10.脱出
【文字数】4846字 【推定読了時間】約10分
目黒は東京から出る新幹線に乗車した。
22:48東京駅発、23:39三島駅着。
自由席の車両に乗る。
空いている。乗客は前方と後方にそれぞれ一人ずつしかいない。
目黒はほかの乗客を避けるように、車両の中程の、窓際に座った。
乱れた息を整えながら、窓を覗いてプラットホームに人影を探す。
いる。
柱の陰に、白装束の女が立っている。
それは常に同じ距離を保っているわけではなかった。
だが決して消えることもない。
目黒が急ぎ足に駅に行く途中でも、振り返るたびに、雑踏のなか、近くはないがそう遠くもない距離に、ぼうっと立っていた。
白装束の女から逃れる方法として目黒がまず思い当たったのは、関東から出ることだ。
ラジオで聞いた怪談やオカルト掲示板で読んだスレッドから考えると、その女は東京タワーから送信される電波を媒介にして現れている。ならばその電波が届く範囲――関東広域圏から脱出するほかない。
だが実際にどう動くのかといえば、複数の選択肢から最善を吟味する時間的余裕はなく、ありあわせの知識で交通手段を決めた。
電波は直線に飛ぶ。
単に速度だけを考えれば飛行機だが、上空には電波を遮るものがない。長距離にわたって電波が届く恐れがあるから選択肢から消した。
深夜帯にも移動しつづけたいところだったが、しかし夜行バスとなると電車より遅く便もすくない。自動車を使うとしても飲酒運転になるからハンドルは握れないし、タクシーに乗って渋滞に嵌らないとも限らない。
とすれば新幹線――こと関東平野からいち早く出ることを考えれば東海道新幹線が妥当だ。
それで、歩きスマホでJRを検索した。
ちょうどよく三島駅終点のこだまが出ている。
僥倖だった。
三島駅は静岡県の東部、伊豆半島の基部にある。駅と東京タワーとのあいだには箱根山が横たわっており、箱根山の最高峰である神山は標高1438メートルだから、さすがに電波の越境は起こらないはずだ。
そうであってほしくはないが、もし三島駅で降りた時点でまだ憑いてきているようなら、目黒は駅から北西へ向かうつもりだった。
そこには日本の最高峰にして三大霊山の一つ、富士山が聳えている。
目黒に信仰心はない。霊験のおこぼれにあずかろうなどというつもりは皆無だが、日本に生まれ育っていくなかで無意識に畏敬の念が根付いてしまうものなのか、富士山の陰に隠れてしまえば電波だけでなく、そのものの邪気さえも防がれるのではないかという漠とした期待が、なかったかといえば否定は難しかった。
新幹線が出発する。
ホームに立つ白装束の女は寸毫も動かない。
まるで三次元の空間に二次元の画像をベタリと貼りつけたかのようだ。
その姿が完全に視界から外れたあと、目黒はスマホに視線を落とす。
これまでは時間がないなかで、東京タワーの電波から逃れることだけに集中していた。
ここでようやく先のことを考えはじめる。
三島駅や富士山周辺に土地勘はなく、宿があるかも知らない。富士山の麓を目指すことになれば野宿も覚悟しなければならないだろう。関東からさらに離れる必要があるなら、タクシーを拾って夜通し運転してもらってもいいかもしれない。出費は痛いが背に腹は代えられない。
さらにその先、どうするか。
白装束の女を振り払えればいいが、できなかったらどうするか。
お祓いに行く? とすれば神社? 霊能者に頼るのか?
もし取り憑かれてしまったら、どうなるのだろう?
自殺してしまうのだろうか?
東京に――スミちゃんのところには戻れるだろうか?
