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第0話・後編 君が選べる場所まで

悲鳴が、耳から離れなかった。


熱い。


外して。


痛い。


お母様。


掠れた声が、何度も耳の奥で繰り返される。


それ以上に。


悲鳴が途切れ、鎖の音まで止まった後の静けさが、どうしても消えてくれなかった。

じゃらじゃらと鳴り続けていた鎖が、少しずつ弱くなっていく。


じゃら。


じゃらり。


そして、何も聞こえなくなる。

その後に続いた、小さな声。


――もう、痛くない。


俺は木の根元へ座り込んだまま、血に濡れた手を見つめていた。


拳の皮膚は裂けている。


指は腫れ、握ろうとしてもまともに曲がらない。

前腕には木へ打ちつけた時の鈍い痛みが残り、

額の奥でも、脈を打つたびに重い痛みが響いていた。


けれど、何も変わっていない。


俺が拳を壊しても、腕を腫らしても、額から血を流しても、

あの子の痛みは少しも減らない。


俺がどれだけ痛がったところで、何の救いにもならない。

その事実に気づいた途端、身体の中に残っていた怒りまで行き場を失った。


これは、何の役にも立たない。


木を殴っても、あの女は訓練を止めない。

俺がここで血を流しても、ルビアの左手は元に戻らない。


訓練室へ戻れ。

今からでも窓を破り、あの子を連れ出せ。


頭のどこかで、まだそんな声がしている。


今夜、屋敷へ忍び込む。

眠っている間に拘束具を壊し、ルビアの手を掴んで逃げる。


遠くまで。


あの家の人間が追いつけない場所まで。


けれど、どこへ。

8歳の子供が2人で、どうやって追手から逃げる。


そもそも、ルビアは俺を知らない。


庭園で一度会っただけの、正体も分からない少年。

俺が手を伸ばせば、彼女はきっと怯える。


来ないで。


あの声が、胸の奥へ刺さった。


俺にとっては、前の世界で何より大切だった少女でも、

今の彼女にとって、俺は何者でもない。


そんな相手に突然手を掴まれ、知らない場所へ連れ出される

それを救うと呼べるのか。


あの家の人間は、彼女のためだと言って、彼女の意思を無視している。

俺も、君を救うためだと言って、君の意思を奪うのか。


それでは、何が違う。


「……違う」


掠れた声が漏れた。


連れ出すだけでは、駄目だ。


なら、あの女を殺せばいい。

あの男も。

ルビアを傷つけた人間を、全員消せばいい。


怒りに任せ、そう考えることは簡単だった。

けれど、8歳の俺に大公家の魔法使いを殺せるはずがない。


誰かへ知らせることも考えた。


街の役人。

騎士。

治療師。

王家。

どこでもいい。


大公家が8歳の娘へ何をしているのか、全部話せばいい。


だが、誰が俺を信じる。


名もない子供が、

大公家の敷地へ忍び込んで見たと言ったところで、相手にされるのか。


証拠はない。


あの家はルビアへ最高級の服を与え、食事を与え、専属の治療師までつけている。

俺が見たものさえ、訓練中の事故だったと言われれば終わるかもしれない。


何を考えても、最後には同じところへ戻った。


今の俺には、何もできない。


できない。


勝てない。


連れ出せない。


信じてもらえない。


俺は木の根元へ背中を預け、目を閉じた。


すぐに、鎖の音が聞こえた。


瞼の裏で、黒く焼けた左手が見えた。


眠れるはずがなかった。



その日から数日間、俺はフォルテア大公家の周囲を離れなかった。


町外れにある、屋根の半分が崩れた廃屋を寝床にした。


昼間は市場や宿屋で雑用を引き受けた。


荷物を運ぶ。

床を拭く。

薪を割る。

馬の水を替える。


食べ残しと、わずかな小銭がもらえれば十分だった。


夜はほとんど眠れなかった。

横になって目を閉じるたび、訓練室の声が蘇る。


痛い。


外して。


お母様。


そして、最後には必ず鎖の音が止まる。


眠りに落ちても、すぐに目を覚ました。

何度目を覚ましたのかも分からないまま朝を迎え、また大公家の周囲へ向かった。


けれど、屋敷の深部へ再び忍び込むことはしなかった。


