、一斉に『温風』って言いながら髪を乾かし始めた。電柱、全身がふにゃふにゃになって、『俺、夏は苦手なんだよ』って言いながら溶けちゃって、翌朝には新しい送電線が一本増えてました。めでたしめでたし」
海斗が吹き出した。御影の口元もわずかに緩む。柊は肩で笑いながら、レンズの端に溜まった水滴を指で払った。
「もう一個」
宙は続けた。
「『三本足の送電塔』。夜中、こっそり三本目の足を出して歩き回る。なんでそんなことするのかって? 自分がどれだけ高いか、誰も褒めてくれないからさ。自分で歩いて、自分の影の長さを確認して、満足して帰る。ある晩、歩きすぎて海まで行っちゃって、波に足を取られて転んだ。恥ずかしくて、翌朝から影を短くするようになった。それが『今日の空がいつもより低い』って感じる理由です」
しょうもない。けれど、温かい。笑っているうち、暗さは思ったより急に落ちてきた。倒木のトンネルの奥が黒くなる。空を細く切り取っていた隙間に、星は見えない。風の音が変わり、遠い海のほうから低いざわめきが寄ってくる。
夜半。空の向こうで、光条が一斉に瞬いた。何本か、同じ合図で明滅したように見えた。次の瞬間、遠くの海が蒼白く光った。昼の太陽とは違う、冷たい光。波の腹の中からめくれ上がるようにして岸へ寄り、すぐに引く。音は遅れて来た。胸の奥で誰かが太鼓を一度だけ叩いたみたいに鳴り、地面が浅く震えた。
柊は反射的にカメラを掴んだ。ファインダーを覗く。レンズの欠けた縁に、光が針のように走った。ピントを中央に合わせる。遠い海はぼやける。だが、光の輪郭だけが、薄い刃のように鮮明になる。光が続く境目。暗さと隣り合っている線。そこだけが、くっきりと立っていた。
「……見える」
思わず声に出た。御影が「何が」と低く訊く。
「線。光の縁。真ん中じゃないのに、縁だけがはっきりしてる。欠けたところで、光が拾い上げられてる」
ピントは中央にしか合わない。なのに、明暗の境だけは焦点を貫いて見えてくる。欠けた縁が微妙に光を折り、輪郭を強調しているのかもしれない。説明は後でいい。今は、見える。壊れたおかげで、見えるものがある。
海斗が立ち上がり、丘の向こうを見渡した。宙は肩を寄せ、息をひとつだけ吐く。御影は腕時計の光を消し、暗さに目を慣らした。蒼白い波は二度、三度と薄く光り、やがて静かになった。風の音だけが残る。倒木のトンネルの中で、四人は同じ暗さを見た。
「明けたら、動こう」
御影が結んだ。声は硬くなく、決意を含んだ重さがある。
「塔の足元を見てから、無線。凪に渡す」
柊はレンズを撫で、再び膝に置いた。壊れたものを、直さないまま使う。欠けた視界で撮る。ぼやけているものは、ぼやけたまま残す。はっきりしてほしいものだけを、真ん中に置く。はっきりとさせたくないものは、端に流す。世界は今、そういうふうにできている。
「ねぇ」
宙が小さな声で言った。
「もし、三本足の送電塔が、本当に夜に歩いてたら。今の光は、転んだあと、恥ずかしくて顔が赤くなる代わりに、海が青くなった合図かも」
海斗が笑い、柊も笑った。御影も、口の中で一度だけ息を鳴らした。笑いが止まると、静けさが戻る。静けさは怖くない。怖いのは、何も決められない時だ。今は決めた。明けたら動く。
倒木の根元に体を寄せ合い、浅い眠りに入る。柊は目を閉じる前にレンズキャップを外したままにして、空に向けてカメラを置いた。欠けた縁に、微かな露がたまる。露が集まって、小さな線になる。線が光って、消える。消えたあと、瞼の裏に光の縁だけが残った。
夜明け前。トンネルの天窓から、薄い灰が降りてくる。鳥の声は少ない。草の先に水が重く、風がそれを落とす。身体を起こすと、背中に木の感触が残っていた。海斗が伸びをし、宙が肩を回す。御影は地図を広げ、塔までの道の角度を指でなぞる。柊はファインダーを覗き、欠けたレンズの中の光を確かめる。中央に合わせる。縁で拾う。そうやって撮れたものは、きっと誰かの手元で地図になる。
