第一章 掲示
バスは一日に三本だった。
乗ったのは十三時四十分の便で、わたしのほかに客は二人いた。二人とも、途中の集落で降りた。降りぎわに運転手と二言三言かわしていたから、顔見知りなのだろう。そこから終点まで、二十分ほど、乗っているのはわたしだけだった。
終点は宿の前ではなく、橋のたもとだった。ここから先は歩きですと運転手が言った。バス停の柱に時刻表が貼ってあり、その裏に、歩いて十五分、と手書きで足してある。ボールペンの字だった。雨に当たって、少しにじんでいた。
川に沿って上がっていくと、硫黄の匂いが先に来た。風に乗って来るのではなく、谷に溜まっているという来かたをした。じっとしている匂いだった。
道はずっと登りだったが、勾配はゆるかった。舗装は途中で切れて、そこから先は砂利になった。十五分は、正しかった。
砂利道の右側に、石の土台だけが並んでいる場所があった。
四つあった。土台の上には何もない。草が膝の高さまで伸びて、その中に錆びた蛇口が一本、立っていた。ひねってみようとは思わなかった。
土台は四つとも、同じ向きを向いていた。建っていたときは、四軒とも川に背を向けていたことになる。
宿は一軒だけあった。
*
木造の二階建てで、玄関の引き戸は横に長かった。戸を引くと、たてつけの音がした。冷えた土間の匂いがした。
土間の右手が帳場で、左手が階段だった。階段の下に、青いポリバケツが置いてある。中は空だった。
「湯治部ですか」
帳場の奥から、老人が出てきた。背が低く、腕だけが太い。手には温度計を持っていた。ガラスの棒の温度計で、先が赤い。持ったまま出てきて、持ったまま話した。
「一週間で」
「素泊まりで二千八百円です。四泊からは、一泊あたり二百円引きになります」
老人は電卓を叩かなかった。紙も見なかった。
「炊事場は一階の奥です。ガスも冷蔵庫も電子レンジも、使うのに別料金はいりません。米は持ってきてもいいし、そこで買ってもいい」
帳場の横に、木の棚が二段あった。米と、乾麺と、味噌と、缶詰が並んでいた。値札は手書きだった。缶詰の値札だけ、上から新しい紙が貼り直してあった。
宿帳に名前と住所を書いた。職業の欄があったので、空けておいた。老人は見ていなかった。
「何日いても構いませんが」
老人は言葉を切って、それから続けた。
「決めてから来る人と、決めないで来る人がいます」
どちらですか、とは聞かれなかった。
*
鍵を渡される前に、玄関の横を見るように言われた。
そこに額がかかっていた。
黒い木の枠に、ガラスが入っている。ガラスの内側に、白い紙が一枚。四隅が茶色くなっていた。枠の下辺だけ、埃が拭かれていた。
「掲示です」
老人が言った。
「読んでから上がってください。うちは、読んでもらってから上がってもらうことにしているので」
紙には印刷された文字が並んでいた。字は小さかった。わたしは少し近づいた。
源泉名 第一源泉
泉質 酸性・含硫黄-アルミニウム-硫酸塩泉
泉温 源泉四十八・二度 使用位置四十一・五度
水素イオン濃度 pH二・五
分析年月日 平成二十八年十月十四日
分析者 登録分析機関
その下に、成分の表があった。数字が縦に並んでいた。読んでもわからない行が多かった。ナトリウム。カリウム。マグネシウム。アルミニウム。鉄。それから、メタけい酸。メタ亜ひ酸。
メタ亜ひ酸のところで、目が止まった。止まったが、そのまま下へ進んだ。
表の下に、太い線が引いてあった。
線から下は、字の大きさが少し変わっていた。印刷の濃さも違った。ここだけ、あとから組んだのだろうと思った。
浴用の禁忌症
急性疾患(特に熱のある場合)、活動性の結核、悪性腫瘍、重い心臓病、
呼吸不全、腎不全、出血性疾患、高度の貧血、その他一般に病勢進行中の疾患、
妊娠中(とくに初期と末期)
わたしはその三行を、二度読んだ。
一度目は、上から下へ。二度目は、下から上へ。