庭園でルビアと接触したことを、屋敷の人間はまだ知らないはずだ。


だが、もう一度侵入して捕まれば、

以前生じた警備の乱れまで調べ直されるかもしれない。


そこでルビアと会っていたことが知られれば、

侵入者を見逃した責任まで彼女へ押しつけられる可能性がある。


自分の焦りで、彼女へ新しい罰を増やすわけにはいかなかった。

だから、入り込むのではなく、見える場所を増やした。


屋敷の外周を巡る警備の時刻。

使用人専用の搬入口。

厨房と治療棟を結ぶ裏通路。

荷車が長く止まる場所や、塀の外から中庭の一部を見渡せる高台。


何日も歩き、隠れ、時には同じ場所へ来るだけで半日を使った。


そうして少しずつ、大公家の内部で働く者たちの声を拾える場所を見つけていった。


どれも断片でしかなかった。


けれど、断片が増えるほど、

あの日の出来事が特別ではなかったことだけは分かった。


「昨日は、途中で意識を失ったそうよ」


厨房から訓練棟へ食事を運んでいた、

大公家付きの女性使用人たちが小声で話していた。


「では、今日はお休みでしょう?」


「午後から再開ですって」


「倒れた翌日に?」


「疲労回復薬を使えば動けるもの」


女は、何でもないことのように言った。


「それより、予定を遅らせる方が奥様はお嫌いでしょう」


俺は荷車の陰で拳を握った。


裂けた傷が開き、掌に痛みが走る。

今度は、それで怒りを誤魔化せなかった。


別の日には、治療棟から空き瓶を運び出す使用人たちの声を聞いた。


「また数が増えたな」


「訓練が本格化したんだろう」


「子供へ使う量じゃないだろ、これ」


「お前、大公家の方針へ口を出すつもりか?」


男は黙った。


空になった小瓶は、訓練棟の裏にある廃棄箱へまとめて捨てられていた。


透明な瓶。

青い瓶。

淡い金色の液体が底に残った瓶。


1日で使った数なのか。

数日分なのか。


どちらであっても、多すぎた。


また別の日。


洗濯場では、大公家付きの女性使用人たちが、

焦げ跡の残った子供服を前に話していた。


「以前より泣かなくなりましたね、ルビア様」


「ようやく大公令嬢としての自覚が出てきたのでしょう」


「奥様の教育の成果ですね」


違う。


声に出しそうになり、歯を食いしばった。


泣かなくなったんじゃない。

泣いても終わらないと、覚え始めただけだ。


どれだけ痛いと叫んでも。

どれだけ母親へ助けを求めても。


誰も止めてくれない。


それなら、泣くだけ苦しい。

泣くだけ体力を失う。

だから、声を出すことを諦め始めた。


それを教育の成果と呼ぶのか。

どうしようもない学習が、少しずつ彼女の中へ刻まれている。


それでも、俺は動けなかった。


使用人へ掴みかかっても意味はない。

今すぐ大公家へ飛び込んでも意味はない。


分かっている。


何度分かっても、怒りは消えなかった。


消えるはずがなかった。



そうして大公家の周囲へ通う生活が、1週間、2週間と続いた。


巡回の時刻や使用人の動線を覚えるにつれ、

最初には見つけられなかった場所からも、屋敷の一部を観察できるようになった。


塀の外にある古い貯水塔。


その崩れかけた上段からなら、

木々の隙間を通して、訓練棟と治療棟を結ぶ渡り廊下の一部が見えた。


内部の様子までは分からない。

誰がどんな治療を受けているのかも、訓練室で何が行われているのかも見えない。


それでも、誰が出入りしているのかだけは確認できた。


あの日、ルビアの左手を診ていた若い治療師の姿は、

いつからか見えなくなっていた。


最初は、別の区画にいるのだと思った。


けれど数日経っても、渡り廊下を通るのは見覚えのない年上の治療師だけだった。

若い治療師は、一度も現れなかった。


ある日の夕方、

治療棟の裏手を通る使用人用通路で、2人の女性使用人が話していた。


「前の治療師は、もう戻らないの?」


「領外へ移されたそうよ」


「でも、荷物がまだ治療室に残って――」


「それ以上、聞かない方がいいわ」


女は声をさらに落とした。


「あなたまで、急に領外へ移されたいの?」


もう1人は、それきり何も言わなかった。

