11ー3
オーランド達と共に里へと戻り、ツリーハウスの木の階段を上がっていると、香ばしく芳醇な、言い知れぬほど美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐった。足取りが自然と軽くなり、ドアを開けると、ミランダとアルビー様が温かい笑顔で出迎えてくれる。
「オーランド、それにお二人とも、お疲れ様でした。怪我はないですか?」
「ああ、大丈夫だ、問題無い」
ミランダの細やかな気遣いに、オーランドは余裕のある笑顔で胸を張る。
「ええ、無事ですよ。ご心配ありがとうございます」
「うん、問題無いよ。凶暴猿どもは当分現れないと思うよ」
俺とスティーブも、それぞれの安堵を込めて挨拶を返した。
「アルビー様、ミランダについていてくれて、ありがとうございます」
「ゲコ」
オーランドが丁寧に礼を述べると、ミランダの肩に鎮座するアルビー様が、誇らしげに一鳴きした。
「美味そうな匂いだな、バンの土産はどれだい?」
部屋の中央にある大きな木製のテーブルには、すでに何品もの彩り豊かな料理が並んで食欲をそそるが、主役であるはずの魚料理らしき皿は見当たらない。
「それがね……」
とミランダは少し困ったように、滑らかな頬へ指先を当てる。
「あの魔魚、皮が鉄のように硬いうえに、すごい滑りで包丁が全く入らなくて……せっかくの身を下手に傷つけちゃいけないと思って、まだ手をつけていないのよ」
なるほど、やはり一筋縄ではいかない深淵の魔物だけあって、ただの魚ではないらしい。俺がどうしたものかと腕を組んで唸っていると、背後からスティーブがひょっこりと顔を出した。
「ミランダ義姉さん、それなら僕に任せてよ」
少年は澄んだ瞳に決意を宿すと、そのまま台所へとミランダに寄り添うように入っていく。好奇心を抑えきれず、俺もオーランドもその後を追った。
すると彼は柱に頑丈な縄で吊るされているキュリオスグラニスの前に立ち、深く息を吸い込んで目を細め、精神を統一する。そして腰の双剣の柄に手を掛けた次の瞬間、まるで一陣の春風が吹き抜けたかのような、神業的な手さばきが繰り広げられた。
ーシャキーン、シュパパパッ!
肉眼では追いつかないほどの双剣の軌跡が宙に幾重もの弧を描き、ほんの数秒の静寂ののち、分厚い鉄の皮と厄介なぬめりが完璧に剥ぎ取られていく。それほど激しい刃の舞いでありながら、三枚に卸された身は一ミリたりとも傷つけられていない。それはまさに、熟練の職人すら凌駕する芸術的な技だった。
「流石我が弟!」
「ほう……見事だな!」
「流石の腕前だ、助かるわ、スティーブ」
オーランドと俺が思わず感嘆の声を漏らし、ミランダは職人顔負けの手際を称えるように、美しく裁かれた身を嬉しそうに両手で抱え込む。
頑なだった皮が取り払われたその身から、思わず誰もが息を呑むような、神秘的な光景が現れた。
それはまるで、月の光を浴びて艶めく上質なシルクの布地を思わせる、どこまでも透き通るような巨大な白身だった。
「ふふ、ここからが腕の見せ所よ。最高の料理をつくるわね!」
ミランダの瞳が期待にキラリと輝き、スティーブと共に息の合った様子で本格的な調理に取り掛かる。
「二人は先に飲みながら待っていてね」
「是非そうしてください、楽しみにしていてください」
「そうか?じゃあ甘えて先にやってるぞ」
「ありがとう、邪魔にならないようその言葉に甘えるよ」
待ちきれない俺とオーランドは、二人に勧められるまま、すでにテーブルの上に並んでいたエルフ特製の木の実の和え物を口に運びながら、木製のカップにたっぷりと注がれた冷えた果実酒で渇いた喉を潤した。
ーコツコツ、コツ……