焦燥のせいか酒のせいか、意識があちこちに彷徨ってうまく考えられない。
目黒は冷静になろうと気を引き締めた。
とりあえずスマホで三島駅周辺のホテルを確認だけして、次に悪霊を祓える神社仏閣や霊媒師を検索してみるが、そもそも信じていないせいもあって、どれもこれも胡散臭くて仕方がない。サイトを閲覧しようとすると途端にセキュリティアプリに危険だと警告されたりもした。
埒が明かないから以前読んだオカルト掲示板に助けを求めることにする。
スレッドを立てるためにこれまでのあらましを文章にまとめようとする。
が、親指の動きは鈍い。
何度も止まり、迷って、すこし書いては削除した。
難しい。
根本的な文章力の巧拙のせいでも、個人情報をぼかすために考慮しているからでもない。
自分の行動の仔細、それに伴う感情、思考を振り返って、彼はやっと後悔していた。あまつさえ一番傷ついてほしくない大切な人に害が及んで、それがまた自分に返ってきて、ようやく後悔ができた。
気分が悪い。
感情にかきみだされて、見当識さえあやしい。
体の内側がゆっくりとかき回されているような感覚があって、吐き気がする。
血液の粘度が上がったのかと疑うほどに心臓の弁の開閉が甚だしく感じられ、首筋が強張り、頭が重い。
彼の親指は、スマホの画面に触ることができなくなっていた。
自分が加害者だとは書けない。
自分を悪人だとは、知られたくない。
恥ずかしい。
自分自身を、これまで被害者だと思っていた。
善人だと思っていた。
しかし違った。
被害者なのだから加害者に復讐してもいいのだと自分を許していた。
善人だから、悪人を害しても、それは悪にはならないのだと、まったくの無意識のうちに信じていた。
そうして他人の命を脅かした。
加害者になってしまった。
悪人になってしまった。
これまで自分が盲目的に信じてきた被害者で善人の“自分”は、本当には存在しなかった。
脳内に思い描いていた“自分”は幻想だったのだ。
幻だった。
コ、という音が聞こえた。
とても小さな音だ。
幻聴だと思った。
きっと後悔のあまりに聞こえてしまったのだ。
しかしすぐに、もうすこし大きな音で、コ、と聞こえる。
後ろの車両とのあいだにあるデッキから聞こえたようだ。
ハイヒールを履いた誰かが、足音を立てたのかもしれない。
目黒は背筋を伸ばして頭を振り向かせる。
車内灯に無機質に照らされる座席、通路、壁、扉――。
あたりまえの光景のはずだが、どこか違和感がある。
目黒はドアに視線を定めて、違和感の正体を探した。
ドアの中央には縦に長い楕円の窓が嵌められている。
窓といっても、目隠しのために加工がされていて、ほとんど白い。
ドアの向こう側に人がいた場合、そのシルエットはわかるが、顔は識別できないくらいの透明度だ。
そこが、なんだか、暗く見える。
デッキにももちろん車内灯はあったはずだが、電気が切れてしまっているのだろうか。それとも人感センサーで点灯する仕組みなのか。
いや、だとすれば、あのハイヒールの足音のような音は?
……いや、ただの聞き間違いだろう。
あの音はきっと、……きっと、自然な軋みだ。
窓が暗く見えるのも、おそらく角度や距離のせいだろう。
精神が張り詰めていると自覚して、細く長く溜息をつき、そしてふと気づいた。
この車両に、彼のほかに誰も乗っていない。
東京駅で乗車したときには確かにほかに乗客がいた。
いつの間に出て行ったのだろう。
この車両は通路を挿んで左に三列、右に二列座席があるだけのそう広くはない造りだ。それにいくら動揺しているとはいえ敏感になってもいる。特に前方に座っていた乗客が動いたなら気づきそうなものだが……。
彼はおもむろに座りなおす。
背中がうすら寒いような、覚束ない感があって、彼は座席に沈み込むように身を竦めないではいられなかった。
スマホに視線を下ろす。
車内灯が刹那、瞬く。
と同時に、カ、と音がした。
それはこれまで聞いてきたような、くぐもった、低く鈍く軽い音ではなかった。
より鮮明に聞えた。
その音を出したものと自分とのあいだには、おそらく、なんの隔てもない。
目黒は表情もなく硬直する。
車内灯が数秒間にわたって、不安定に明滅する。
その最中に、カ、と音がした。
それはよりはっきりと聞こえた。
目黒は素早く席を立ちながら振り返った。
誰もいない。
誰もいないし、何も見えない。
車体の揺れや温度変化で生じた軋みともとれる音だった。だが彼は直感的に、前方――進行方向にある車両に移動することを決めた。
取り乱したというより、そうしなければならないと本能が命じていた。
早足に進んで、前方のデッキへのドアに接近したとき――
コ、
と真正面の、ドアの向こうから聞こえた。
目黒は体を停めるが、眼前の自動ドアは否応なしに開いていく。
ただでさえゆっくりと開く自動ドアが、このときはなおも、まるで時間が引き延ばされているように緩慢に見えた。
逆に、彼の思考は迅速だった。
彼の脳裏にはある光景が浮かんでいた。
赤坂と過ごした最後の夜、玄関のドアを開けた先にあった光景だ。
隣接する別のマンションの階段の蛍光灯が、いやに眩しく見えた。
それはなぜか?