2人は足早に通り過ぎ、治療棟の方を一度も振り返らなかった。


俺は物陰から、閉ざされた窓を見つめた。


本当に領外へ移されたのかは分からない。


ただ、自分の意思で去った人間が、

身の回りの荷物を残したまま消えるとは思えなかった。


使用人たちの話では、何かを屋敷の外へ送ろうとしていたらしい。


それが何だったのか。

誰へ届けようとしていたのか。


結局、俺には分からなかった。


誰も、それ以上は口にしなかった。

まるで口にしただけで、自分まで同じ場所へ送られると知っているように。



それからも、俺は大公家の周囲へ通い続けた。


同じ場所へ張りつくことは避け、

巡回の時刻や使用人の動線をさらに細かく覚えていった。


数週間が過ぎる頃には、

訓練棟から少し離れた物置の屋根裏へ入り込めるようになっていた。


壊れた換気板の隙間から、訓練棟へ続く石畳が見える。


内部を覗くことはできない。

けれど、これから訓練棟へ入る者の姿なら確認できた。


やがて、数人の使用人が現れた。


その中央に、ルビアがいた。

左手には、まだ厚い包帯が巻かれている。


歩き方は整っていた。

背筋も伸びている。


けれど、顔色は白く、

目元には幼い子供には似つかわしくないほど濃い疲労が残っていた。


以前のように泣いてはいなかった。

母親へ縋ってもいない。


ただ、静かに歩いている。


訓練棟の扉の前で、年嵩の治療師が小瓶を差し出した。


疲労回復薬。


ルビアはそれを受け取った。


すぐには飲まず、小さな瓶を見つめている。


右手の指が、わずかに動きを止めた。

包帯に覆われた左手が、身体の横で小さく震えていた。


治療師は何も言わない。

使用人たちも待っている。


少し離れた場所には、母親が立っていた。


急かしもしない。

命令もしない。


ただ、ルビアが何をするのかを見ていた。


ルビアは一度だけ目を伏せた。

それから、小瓶の蓋を開け、中身を飲み干した。


喉が動く。


顔をわずかにしかめたが、声は出さなかった。


空になった瓶を治療師へ返し、自分から訓練棟の扉へ向かう。


扉の横には、子供用の杖が立てかけられていた。


ルビアの足が、一瞬だけ止まった。

包帯に覆われた左手を見る。


その後、自分から右手を伸ばした。


細い指が、杖の柄へ触れる。


わずかに震えた。


それでも、手を離さなかった。

自分から杖を取った。


母親の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


「ようやく、自覚が出てきましたね」


違う。


自覚なんかじゃない。


あの子は、抵抗しても終わらないと覚えただけだ。


泣けば責められる。

拒めば、余計に長く続けられる。

疲れて動けなければ、薬を飲まされる。


それなら、命じられる前に飲んだ方がいい。

怒られる前に杖を取った方がいい。


そうすれば、少しでも早く終わるかもしれない。


そんなものを、成長と呼ぶな。

そんなものを、自分で選んだと言うな。


逃げる場所もない。

拒むことも許されない。


他に選べるものが何ひとつない中で、差し出された杖を自分から取った。


それを選択と呼ぶなら、


「選ぶという言葉に、何の意味があるんだよ……」


声にはならなかった。

喉の奥で潰れ、唇だけがその形を作った。


それでも、その言葉だけは抑えることができなかった。


左手で額を覆った。


視界が滲んでいく。

一度瞬きをしても、涙は止まらなかった。


喉の奥で、息が詰まる。


声を出すな。


見つかる。


そう思って歯を食いしばり、口元を右手で覆った。

それでも、押し殺しきれなかった呼吸が、喉の奥で何度も震えた。


声にはならない。


けれど、肩が揺れた。

胸が引きつり、身体の奥からせり上がる嗚咽を止められなかった。


ルビアは杖を持ったまま、訓練棟の中へ入っていく。

小さな背中が扉の向こうへ消える。


扉が閉じて完全に見えなくなった。


それでも俺は、しばらく動けなかった。

声を殺したまま、泣くことをやめられなかった。


どれほどそうしていたのかは分からない。


訓練棟の扉は閉じたまま。

