第34話 限界を超えるもの
放課後。
俺は、ザルティ教官から渡された光紙に従い、薬学・医療研究棟へ向かっていた。
学院の東側に建つその棟は、普段使っている講義棟とは少し雰囲気が違う。
白石の壁や青白い魔導灯は他の建物と変わらないが、廊下へ入った瞬間、
乾燥させた薬草と刺激の強い薬液の匂いが鼻へ届いた。
壁際には透明な容器がいくつも並び、
その中では見たこともない植物の根や葉が保存液に浸されている。
薄く発光する茸。
脈打つように動く蔓。
瓶の内側へ張りつき、こちらを向いているように見える黒い種子。
あまり長く眺めていたい場所ではなかった。
受付で名を告げると、すぐに奥の個室へ案内された。
部屋の中央には机と椅子があり、向かい側に白衣を着た男が座っている。
年齢は40代ほど。細い眼鏡をかけ、手元の資料へ目を落としていた。
「ユアンで間違いないな」
「はい」
「大演習迷宮実習、最終順位5位。報酬はアトラス根」
男は資料をめくりながら、淡々と確認する。
「アトラス根は、筋肉、骨、腱の成長限界を生涯で一度だけ引き上げる。服用した直後に強くなる薬ではない。今までの限界が先へ移るだけだ」
「はい」
「魔力回路やクラスにも影響しない。服用後に鍛錬しなければ、何も変わらない」
魔力を持たない俺にとって、それは問題にならない。
欲しいのは、魔力量でもクラスでもなかった。
俺自身の身体が、今より先へ進めること。
剣を振る速度。
踏み込む力。
攻撃を逸らした時に耐えられる骨と腱。
次に同じものが来た時、前より長く立っていられる身体。
それが手に入る可能性があるなら、十分だった。
「ただし」
男の声が少し低くなる。
「君は魔力回路を持っていないらしいな」
「はい」
「アトラス根そのものは、魔力回路へ作用する薬ではない。理論上、服用に問題はないが、君のような体質の人間へ使用した記録はほとんど残っていない。効果が弱まる可能性もあれば、通常とは異なる反応が出る可能性も否定できない」
「危険ですか」
「生命へ関わるほどの危険は低いと判断されている。学院内で服用し、経過を観察するなら許可できる」
男は資料を閉じ、俺を見た。
「それでも、今日使うか?」
迷う理由はなかった。
「使います」
即答すると、男の眉がわずかに動いた。
「保存しておく選択肢もある。身体の成長や鍛錬計画を考え、使用時期を選ぶ者も多い」
「少しでも早く使いたいです」
限界へ到達してから使うより、最初からその先を目指した方がいい。
俺には、成長を待つ余裕がなかった。
男はしばらく俺を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「分かった。本人が理解した上で選ぶなら、こちらから止める理由はない」
◇
いくつかの検査と同意を済ませた後、アトラス根は服用可能な霊薬へ加工された。
出されたのは、掌に収まるほどの小さな器だった。
中には濃い茶色の液体が入り、
粘り気のある表面には、薄い金色の筋が浮かんでいる。
正直、飲みたいと思える見た目ではない。
匂いは土と薬草を混ぜたような感じだった。
「一度で飲め」
薬師が言う。
「残しても保存はできない。舌に残るが、吐くなよ」
「そんなに不味いんですか」
「飲めば分かる」
嫌な言い方だった。
俺は器を持ち上げる。
これを飲んでも、すぐに強くなるわけではない。
魔力が得られるわけでも、今の自分が別人のように変わるわけでもない。
ただ、今まで存在していた限界が少し先へ動く。
そこへ届くためには、これまで以上に鍛えなければならない。
むしろ、やることは増える。
それでいい。
俺は器の中身を一息で飲み干した。
苦い。
苦いという言葉だけでは足りなかった。
舌の上へ泥と鉄粉を押しつけられたような味が広がり、
鼻の奥には焦げた木のような匂いが抜けていく。
反射的に吐き出しそうになる。
鋼の意思でどうにか飲み込むと、喉を通った霊薬が重い熱となって腹の奥へ落ちた。
「……まずいなんてものじゃない」
「吐かなかっただけ優秀だ」
薬師は興味なさそうに言った。
俺は口元を押さえたまま、身体の変化を待つ。
最初の数秒は、何も起きなかった。
やがて、腹の奥へ沈んだ熱がゆっくりと全身へ広がっていく。
筋肉や骨、腱。皮膚の下ではなく、
もっと深い場所へ熱が染み込んでいく感覚だった。
痛みではない。
だが、身体の内側を押し広げられているような鈍い圧迫感がある。
肩。
背骨。
脚。
指先。
全身の骨が一度だけ、低く軋んだような気がした。
思わず手を握る。
力は変わらない。
腕が軽くなったわけでも、視界や呼吸に変化が起きたわけでもなかった。