まだカップの余韻に浸っていると、外の木製階段を慌ただしく登ってくる足音が響き、やがて控えめなドアのノックが聞こえた。
オーランドが訝しげに扉を開けると、そこには先ほどまで剣を交え、共に戦ったエルドが気まずそうに立っていた。その手には、ずっしりと重そうな壺と古びた瓶がしっかりと抱えられている。
「……エルド?」
「オーランド、少し……いいか?」
「あ、ああ、もちろん……」
普段の彼からは想像もつかない突然の訪問に、俺達は思わず顔を見合わせた。
「……さっきは、助かった。その、遅くなったが礼を言う。で、だ……長老が『客人をもてなせ』とうるさくてな。しかたなく、これを持ってきた」
彼が差し出したのは、エルフの里の誇る門外不出の至宝、『殺人蜂の蜂蜜酒』と、黄金色の輝きを放つ極上の『蜂蜜』だった。
出会った頃のツンツンとしたトゲトゲしい態度は影を潜め、その横顔にはどこか不器用な優しさと照れくらしさが滲み出ている。
「おっ、さすがエルド!相変わらず気が利くじゃないか。まぁ入れ、一緒に極上の美味い魚を食おう」
「いや、俺はこれを届けにきただけだから……」
「いいから、水臭いこと言うな」
「……うむ」
オーランドの屈託のない笑顔に促され、エルドも渋々といった様子で席に加わり、瓶を受け取ったスティーブに続いて、俺たちは早速、蜂蜜酒の厳重な封を慎重に割る。
瞬間、芳醇でありながら決してクドくない、極上の甘い香りがふわりと部屋中に広がり、
「「「おお~~……」」」
思わず三人の声が重なり、胸が高鳴る。早速、オーランドが手際よく汲み取り、俺とエルドのカップへなみなみと注いでくれた。
「里の、そして皆の無事に」
「今日の素晴らしい出会いに」
「……不本意だが、客人の健闘に」
俺が冒険者流に力強くカップを掲げ無事を祝うと、オーランドとエルドも静かにそれに倣う。
木製のグラスとグラスがカチンと心地よい軽やかな音を立て、絆を確かめ合うように乾杯が交わされた。
「こ、これは……美味いな!」
「だろ?俺達の里の人間でも、めったに口にできない極上の美酒なんだ」
「俺はたまに飲んでいるが、ここまで寝かした物は滅多に飲めん」
「なにっ……!?」
「殺人蜂討伐の危険な任務の報酬に、長老から特別に貰ってるからな」
「なるほど、命がけの代償というわけか……」
「エルド、今度で少しだけ俺にわけてくれ」
「オーランド、お前が次の討伐隊にちゃんと参加するのなら、少しだけ分けてやらんこともない」
三人で和気藹々とグラスを傾けて他愛のない話に花を咲かせていると、部屋の空気を一変させるように、待ちに待った瞬間が訪れた。
「お待たせいたしました!『キュリオスグラニスのハニーマスタードソースがけ』よ!」
ミランダの弾むような声と共に、湯気を纏った大きな木の皿がテーブルの真ん中にドンと置かれた。
香ばしく絶妙な火加減でソテーされた分厚い白身魚の上には、里の聖域近くに群生するという希少な琥珀花の種の酢漬けと、先ほどエルドが持ってきてくれた極上の蜂蜜を贅沢に使った、黄金色の特製ソースがたっぷりと艶やかにかかっている。
立ち上る湯気と共に、食欲の限界を刺激する甘酸っぱくて香ばしい芳香が、部屋中に爆発的に広がっていった。
「ゲコッ!」
ミランダの肩にいたアルビー様が、待ちきれないとばかりにピョンと軽快に跳ね上がり、テーブルの特等席に着地する。そしてビュッと驚異的な速さで長い舌を伸ばし、たっぷりとソースの染み込んだ切り身を一口で飲み込んだ。
「ゲ、ゲコッ……!?」
瞬間、アルビー様は丸い目を限界まで見張り、その場でピタリと硬直した。
あまりの衝撃に、全身の魔力が漏れ出て、ぶるぶるっと小さな体が心地よさそうに震え、白目を剥いている。
「そ、そんなに美味いのか……!」