石畳にも人影はなく、母親も、治療師も、使用人たちも姿を消していた。


それでも、俺は屋根裏から動けなかった。


あの扉の向こうで、また何が始まっているのか。


今も杖を握らされているのか。

また痛いと叫んでいるのか。

それとも、もう叫ぶことすら諦めているのか。


分からない。

何も見えない。


だからこそ、頭の中ではいくらでも最悪の光景が浮かんだ。


今すぐ降りろ。


あの扉を開けろ。


ルビアを連れ出せ。


何度もそう思った。


身体を起こしかけるたび、庭園で聞いた言葉が蘇る。


来ないで。


今の彼女は、俺を知らない。

俺の手を取る理由がない。


それでも、放っておけるはずがなかった。


あの子だった。


名前が違っても。

生まれた国が違っても。

俺を覚えていなくても。


間違えるはずがない。


魂のどこかで、最初から分かっていた。


あの子だ。


同じなのに、同じではない。

あの子であることだけは疑えない。


けれど、俺を知らない8年間まで、なかったことにしてはいけない気がした。


どうすればいいのかは、まだ分からない。

ただ、前と同じであることを求めるだけでは、きっとまた何かを間違える。


それでも、胸の奥では願ってしまう。


もう一度、思い出してほしい。


もう一度、前と同じように笑ってほしい。


もう一度、俺を信じてほしい。


そして。


もう一度、俺を選んでほしい。


その願いが浮かぶたび、息が苦しくなった。


それは誰のための願いだ。


彼女を救うためか。

それとも、前の世界で失ったものを、俺が取り戻すためか。


答えは、まだ出なかった。


前の世界の彼女を愛していた。


どうしようもないほど。


世界が終わった理由も。

最後に何が起きたのかも。

どうして彼女を失ったのかも、思い出せない。


それでも、幸せだったことだけは覚えている。


彼女が笑っていたこと。

俺の名前を呼んだこと。

隣にいてくれたこと。


その記憶があるから、ここまで来られた。


けれど、目の前にいる少女には、この世界で生きてきた8年がある。


俺の知らない傷がある。

俺の知らない恐怖がある。

俺のことを知らない時間がある。


そのすべてを、前の記憶だけで塗り潰してはいけない。


そう思った。


それ以上は、まだ分からなかった。


8歳の身体と、前の世界の記憶、

そのどちらも半端だった。


子供のように泣きたかった。

大人のように答えを出したかった。


けれど、どちらにもなりきれない。


ただ、あの扉の向こうにルビアがいる。

それだけが、何よりも重かった。



その夜、廃屋へ戻っても眠れなかった。


床へ横になって目を閉じれば、また鎖の音が聞こえる。

耳を塞いでも消えなかった。


じゃら。


じゃらじゃら。


助けを求める悲鳴のような音。


そして、その音が止まった後の静けさ。


俺は身体を起こした。


月明かりもまともに入らない廃屋だった。


崩れかけた壁。

湿った床。

風が吹くたびに軋む屋根。


その壁際に座り込み、足元に落ちていた石片を拾った。


何をすればいい。


その問いを、頭の中だけで繰り返していても答えは出なかった。


だから、書くことにした。


壁へ石片を当てる。


ざり、と音がした。


治りかけていた掌の傷が引きつり、指の関節へ鈍い痛みが走る。

それでも、手は止めなかった。


最初に刻んだのは、短い言葉だった。


近づく。


この世界の文字ではない。

前の世界で、俺たちが使っていた文字。


今の世界には存在しない形。


誰かに見られても、すぐには意味を読み取られない。

それ以上に、その文字で書かなければ、考えを整理できない気がした。


近づく。


その下へ、もう1つ刻む。


連れ出す。


しばらく見つめてから、その文字へ何度も線を重ねて消した。


違う。


いきなり連れ出しても、彼女は俺を知らない。


逃げ切れない。

俺を信じる理由もない。


次に刻む。


殺す。


それも、すぐに消した。


1人殺しても終わらない。


母親を消しても、父親が残る。

父親を消しても、大公家が残る。

教育係も、親族も、家臣もいる。


あの子を1人の子供ではなく、

