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あくる日の朝、カラスは鳥かごの中で目を覚ましました。
鳥かごのそばにはアルが座っており、ぼんやりと窓の外を眺めていました。
「ごめんね、ここには食べさせてあげるものが何もないんだ」
アルは、カラスが目を覚ましたことに気がつくと、謝りました。
「ここには動物も、植物もいないから。あるのは空と雪だけなんだ」
そこでカラスは、初めて気づきました。この家もまた、少年と同じく色の無いものでできているのでした。壁も天井も全部が真っ白で、雪のようにふわふわとしています。
恐ろしいと思ったのは、最初だけでした。すぐに、それが自然なことだと受け入れられるようになりました。
……いいえ。彼女は最初から、それを受け入れていたのです。
だって今まで、それを見ても何もおかしいと思わなかったのですから。
「いいえ、心配しないでください」
だから、カラスは首を横に振りました。
それは彼女の望む、きれいな世界そのものだったのです。
「どうしてでしょうか。ここの来てから一度もおなかがすかないのです。どうしてなのか、私にもわからないけれど……」
そこでカラスは、アルが鳥籠の中を心配そうに覗き込んでいることに気づきました。
その姿は、カラスにとってひどく無防備に見えました。
「あなたは怖くないのですか?」
カラスは訊きました。
「籠の中の鳥といえば、ふつうはもっと小さくて、可愛らしいものでしょう? それが、よりにもよってカラスだなんて」
「いいえ」
アルは首を横に振りました。
「僕にとっては、立派なお姿です。この、全てが死んだ白い大地の中で、あなただけが生きている。僕はあなたの温かい羽根を見ると、そう思えてくるのです」
アルはうっとりとした声で言い、鳥籠へ手を寄せました。
「どうかその身体を、僕に抱かせて下さい」
それは、カラスにとって、とてもとてもうれしいことでした。
こんな美しい人に抱きしめられたら、どうなってしまうのだろう。そう考えただけで、よろこびは止まりませんでした。
それでも、カラスは首を振りました。
「それは、いけません」
カラスの声は、苦しそうでした。本当は、彼の体が欲しい、触れてほしくてたまらない。そんな想いを抱きながらも、決してそれを口にしてはいけない。
「私の体に触れると、あなたの体は崩れてしまいます。どうかやめてください」
それが、わかってしまったからでした。
「どうして、それがわかるのですか」
それでも、アルは諦めませんでした。いつもはただ穏やかに外を見つめているだけのアルの瞳に、今までにない、熱を持った何かが灯りました。
「最初にあなたが私に触れたとき、あなたの体は少しずつ崩れていきました。私の体は凍えて、熱も意識も、失いかけていたのに。今の私は、あなたが触れるには熱すぎるのです」
それは、カラスにとっての恐怖でした。
なぜならそれは、途方もなく耐え難い誘惑であったかからです。
「私とあなたでは、違うのです」
その誘惑を断ち切るように、カラスは言いました。
大切なものだからこそ、触れてはいけないものがある。かつて黒服の紳士が彼女に言った言葉を、いまさらになってカラスは思い出しました。
カラスの中で、忘れかけていたはずの記憶が、ほんの少しだけ色をつけて戻り始めました。
だけど、アルは。
「だからこそ、僕はあなたに触れたいのです」
アルは、熱の籠った声でいいました。それは、カラスが初めて感じた、アルの感情でした。
「あなたのぬくもりは僕にはない。それは生きている証です。いのちの証明なのです。ぼくはそれにあこがれて、ずっとずっと、探していました。それをようやく見つけたのです」
それはアルの想いでした。
例えその先に破滅が待っていたとしても。求め、愛することは止められない。それが、生きとし生けるものの魂なのだと。
それは、真っ白な少年ですら、同じなのだと。
カラスは、悟りました。
「……本当に、いいのですか?」
カラスはもう、あらがうことはできません。
だから、最後にもういちど、アルに問いました。
「自分の存在さえ投げ捨ててまで、あこがれる価値のあるものですか?」
アルは頷き、鳥籠を指先で触れます。
その瞬間、鳥籠は繊細な氷細工のようにバラバラに壊れ、跡形もなく崩れていきました。
もう、二人を遮るものは何もありません。
アルはカラスに手を伸ばし、カラスはアルに飛び込んで。
そして、二人がふれあった、その時。
全てが、壊れました。