その下にもう一段あった。
泉質別禁忌症(浴用)
酸性泉 硫黄泉に準ずる
硫黄泉 皮膚、粘膜の過敏な人 特に光線過敏症の人
(硫化水素型)高齢者の皮膚乾燥症
さらにその下。
飲用の禁忌症
下痢の時
そして、いちばん下の段に、こう書いてあった。
禁忌症は、一回の温泉入浴又は飲用でも有害事象を生ずる危険性がある
病気・病態である。なお、禁忌症にあたる場合でも、専門的知識を有する
医師の指導のもとに温泉療養を行うことは妨げない。
一回で。
そう書いてある。二回でも、三週間でもなく、一回で。
そしてそのすぐあとに、逃げ道がついている。同じ文の中に、並べて書いてある。
*
額の隣に、もう一枚、小さい紙が画鋲で留めてあった。こちらは印刷ではなく、ワープロで打ったものだった。紙の色が新しい。
入浴の方法及び注意
・温泉療養を始める場合は、最初の数日の入浴回数を一日当たり一回程度とすること
・その後は一日当たり二回ないし三回までとすること
・入浴時間は、初めは三分から十分程度、慣れてきたら十五分から二十分程度
・温泉療養のための必要期間は、おおむね二週間ないし三週間を適当とすること
・浴後は、身体に付着した温泉の成分を水で洗い流さないこと
(ただし、湯ただれを起こしやすい方は、洗い流してください)
飲用の方法及び注意
・飲用は食後としてください
・当館の湯はpH三未満です。真水でpH三以上になるよう薄めてから、
一回百ミリリットルまで、一日二百から五百ミリリットルまでとしてください
「飲めるんですか」
「飲めます」
老人は、飲んでいいとは言わなかった。
温度計を持ち直して、廊下の奥へ行った。しばらくして、遠くで木の蓋を持ち上げる音がした。それから、湯を落とす音が細く続いた。
*
部屋は二階の、階段を上がって三つ目だった。六畳。畳が少し波打っていた。押入れを開けると、布団が一組と、たたんだ浴衣が一枚あった。浴衣は、袖を内側に折ってたたんであった。宿の人のたたみ方ではないと思った。
窓を開けると、さっきの石の土台が四つ、上から見えた。四つとも、同じ向きに並んでいた。
その向こうに、山の斜面が立っていた。斜面の中ほどに、横一文字の平らな段がある。木が生えていない。段の端に、コンクリートの構造物が半分だけ見えた。
荷物を置いて、下に降りた。
炊事場を見た。流しが三つ並んでいて、二つには何も置かれていない。三つ目に、鍋が一つと、菜箸が一膳、伏せてあった。鍋の底が、内側から白くなっていた。洗い落とせなかったのではなく、洗っても戻るという白さだった。
浴場の入口に、すのこが敷いてあった。
サンダルが二足、並べてある。一足は、爪先を浴場のほうへ向けてあった。もう一足は、爪先を外へ向けてあった。外へ向けたほうは、ずいぶん履き古されていて、鼻緒のところが黒くなっていた。
わたしは、まだ入らなかった。
*
玄関に戻って、もう一度、額の前に立った。
夕方の光が土間に斜めに入ってきていて、ガラスに自分の顔が薄く映った。顔の上に、字が重なった。字のほうが濃かった。
それで気がついた。
この紙には、書かれていないことがある。
上から下まで、もう一度読んだ。源泉名。泉質。泉温。水素イオン濃度。成分。禁忌症。泉質別の禁忌症。飲用の禁忌症。入浴の方法。飲用の方法。
どこにも、この湯が何にいいとは書いていなかった。
神経痛とも、関節のこわばりとも、疲労回復とも、書いていない。慢性という字が一度も出てこない。効能という言葉そのものが、一度も使われていない。
帳場に老人はいなかった。
台所のほうから、水を流す音がした。水はしばらく流れて、止まって、また流れた。
わたしは指を、ガラスの上に置いた。冷たかった。ガラス越しに、禁忌症の一行目の上あたりだった。指をずらすと、字が指の下から出てきた。
書かなければならないことだけが、書いてあった。
効くとは、どこにも書いていなかった。