フォルテアの期待に応えるための存在として扱う人間が残る限り、何も変わらない。


知らせる。


誰に。

証拠は。

信用は。


何もない。


俺は石片を握り直した。


掌の傷から、また血が滲んだ。

それでも、壁へ文字を刻んだ。


近づける立場。


同じ場所。


家が手を出しにくい場所。


見てくれる人間。


彼女が選べる時間。


最初は、短い言葉だけだった。


意味のつながらない断片。

そこへ何度も線を足し、消し、別の場所へ書き直した。


何度線を重ねても、下の文字は完全には消えなかった。


連れ出す。


殺す。


否定したはずの言葉が、傷跡のように壁へ残った。

その周囲へ、新しい言葉を刻んでいく。


近づく。


信頼。


中立。


証人。


力。


選択。


壁の一角が、前世の文字で埋まっていった。


自分でも、何を書いているのか分からなくなる。

それでも手を止めなかった。


今すぐ助ける方法はない。

なら、今の俺にできることは。


助けられる条件を、1つずつ作ることだ。


まず、彼女へ近づかなければならない。

大公令嬢と、名もない子供。


普通なら会うことすらできない。


庭園でのような偶然を待っていては駄目だ。

継続して、同じ場所にいられる立場が必要だ。


次に、俺を信じてもらわなければならない。


前の世界のことを話しても、今の彼女には意味がない。


俺がどれだけ彼女を知っていても、彼女は俺を知らない。

信頼を得る時間が必要だ。


それから、大公家が簡単には手を出せない場所。


あの家の中では、どれだけ傷つけられても教育と呼ばれる。

ルビアの傷を前に、治療を急ぐよう訴えていた人間さえ、いつの間にか姿を消した。


その理由は分からない。


それでも、大公家の内側だけで何かを変えることが難しいのは分かった。

大公家の命令だけでは、すべてを押し潰せない場所が必要だ。


そして、俺以外にも彼女の状態を見られる人間。


俺の言葉だけでは、誰も信じない。

なら、彼女の傷や異変へ気づく第三者が必要だった。


何より、ルビアが家の外を知る時間。


今の彼女には、選択肢がない。


命じられた通りに杖を取る。

薬を飲む。

訓練を続ける。


それ以外を知らない。


外には別の生き方があることを知らなければ。


休んでいいことも。

痛いと言っていいことも。

できない時に、できないと言っていいことも。

失敗しても価値が消えないことも。


彼女は、自分で選ぶことさえできない。


ふと、自分から杖を取るルビアの姿がまた浮かんだ。


選べるものがそれしかないなら。

それを選択と呼んでいいのか。


「……いいわけないだろ」


今度は、声になった。


俺が無理やり連れ出すだけでは駄目だ。


君を救うと言いながら、俺が望む場所へ連れていくなら、

君の意思を無視して自分の正しさを押しつけるなら、

あの家の人間と何が違う。


ルビアが、自分で選べるようにしなければならない。


ここにいたくないと。

逃げたいと。

別の場所で生きたいと。


そう思った時、自分の意思で進める道を作る。


俺がやるべきなのは、彼女を奪うことじゃない。

選べる道を、先に作ることだ。


そこまで考えて、手が止まった。

8歳の自分が、何を言っているのかと思う。


そんなことが本当にできるのか。


できるわけがない。


今の俺には、身分もない。

金もない。

魔力もない。

味方もいない。


壁へ刻んだ条件は、どれも遠すぎた。


それでも。


できないからといって、考えることまでやめれば、本当に何も残らない。


何もできないんじゃない。

今の俺では、できないだけだ。


なら。


今の俺を、変えるしかない。



それからも、俺は壁へ文字を刻み続けた。


1日で答えが出たわけではない。

次の日になれば、前の夜に考えた案の欠点が見つかった。


街の役人へ訴える。

大公家の領内で働く役人が、大公家へ逆らえるとは思えない。


王都の治療機関へ知らせる。

火傷や左手の異常を、領外の治療師に診せることができれば、

訓練を止められるかもしれない。


だが、どうやってルビアをそこへ連れていく。

