6ー3
俺が怒りで我を忘れそうになり、立ち上がろうとした瞬間、先にマダムが動いた。先ほどまで、どこか上機嫌でニコニコしていたマダムの顔が、みるみるうちに目をつり上げ、不機嫌から、一気に激しい怒りへと変わった。椅子から立ち上がると、仁王立ちになり、先ほどのドワーフの声など霞むほどの音量で怒鳴り返した。
「ゴードン!なんて格好で勝手に入ってくるんだい!ここがどこだと思ってるんだ!」
その声は、まるでドラゴンの咆哮だ。空気がビリビリと震える。
「そ、そんなことよりマダム!この素晴らしい香りは一体……!酒じゃ!わしが味わったことのない、とびきりの酒の匂いがしたんじゃ!」
しかし、ドワーフは怯むどころか、さらに前のめりになる。その目は、俺の目の前にある和定食に釘付けになっている。
「そんなこと、だと?人が食事をしようという時に、土足で上がり込んで怒鳴り散らして『そんなこと』だと!?いい度胸じゃないか、ゴードン。この宿から永久追放(出禁)にしてやろうか?それとも、今日からお前さんの宿代だけ十倍にしようかねぇ?ヒッヒッヒッ!」
「出禁」という言葉を聞いた途端、ドワーフは飛び跳ねるように怯んだ。マダムの悪どい笑顔と、底冷えするような笑い声に、俺も思わず背筋がゾッとした。ドラゴンの咆哮だと思ったら、次の瞬間には獲物をいたぶる魔女に変わったのだ。
「!?……す、すまん、マダム……しかし、この香りは……!」
「しかしも案山子もありゃしないよ。さっさとここから出ていきな!さもないと……!」
「わ、わかった、マダム!わしが悪かった!勘弁してくれ!」
マダムの畳みかけるような口撃に、ドワーフは完全に気圧されたようだ。顔面蒼白になり、まるで逃げ出すように調理場から飛び出していった。「さもないと」、一体何をされるというのだろうか。いや、うん、世の中には知らない方が良いこともあると、改めて痛感した。
自分が怒りで我を忘れそうになったが、目の前でそれ以上の激しい怒りをぶちまけているマダムを見ると、不思議と冷静になれるものだ。
「さあ、改めて、いただくとしようかね」
マダムは何事もなかったかのように、椅子に座り直した。
「ああ、そうだな」
嵐のような出来事だったが、あっという間に終わった。マダムが迅速に解決してくれたおかげで、トレイの上の和定食は、まだ温かい湯気を立てている。
目の前の和定食。最高の景色だ。まずは、温かい味噌汁から一口。
ズズ……
優しい出汁の香りと、味噌の風味。体に染み渡るような、ホッとする味だ。異世界でこの味に出会えるなんて。目頭が少し熱くなる。
そして、炊きあがったばかりの、白くて艶々のご飯を箸でつまみ、口に運ぶ。ホカホカのご飯。噛めば噛むほど広がる、米本来の甘み。この、紛うことなき日本の米の味だ!感動で震える。
次に、皮目がこんがりと焼けたソルジャーサーモンの切り身に箸を入れる。ほろりと身がほぐれる。それをそのまま口に入れる。
ああ、この塩加減!ソルジャーサーモンの凝縮された旨味と、塩の絶妙なバランス。香ばしい皮目の風味もたまらない。
そして、出汁巻き玉子を口に入れた瞬間、その優しい甘さとふっくらとした食感に、脳髄が震えるような衝撃が走った。味醂と出汁が織りなす上品な甘さと旨味。口の中でとろけるような柔らかさ。これだ!これこそが、俺が求めていた味だ!
さらに、ホワイトラディッシュおろしに、醤油をほんの数滴垂らす。それを、再びソルジャーサーモンの切り身に乗せて口にする。
焼き魚の香ばしさと脂の旨味に、大根おろしの爽やかさ、そして醤油の香りが加わり、味が何段階も昇華される。これはもう、ご飯が止まらない!