精霊であるアルビー様のその姿に、我慢の限界を迎えた俺も、自分の皿へ焦るように切り身を取り分け、黄金色のソースをこれでもかと絡めて口の中へと放り込んだ。
「こ、これは……美味すぎる……!」
口に入れた瞬間、外を吹き抜ける風の音も、旅の途中で溜まった疲労も、残酷なまでの時の流れさえも、すべてがパタリと消え去った。
外側の香ばしく焼き上げられた皮の食感と、シルクのようにどこまでも滑らかな白身が口の中でほろりとほどけ、上品で濃厚な旨味の脂がじゅわりととろけ出す。そこにキラービーの蜂蜜の奥深いコクのある甘みと、マスタードの爽やかな酸味が奇跡のようなハーモニーを奏で、最後にわずかなピリッとしたアクセントが全体の味わいを完璧に引き締めていた。
「……っ!」
言葉にならない。ただ、あまりの幸福感に、俺の目からは思わず一筋の熱い涙がこぼれ落ちていた。
異世界に飛ばされてから数々の美味いものを味わってきたが、これほどまでに魂が震えるような料理に出会ったのはいつぶりだろう。
「なんだこれ……美味すぎるっ……!」
オーランドも一口食べるなり、感動のあまり椅子からずり落ちそうになりながら、天井を仰いでうっとりと呟く。
「なっ……なんだこの底知れぬ旨味は……魚の肉とは思えんほどの贅沢さだ……!」
厳めしい表情を崩さないエルドでさえ、すっかり目を丸くして次の一口へとフォークを激しく伸ばし、その場で言葉を失いながら至福の悶絶を繰り返していた。
ミランダとスティーブも加わり、最高の料理を囲み、心からの笑い声が途切れることのない、忘れられない夜がゆっくりと更けていった。
そして、静寂ののちの翌朝。
東の空から昇ってきたばかりの朝日が、エルフの里の神聖な巨大木々を眩い黄金色に染め上げていた。
「バンさん、ありがとうございます」
旅立ちの準備を完璧に整えた俺の前に、決意に満ちたスティーブがまっすぐな瞳で立っていた。その背中には旅用の大きなリュックがしっかりと担がれ、腰の双剣が朝日に誇らしく光っている。
「スティーブ、本当に来るつもりか?」
「はい!昨日のキュリオスグラニスの調理で、僕の中で何かが激しく弾けたんです。もっと世界中の色んな食材に出会いたい、もっとたくさんの人を笑顔にできる美味い料理を作れるようになりたいんです!だから、僕もバンさんの旅に同行させてください。一流の料理人を目指して修行をしたいんです。知らない調理方法、まだ食したことの無い食材、様々なことを学びたいんです」
スティーブの純粋で熱意に満ちた表情を見て、俺は思わず小さく笑みをこぼした。
「かまわないさ。道中は当然危険も伴うが、お前のような腕利きの双剣使いが一緒ならこれ以上ないほど心強い。これからよろしく頼む」
「はいっ、任せてください!」
こうして、俺の旅にはこれ以上ないほど頼もしい仲間が一人増えることになった。
村の境界を守る神秘的な光の膜の前には、オーランド、ミランダ、エルド、そして足元でピョンピョンと名残惜しそうに飛び跳ねるアルビー様の見送り陣が並んでいた。
「気をつけてな、バン。スティーブのこともよろしく頼むぞ」
「ああ、任せてくれ。オーランド、ミランダさん、昨日は最高のごちそうをありがとう。エルド、昨日の蜂蜜酒は本当に最高だった、長老様によろしく伝えてくれ」
「また、里に来い、道中で犬死になどするなよ」
最後にそうぶっきらぼうにつぶやいたエルドは、照れくさそうに腕を組んでわざとそっぽを向いた。
「ゲコゲコ、ゲコッ!」
と、アルビー様が名残惜しそうに元気よく鳴いて高く飛び跳ねる。
エルフたちの温かい祝福と見送りを受けながら、俺はスティーブと目的地・リオンを目指し、清々しい朝露に濡れた森へと力強く踏み出した。