俺の言葉だけで、王都の治療師が大公家を調べてくれるのか。


仮に診察まで辿り着けたとしても、

大公家がただの訓練事故だと言えば、それ以上踏み込めないかもしれない。


有力貴族へ頼る。

その貴族が大公家と争えるほどの力を持っていたとしても、

名もない子供の話を聞く理由がない。


そして、王家。


その言葉を刻む前に、石片を持つ手が止まった。


フォルテア家の使用人たちは、王家の名を口にする時だけ、わずかに声を落とした。

王都から届いた書状を前に、家臣が顔をしかめていたこともある。


「また王都からか」


「随分とこちらを気にしているらしい」


「好きに見せておけばいい。あちらも、簡単には踏み込めない」


拾えたのは、その程度の断片だけだった。


何を争っているのか。

王家がどこまで大公家を警戒しているのか。


俺には分からない。


ただ、少なくとも両者が完全に同じ方向を向いていないことだけは分かった。


王家なら、大公家へ干渉できるかもしれない。

けれど、ルビアを助けてくれるとは限らない。


フォルテア家が、彼女自身よりも、

その才能や家名にとっての価値を優先しているように。


王家もまた、ルビアという少女ではなく、

フォルテアの力を持つ者として彼女を見るかもしれない。


大公家から引き離せたとしても、別の場所で利用されるだけなら意味がない。


助けを求め、すべてを委ねていい相手ではない。

それでも、大公家へ対抗するために使える可能性はある。


そう考え、俺は壁へ文字を刻んだ。


王家。


その横へ、少し迷ってから続ける。


警戒。

利用。


どちらがどちらを利用するのか。

その答えは、まだなかった。


何を思いついても問題があり、壁に書いては消し、また書き直した。


昼は働き、空いた時間に大公家を見張った。


夜は廃屋へ戻り、前世の文字を刻んだ。


眠る時間は少なかった。

食事も足りていなかった。

傷も治りきっていない。


それでも、ルビアがあの家で受けているものを思えば、休む気にはなれなかった。


ただ。


自分を壊しても彼女は救えない。

そのことだけは、もう分かっていた。


だから、以前のように木を殴ることはしなかった。


怒りが消えたわけではない。

むしろ、前よりも強くなっていた。

けれど、怒りをそのまま外へ出しても意味はない。


冷やす。

形を変える。

何度でも研ぎ直す。


そうして、使える刃へ変える。


俺の怒りは、少しずつ計画になっていった。



ある日、大公家の使用人たちが話している中で、聞き慣れない名前を耳にした。


「ルビア様なら、いずれシルンでしょう?」


「当然よ。フォルテアの名を背負う方だもの」


「けれど、あと何年も先でしょう」


「だから今から仕上げるのよ。中途半端な状態で送り出せるはずがないでしょう」


シルン。


名前だけなら、聞いたことがあった。


世界中から魔法の才能が集まる学院。

どの国にも属さない中立都市にある、最高峰の魔導教育機関。


それ以上のことは、ほとんど知らなかった。


その日から、シルンについて調べ始めた。


市場の古本屋で、表紙の破れた案内書を見つけた。

何年も前に発行されたものらしく、

ページの端は黄ばみ、ところどころ文字も掠れていた。


代金には、数日分の食事へ使うはずだった小銭のほとんどが消えた。


それでも買った。


その夜、廃屋の床へ本を広げた。


崩れた屋根の隙間から、細い月明かりが差し込んでいる。

本の角度を何度も変え、光が文字へ落ちる場所を探した。


それでも読めない箇所だけ、

雑用先で捨てられるはずだった短い蝋燭へ火を灯す。


炎は弱く、隙間風が吹くたびに大きく揺れた。


蝋燭は、もう指の長さも残っていない。

最後まで燃やせば、明日の夜は使えなくなる。


だから数行読むたびに火を消し、月が雲から出るのを待った。


暗くなれば覚えた箇所を頭の中で繰り返し、月が雲から出れば、

また文字へ顔を近づけた。眠気で瞼が落ちても、頬を叩いて続きを読んだ。


シルン魔導学院。


王国、帝国、聖邦、そのどの国にも直接は属さない中立都市に建つ学院。


世界各地から学生を受け入れ、