山肌を回り込むと、送電線の影が斜面に落ちていた。塔は近い。一基は傾き、もう一基は無事に立っている。残る一基が、丘の向こうで見えたり見えなかったりする。空は低い。光条は遠い。足元の草が滑る。四人は順番に手を貸し、背を押し、誰も転ばずに塔の足元まで出た。
塔の基礎は湿っている。ボルトは錆び、でも抜けない。金属の肌に、塩が薄くついて白く光った。御影が配電の箱を見上げ、耳を澄ます。静かだ。動いていない。宙が周囲を見回し、海斗がロープの残骸を脇に寄せる。柊は塔の足元にカメラを置き、欠けたレンズで送電線と空の境を撮った。線だけが、やはり、鮮明だった。
御影が簡易受信機のスイッチを入れる。凪の教えた周波数に合わせる。砂の音。遠い声の欠片。風が邪魔をする。御影はアンテナの角度を変え、宙が「三本足の送電塔」を思い出してアンテナをそっと支える。海斗は腕を伸ばして別の角度を試す。柊はその姿を中央に置いた。
「……き……こ……えるか」
凪が一度拾ったのと同じ言い方。低い男の声。塔の根元に、四人の背中の筋肉が一斉に固くなる。柊はシャッターを切らない。眼で見た。見たことは消えない。御影が短く息を吸い、マイクに口を近づける。
「北西、送電塔。こちら学校。聞こえるか」
応答は、なかった。砂の粒の丸さだけが、耳の中で転がる。御影が角度を変える。宙が支え直す。海斗が塔の影を踏み、足の位置をずらす。柊はファインダーを覗き、光の縁を追う。雲の裂け目が薄く光る。縁だけが鮮明だ。中央のぼやけの向こうで、誰かの呼吸のリズムを想像する。
「凪に戻そう」
御影が決めた。出力が足りない。ここで無理をすると、次がない。宙がうなずき、海斗がロープを肩にかける。柊は最後にもう一枚、塔の足元を撮った。四人の足の位置。塔の影の角度。朝の光の線。欠けたレンズの中で、線だけはまっすぐだ。
戻り道の倒木トンネルで、昨日の寝床がそのまま形を残していた。風が変わり、匂いも変わった。海の匂いは薄く、土の匂いが強い。宙が「三本足の送電塔にお礼を言っていこう」と言って、トンネルの入口で軽く頭を下げた。御影は笑わないで、同じことをした。海斗は肩を回し、柊はレンズを撫でた。
学校が見える頃、凪が走ってきた。息が上がっていない。彼女は無線室からそのまま出てきたのだろう。手には新しい紙。周波数と時刻。書いてある文字は濡れていない。
「どうだった」
「誰かがいる。でも、近くはない。音は薄い。塔は生きてない」
御影の言葉は短く、正直だ。凪はうなずき、紙を見下ろし、またうなずいた。
「朝の光で、もう一回。踊り場のあと」
燈が配給表を抱えて待っていて、足を止めた四人の顔を順に見た。見ただけで、必要な長さの休みを入れる。苑が広間の隅でハミングを始め、茉莉が図書室から郷土誌を抱えて出てきた。写真を配る台の上に、柊は今日の一枚を置く。線だけがはっきりした、塔の足元の写真。下に小さく日付を書き、「欠けたレンズ」と付け足した。
「これ、かっこいい」
小学生の男の子が言って、指で線をなぞった。なぞった指先が光って見えた。柊は少年の頭を軽く撫で、レンズの欠けに触れようとして手を引っ込めた。触れなくても、分かる。壊れているものは、壊れている形で強い。
夜。窓の外で光条が遠く揺れる。蒼白い海は静かだ。凪は掲示板に新しい紙を貼った。「北西 送電塔」と太く書き、下に「朝」とだけ添えた。兄の似顔絵は変わらない。目はやさしく、口元は固い。宙の台本は端に「十四で扉、十五で戻る」と書き足されている。御影は配電盤の前で、今日の針の揺れの記録に小さく丸をつけた。海斗は祖母の隣で目を閉じ、短い息を丁寧に続けた。燈は腕時計の針に指を置き、離した。苑は譜面を胸に抱いて、窓の外の暗さに向けて一度だけ手を叩いた。
柊は欠けたレンズを光にかざした。欠けの縁が細く光る。そこだけが、鋭い。世界は壊れながら、肝心なところだけまだ見える。それで十分だ。見えるものを、真ん中に置く。見えないものは、いったん端に流す。端で滲んだものが、明日また輪郭を取り戻すかもしれない。そうやって、明日に手を伸ばす。
レンズキャップを、今日は閉じなかった。ファインダーの先に、暗い体育館の天井。天井の縁に薄い光。縁は、やっぱり鮮明だった。