ふっくらとした出汁巻き玉子にも、少しだけ大根おろしと醤油を乗せてみる。甘じょっぱいただし巻き玉子と、大根おろしの組み合わせも、これまた絶妙だ。新しい発見だ。
そして、パリッと炙られた海苔で、炊きたてのご飯を優しく包み、口にする。
サクッとした海苔の歯触り。磯の香りが口いっぱいに広がり、ご飯の甘みと合わさって、これぞ日本の味、という強烈な感動が押し寄せる。
どれもこれも、想像を遥かに超える美味しさだ。五感が刺激され、全身に喜びが駆け巡る。異世界で、この味を、自分で再現できた。この事実が、何よりも嬉しかった。
マダムは、俺が一口食べるごとに、同じ物を口にしては、驚きの表情と笑顔が代わる代わる顔に出る。どうやら気に入ってくれたらしい。
(この味……この味なんだ……!)
前世で当たり前だった、この「和」の味。それが、今この異世界の片隅で、確かに自分の目の前にある。噛み締めるたびに、遠い故郷への強烈な郷愁と、今この瞬間味わえることへの深い感謝の念が湧き上がってくる。
箸が止まらない。ご飯、味噌汁、鮭、卵焼き、大根おろし、海苔。どれもが最高の状態で、互いを引き立て合っている。この完璧なバランスこそが、和定食の真骨頂だ。
気がつけば、あっという間に膳の上の料理が消えていく。最後の一滴まで味噌汁を飲み干し、箸を置いた。
「……はぁ……」
思わず、深いため息が漏れた。それは、満腹感と、そして言いようのない深い満足感、幸福感に満ちた、至福のため息だった。
「お前さん的にはどうだったんだい?」
マダムが、待ちきれないといった様子で尋ねてきた。
「……最高だ。本当に、最高に美味かった」
俺は、心からの言葉を口にした。この感動を、どう伝えればいいのだろうか。言葉では足りない。
「そうかい……よかったね」
マダムは、俺の言葉を聞いて、ふっと安堵したような、そしてどこか遠い過去を懐かしむような、複雑な表情を浮かべた。
「マダム、本当にありがとう」
改めて感謝を伝える。こんな見事な調理場を貸してもらえなければ、再現できなかっただろう。
「それにしても、あの食材と、あの調理法で、あんなものが出来上がるなんてねぇ……不思議なもんだ」
マダムは、トレイの上の空になった皿を見つめながら、何かを考えるように呟いた。
「あのドワーフは、なんの匂いを嗅ぎつけてきたんだ?まさか、俺が使った少量の酒の匂いを嗅ぎつけて?」
「ああ、恐らくはね。あんたが鮭の下処理に使った酒と、味醂の香りだろうね。あれは、この辺りじゃ出回ってないだろうからね。酒好きのゴードンには、たまらない匂いだったんだろうさ」
なるほど。そうか、あのドワーフは酒の匂いに釣られて来たのか。まあ、それだけこの地域の酒とは違う、特殊な香りだったということだろう。しかし、本当に危なかった。もう少しで、念願の和定食が、あのドワーフの騒動で台無しになるところだった。
「しかし、マダムは手際よく追い払ったな。一瞬で」
「長年、色んな冒険者を見てるからねぇ。ああいう厄介な輩には、それなりの対応をしないとね」
マダムは、先ほどの激昂した姿とは打って変わって、穏やかな表情で答えた。このマダムの二面性も、この宿の、そしてこの町の面白いところなのかもしれない。
「また、食べたくなったら、借りてもいいか?」
思わず尋ねた。この味を、一度きりで終わらせたくない。
マダムは、フフッと小さく笑った。
「もちろんさね。二人分用意してくれるなら無料で貸してあげるよ、ヒッヒッヒ」
またあの悪魔のような笑い声が出たが、今は全く気にならない。むしろ、この素晴らしい味を、また作れる機会があるという喜びの方がはるかに大きい。
火の国の食材は貴重だが、しかたない。また少しづつ買い集めていこう。そして、また和定食を、いや、もっと色々な和食を再現したい。
俺は、空になったトレイと食器を手に立ち上がった。後片付けも、きっちりとやらなければ。この素晴らしい調理場を、またいつでも借りられるように。
心は満たされ、体には力が漲っている。和定食パワーだ。さて、明日からまた、火の国の食材を買うためと、旅の資金稼ぎに励むとするか。
とても幸せな夜だった。