家柄や出身国の異なる者たちが、同じ学院の規則の下で学ぶ。


在学中の学生は寮で生活し、授業だけでなく、日々の暮らしの多くを家の外で送る。


王族や大貴族であっても、

学院の内側へ自国の決まりをそのまま持ち込むことはできない。


どこまで本当なのかは分からない。

案内書には、学院をよく見せるための言葉も混じっているはずだ。


それでも。


大公家の屋敷ではない場所で、

大公令嬢ではなく、1人の学生として暮らせる時間がある。


その事実だけで、十分だった。


本を読み進めるたび、壁へ刻んだ条件が少しずつ形を持っていった。


近づける立場。

同じ場所。


大公家の命令だけでは、すべてを決められない場所。

彼女が家の外を知るための時間。


その条件が、初めて1つの名前へ重なった。


俺は壁へ、新しい言葉を刻んだ。


シルン魔導学院。


前世の文字で刻まれたその名前を、長い間見つめた。


そこなら。


初めて、そう思った。


そこなら、彼女を家の外へ出せる。


フォルテアの名に応えるためだけでもなく。

誰かが決めた理想の令嬢としてでもなく。


同じ学院に通う、1人の学生として、

自分のために学び、自分の意思で日々を選べる時間を持てるかもしれない。


まだ救えるわけではない。


学院へ入れば、すべて解決するわけでもない。


大公家が彼女を諦めるはずもない。

ルビア自身が、あの家の価値観を疑える保証もない。


それでも。


初めて、勝ち筋が見えた。


薄く。

細く。


今にも消えそうな道だった。

けれど、何もなかった昨日までとは違う。


「シルン……」


声に出してみる。


俺は魔力を持っていない。

魔法を使えない。

そんな人間が、世界最高峰の魔導学院へ入れるはずがない。


普通なら。


そこまで考え、壁へもう1つ刻んだ。


入る方法。


通常の試験では無理だ。

なら、別の入口を探す。


推薦。

特例。

実績。


学院側が無視できない何か。


王家。


そこで手が止まった。


大公家を警戒している王家なら、

シルンへ入るための取引相手になり得るかもしれない。


利用される。


最初に浮かんだのは、その危険だった。


王家にとっても、俺はただの子供だ。

価値を示さなければ会うことすらできない。

価値を示せば、今度は道具にされるかもしれない。


けれど。


道具として使われることと、

自分の目的のために、相手の思惑を利用することは同じではない。


王家へ忠誠を誓うつもりはない。

誰かの命令でルビアへ近づくつもりもない。


必要なのは、学院へ入る資格。

それだけだ。


危険な道だった。


一歩間違えれば、大公家にも王家にも消される。

それでも、何も持たない俺がシルンへ入るには、危険なカードを使うしかない。


壁へ刻む。


王家。


その横へ、大きく線を引いた。


利用する。


どちらがどちらを。


その答えは、まだ出なかった。



シルンを知ってからも、俺はすぐにはフォルテア領を離れなかった。


離れたくなかった。


目を離した間に、また傷つけられるかもしれない。

俺が知らないところで、今度こそ取り返しのつかないことが起きるかもしれない。


そう思うと、足が動かなかった。


けれど。


ここに残って何ができる。


塀の外から見張る。

使用人の会話を拾う。

ルビアが訓練棟へ入る姿を見る。


それだけだ。


今こうしている間にも、彼女は傷ついている。

そのことを知りながら、俺は隠れて見ているだけだった。


そばにいることと、助けられることは違う。

離れないことと、守ることも違う。


ここへ残り続けるのは、ルビアのためなのか。

それとも、彼女から離れることに耐えられない俺自身のためなのか。


答えは、たぶん両方だった。


だからこそ、選ばなければならない。


今の感情ではなく、いつか本当に救える方を。


廃屋の壁には、前世の文字がびっしりと刻まれていた。


近づく。


信頼。


中立。


証人。


力。


選択。


シルン。


王家。


何度も消し、書き直した跡。

消し切れず、傷のように残った言葉。


迷った時間。

諦めかけた夜。


全部がそこに残っている。