自分のマンションの、玄関前の吹きさらしの廊下が、普段より暗かったせいだ。
普段は点いている廊下の蛍光灯がその夜は消えていたのだ。
おそらく、消されていたのだ。
そのときは目に見えなかったが、赤坂が言ったとおり、ドアの前まで来ていたのだろう。
いま、目黒の目の前で開いていく自動ドアの隙間から見えるデッキもまた、暗い。
明かりが消されている。
そして確実に、その暗闇のなかから『コ』の音は聞こえた。
つまりは、
――追い抜かされた。
自動ドアが開き切る前に目黒は踵を返し、後方車両へと駆けだして、数歩のところで、この車両のすべての車内灯が消えた。
咄嗟に両手で座席の背もたれを鷲掴みにして、無理矢理に体を停める。
車窓から入る街明かりだけが車内をほのかに照らしている。
暗がりのなか、彼の正面、三メートルほど先の通路に、立っている。
白装束の女だ。
ここまで近づくと、それが完全な白ではないのがわかる。
赤や、黄や、緑や、黒で、ところどころ、まだらに汚れている。
しかし濡れてはいない。むしろ干乾びているように見え、水滴が落ちて音がしていたとは思えない。
それには足が無い。足元は暗いが、闇に混じって見えないわけではない。無いのだ。白装束の裾は破けたというより経年劣化で失われたのがわかり、それより下、本来足のあるべきところには、透けて向こうの床が見える。ハイヒールなど履けるはずがない。ヒールも、骨すら無いのだから、足音が立てられるはずがない。
それには右肩から先が無い。左肘より先が無い。朽ちて落ちたのだろう。だから手で物を叩いて音を出すことはできない。ノックはできない。
黒い蓬髪は腰まで覆っているが、右の前頭部については頭皮ごと抜け落ちている。
乱れた髪に垣間見える右側面、露出した顔から肩甲骨まで、肉がほとんど無い。骨にからがらへばりついていたとしても、乾いているか腐っている。
声帯は欠損している。だから声は出せない。『此処』とは言えない。
瞼はわずかに残って垂れ下がっている。
眼球は無い。
鼻も無い。頬も無い。舌も無い。
歯は割に残っている。
顎がゆっくりと大きく開いていく。
そして素早く閉じる。
カッ!
歯が歯に打たれて、音が鳴った。
それが、この女が出し得る最も大きな音なのだ。
手も足も失って、声帯も腐って、おそらく頭蓋骨のなかも散々で、そんな姿になっても、それでもまだ音を鳴らしつづけている。
死に、そして忘れら去られるという真正の孤独に、そうやって抗っている。
――幻だ。
そう、目黒は決めつけた。
これは死の幻だ。
死への恐怖が見せる幻だ。
幻覚を見ている。
これまで幻聴を聞いてきたのと同じように。
罪悪感と恐怖で、俺の精神はとうとう狂ってしまった。
だから、裏を返せば、これは幻なのだから、精神は狂ったが命は助かるかもしれない。幻が、実在する人体に影響できるはずがない――と、そこまで考えたところで、目黒は、あ、と気づいてしまう。
――違う。俺は狂ったんじゃない。だが正常というわけでもない。
ついさっき気づいたじゃないか。
俺は、…俺も、…俺自身だって、幻想じゃないか。
善人でなかったと悟り、しかし、悪人であることを認められない俺は、何者でもない、曖昧な存在――幻。
俺も、この女と、同じ、幻――――。
鼻先を噛むほどの近さで、
カッ!
と鳴った。




