↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
湯の花  作者: 真核生物
PR
1/13

第一章 掲示

バスは一日に三本だった。

乗ったのは十三時四十分の便で、わたしのほかに客は二人いた。二人とも、途中の集落で降りた。降りぎわに運転手と二言三言かわしていたから、顔見知りなのだろう。そこから終点まで、二十分ほど、乗っているのはわたしだけだった。


終点は宿の前ではなく、橋のたもとだった。ここから先は歩きですと運転手が言った。バス停の柱に時刻表が貼ってあり、その裏に、歩いて十五分、と手書きで足してある。ボールペンの字だった。雨に当たって、少しにじんでいた。


川に沿って上がっていくと、硫黄の匂いが先に来た。風に乗って来るのではなく、谷に溜まっているという来かたをした。じっとしている匂いだった。

道はずっと登りだったが、勾配はゆるかった。舗装は途中で切れて、そこから先は砂利になった。十五分は、正しかった。


砂利道の右側に、石の土台だけが並んでいる場所があった。

四つあった。土台の上には何もない。草が膝の高さまで伸びて、その中に錆びた蛇口が一本、立っていた。ひねってみようとは思わなかった。

土台は四つとも、同じ向きを向いていた。建っていたときは、四軒とも川に背を向けていたことになる。


宿は一軒だけあった。


*


木造の二階建てで、玄関の引き戸は横に長かった。戸を引くと、たてつけの音がした。冷えた土間の匂いがした。

土間の右手が帳場で、左手が階段だった。階段の下に、青いポリバケツが置いてある。中は空だった。


「湯治部ですか」

帳場の奥から、老人が出てきた。背が低く、腕だけが太い。手には温度計を持っていた。ガラスの棒の温度計で、先が赤い。持ったまま出てきて、持ったまま話した。


「一週間で」

「素泊まりで二千八百円です。四泊からは、一泊あたり二百円引きになります」

老人は電卓を叩かなかった。紙も見なかった。

「炊事場は一階の奥です。ガスも冷蔵庫も電子レンジも、使うのに別料金はいりません。米は持ってきてもいいし、そこで買ってもいい」

帳場の横に、木の棚が二段あった。米と、乾麺と、味噌と、缶詰が並んでいた。値札は手書きだった。缶詰の値札だけ、上から新しい紙が貼り直してあった。


宿帳に名前と住所を書いた。職業の欄があったので、空けておいた。老人は見ていなかった。

「何日いても構いませんが」

老人は言葉を切って、それから続けた。

「決めてから来る人と、決めないで来る人がいます」

どちらですか、とは聞かれなかった。


*


鍵を渡される前に、玄関の横を見るように言われた。


そこに額がかかっていた。

黒い木の枠に、ガラスが入っている。ガラスの内側に、白い紙が一枚。四隅が茶色くなっていた。枠の下辺だけ、埃が拭かれていた。


「掲示です」

老人が言った。

「読んでから上がってください。うちは、読んでもらってから上がってもらうことにしているので」


紙には印刷された文字が並んでいた。字は小さかった。わたしは少し近づいた。


  源泉名     第一源泉

  泉質      酸性・含硫黄-アルミニウム-硫酸塩泉

  泉温      源泉四十八・二度 使用位置四十一・五度

  水素イオン濃度 pH二・五

  分析年月日   平成二十八年十月十四日

  分析者     登録分析機関


その下に、成分の表があった。数字が縦に並んでいた。読んでもわからない行が多かった。ナトリウム。カリウム。マグネシウム。アルミニウム。鉄。それから、メタけい酸。メタ亜ひ酸。

メタ亜ひ酸のところで、目が止まった。止まったが、そのまま下へ進んだ。


表の下に、太い線が引いてあった。

線から下は、字の大きさが少し変わっていた。印刷の濃さも違った。ここだけ、あとから組んだのだろうと思った。


  浴用の禁忌症


  急性疾患(特に熱のある場合)、活動性の結核、悪性腫瘍、重い心臓病、

  呼吸不全、腎不全、出血性疾患、高度の貧血、その他一般に病勢進行中の疾患、

  妊娠中(とくに初期と末期)


わたしはその三行を、二度読んだ。

一度目は、上から下へ。二度目は、下から上へ。


その下にもう一段あった。


  泉質別禁忌症(浴用)