また俺を思い出してほしい。


前と同じように笑ってほしい。


もう一度、俺を選んでほしい。


その願いは消えなかった。

消せるはずもない。


けれど、それを今の彼女へ押しつけてはいけない気がした。

前の世界で何があったとしても、今のルビアが俺を選ぶとは限らない。


今の俺には、まだその気持ちを綺麗な言葉へまとめることはできなかった。

ただ、俺が望む場所へ無理やり連れていくことが、救いではないことだけは分かる。


彼女が逃げたいと思った時に。

ここではない場所で生きたいと思った時に。


自分の足で進める道を、先に作っておく。


その時。


彼女が俺の手を選んでくれたなら。

今度こそ、絶対に離さない。


絶対に。


その先のことは、まだ分からない。

分からないままでいい。


まずは、彼女が選べるところまで辿り着かなければならない。


俺は壁へ、最後の一文を刻んだ。


「君が選べる場所を作る」。


石片の先が欠けた。


指先に力を込め、最後まで線を引いた。



フォルテア領へ来てから、1か月近くが経っていた。

新聞であの子を見つけてからなら、1年以上。


何度も国境を越えた。

雑用係として隊商へ紛れ込んだ。

歩けなくなるまで歩いた。

空腹で眠れない夜もあった。

殴られたことも。

置き去りにされかけたこともあった。


それでも進めた。


違う世界でも、もう一度あの子に会える。

そのことだけを考えれば、何度でも立ち上がれた。


ようやく辿り着いた。

ようやく会えた。

けれど、手を伸ばすことすらできなかった。


今の俺では、何も変えられない。

だから、ここを離れる。


逃げるためではない。

戻ってくるために。


今度は、隠れて見るだけでは終わらせない。


同じ場所に立つ。


彼女へ近づける立場を得る。


あの家が簡単には手を出せない場所へ行く。


俺を信じてもらうための時間を作る。


彼女が自分で選べるようになるまで、守れる力を手に入れる。


廃屋を出る前に、一度だけ壁を見た。


前世の文字で埋まった、誰にも読めない計画。


持ち出すことはできない。

けれど、そこに刻んだ言葉は、もう全部覚えていた。


持ってきた荷物も、最初からほとんどない。


何度も開いた新聞だけを、服の内側へしまった。


紙は傷み、折り目も増えていた。

それでも、少女の写真だけは破れないように守ってきた。


新聞には、前の世界から追い続けてきた少女の面影がある。


壁には、この世界を生きるルビアへ辿り着くための道がある。


どちらも捨てられなかった。


最後に、フォルテア大公家の方角を見る。


ここから屋敷は見えない。

高い塀も訓練棟も。


そして、ルビアの姿も。


何も見えなかった。


それでも、あの場所にいる。


今も。


たぶん、今日も杖を握っている。


今すぐ戻りたい。

目を離したくない。

そう思う気持ちは、消えなかった。


「待っていろ」とは言わない。


君は、俺が来ることを知らない。


俺を待つ理由もない。

俺を信じる理由もない。


それでも。


次は、俺が先に行く。


君が壊されるより前に。

君が、自分を諦めるより前に。


必ず、君の隣へ辿り着く。


その時に、


君が俺を知らなくても。

前の世界のことを思い出さなくても。


今、この世界を生きている君が、自分の意思で、これからを選べるように。


俺は歩き出した。


振り返らなかった。


振り返れば、きっと戻ってしまう。


今の俺にできることは、そばにいることではない。

戻ってこられる人間になることだ。


シルン魔導学院。


そこへ辿り着くための道は、まだ何も見えていない。


魔力のない俺が入る方法も、

王家へ近づく方法も、

必要な力を手に入れる方法も、


何1つとして分からなかった。


それでも、行くべき場所だけは決まった。

あとは、そこへ至る方法を探す。


何年かかっても。

どれだけ遠回りしても。


必ず。


9年後。


俺は、あの日壁へ刻んだ名前の場所で。


もう一度、彼女と出会う。



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