  酸性泉  硫黄泉に準ずる

  硫黄泉  皮膚、粘膜の過敏な人 特に光線過敏症の人

       (硫化水素型)高齢者の皮膚乾燥症


さらにその下。


  飲用の禁忌症

  下痢の時


そして、いちばん下の段に、こう書いてあった。


  禁忌症は、一回の温泉入浴又は飲用でも有害事象を生ずる危険性がある

  病気・病態である。なお、禁忌症にあたる場合でも、専門的知識を有する

  医師の指導のもとに温泉療養を行うことは妨げない。


一回で。

そう書いてある。二回でも、三週間でもなく、一回で。

そしてそのすぐあとに、逃げ道がついている。同じ文の中に、並べて書いてある。


*


額の隣に、もう一枚、小さい紙が画鋲で留めてあった。こちらは印刷ではなく、ワープロで打ったものだった。紙の色が新しい。


  入浴の方法及び注意

  ・温泉療養を始める場合は、最初の数日の入浴回数を一日当たり一回程度とすること

  ・その後は一日当たり二回ないし三回までとすること

  ・入浴時間は、初めは三分から十分程度、慣れてきたら十五分から二十分程度

  ・温泉療養のための必要期間は、おおむね二週間ないし三週間を適当とすること

  ・浴後は、身体に付着した温泉の成分を水で洗い流さないこと

   (ただし、湯ただれを起こしやすい方は、洗い流してください)


  飲用の方法及び注意

  ・飲用は食後としてください

  ・当館の湯はpH三未満です。真水でpH三以上になるよう薄めてから、

   一回百ミリリットルまで、一日二百から五百ミリリットルまでとしてください


「飲めるんですか」

「飲めます」

老人は、飲んでいいとは言わなかった。

温度計を持ち直して、廊下の奥へ行った。しばらくして、遠くで木の蓋を持ち上げる音がした。それから、湯を落とす音が細く続いた。


*


部屋は二階の、階段を上がって三つ目だった。六畳。畳が少し波打っていた。押入れを開けると、布団が一組と、たたんだ浴衣が一枚あった。浴衣は、袖を内側に折ってたたんであった。宿の人のたたみ方ではないと思った。


窓を開けると、さっきの石の土台が四つ、上から見えた。四つとも、同じ向きに並んでいた。

その向こうに、山の斜面が立っていた。斜面の中ほどに、横一文字の平らな段がある。木が生えていない。段の端に、コンクリートの構造物が半分だけ見えた。


荷物を置いて、下に降りた。

炊事場を見た。流しが三つ並んでいて、二つには何も置かれていない。三つ目に、鍋が一つと、菜箸が一膳、伏せてあった。鍋の底が、内側から白くなっていた。洗い落とせなかったのではなく、洗っても戻るという白さだった。


浴場の入口に、すのこが敷いてあった。

サンダルが二足、並べてある。一足は、爪先を浴場のほうへ向けてあった。もう一足は、爪先を外へ向けてあった。外へ向けたほうは、ずいぶん履き古されていて、鼻緒のところが黒くなっていた。


わたしは、まだ入らなかった。


*


玄関に戻って、もう一度、額の前に立った。

夕方の光が土間に斜めに入ってきていて、ガラスに自分の顔が薄く映った。顔の上に、字が重なった。字のほうが濃かった。


それで気がついた。

この紙には、書かれていないことがある。


上から下まで、もう一度読んだ。源泉名。泉質。泉温。水素イオン濃度。成分。禁忌症。泉質別の禁忌症。飲用の禁忌症。入浴の方法。飲用の方法。

どこにも、この湯が何にいいとは書いていなかった。

神経痛とも、関節のこわばりとも、疲労回復とも、書いていない。慢性という字が一度も出てこない。効能という言葉そのものが、一度も使われていない。


帳場に老人はいなかった。

台所のほうから、水を流す音がした。水はしばらく流れて、止まって、また流れた。


わたしは指を、ガラスの上に置いた。冷たかった。ガラス越しに、禁忌症の一行目の上あたりだった。指をずらすと、字が指の下から出てきた。


書かなければならないことだけが、書いてあった。

効くとは、どこにも書いていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。