「……これで終わりですか」
「派手な変化を期待していたのか」
「少しだけ」
「残念だったな。正常な反応だ」
薬師が資料へ何かを書き込む。
「アトラス根は力を与える薬ではない。身体がこれ以上は成長できないと判断する位置を、先へずらすだけだ」
俺は自分の右手を見る。
何も変わっていない。
昨日と同じ手。
剣を握れば、同じ力しか出せない。
ダルタスの土魔法を今すぐ斬れるわけでも、
鎧砕鬼を次は一撃で倒せるわけでもない。
それでも。
今まで閉じていた道が、少しだけ先へ伸びた。
今日の俺は、昨日より強くなったわけではない。
強くなれる限界が、先へ動いただけだ。
なら。
あとは、そこまで登ればいい。
自分の足で。
自分の身体で。
何度でも剣を振って。
次に必要な時、昨日より速く動けるように。
「経過確認が終わるまで、ここにいろ」
薬師が言う。
「今日は激しい鍛錬をするな。霊薬の定着中に無理をすれば、筋肉や腱を傷める」
「今日は、ですか」
「最低でも今日いっぱいだ」
「分かりました」
「本当に分かった顔には見えないな」
「明日からなら問題ないんですよね」
薬師は深くため息をついた。
「明日、検査を受けて問題がなければだ」
「なら、明日から始めます」
止まっている時間はない。
広がった限界を、ただ広がったままにしておくつもりもなかった。
◇
同じ頃。
学院希少素材庫では、ルビア・フォルテアが複数の素材を前にして立っていた。
希少素材庫は、触媒庫よりも静かだった。
棚へ並ぶ素材の多くが、複数の封印容器へ収められている。
透明な結晶。
魔獣の角。
古代樹の枝。
炎を閉じ込めたような石。
水の中でしか形を保てない金属。
どれも、金で買えるものではない。
災厄種の討伐や古代遺跡の発掘、各国からの寄贈。
長い年月をかけて学院へ集められた、非売品の素材だった。
ルビアの前には、いくつもの候補が提示されていた。
火属性の出力を安定させる鉱石。
炎の形状維持を助ける魔獣素材。
術式構築の速度を補助する触媒核。
その中で、彼女の視線が止まったのは2つだった。
1つは、淡い水色の結晶。
冷脈晶。
透き通った内部には、白い霧のようなものがゆっくりと巡っている。
熱を吸い上げ、魔力回路の周辺へ滞留した余熱を外へ逃がす性質を持つ素材。
火属性の魔法使いが長時間戦う際や、高出力術式を連続して使用する時に使われる。
もう1つは、深い赤色の核だった。
緋天核。
掌ほどの大きさで、表面には細い亀裂が走り、
その内側では圧縮された炎が心臓のように明滅している。
一定以上の魔力が流れ込んだ時だけ作動し、
炎の収束率と密度、瞬間出力を引き上げる素材。
ただし、魔力消費と使用者の身体へかかる負荷も増大する。
素材庫の管理官は、ルビアの横で資料を確認していた。
白髪の混じった、おっとりとした雰囲気の女性だった。
学院所属の素材管理官であり、触媒加工にも詳しいらしい。
「ルビアさん。実習記録も確認しました」
ルビアは返事をしない。
赤い瞳は、2つの素材へ向けられたままだった。
管理官は冷脈晶を示す。
「あなたには、こちらを勧めます」
「理由を聞いても?」
「実習後半、術式構築にわずかな遅れが見られました」
ルビアの視線が、ほんの少しだけ鋭くなった。
「わずかでしょう」
「ええ。通常の生徒なら、問題として扱うほどではありません」
管理官は否定しなかった。
「ですが、あなたは初動がとても速い方です。そのため、わずかな遅れでも通常以上に目立ちます」
ルビアは何も言わない。
「原因を断定することはできません。疲労、魔力消費、触媒との不一致、精神的な負荷。考えられるものはいくつもあります」
管理官は冷脈晶の封印容器へ指を触れた。
内部の白い霧が、ゆっくりと流れを変える。
「ただ、記録を見る限り、出力そのものは十分すぎるほどです」
十分。
その言葉に、ルビアの指がわずかに動いた。
それは、これ以上を求めなくてもいい者へ向ける言葉に聞こえた。
「冷脈晶を長杖へ組み込めば、炎を使用した後の熱を逃がしやすくなります。効果が合えば、術式の安定性も継戦能力も上がるでしょう」
「火力は上がりますか?」
「ほとんど変わりません」
管理官は正直に答えた。
「ですが、今より長く、安定して戦えるようになります」
それは、正しい選択なのだろう。
少なくとも、管理官の立場から見れば。
ルビア自身にも、冷脈晶の価値は理解できた。
炎を放った後、指先に残る熱。
胸の奥へ沈む息苦しさ。
頭の中へまとわりつき、次の術式を遅らせる重さ。
演習中にミリアスはそれに気づいた。
さっきより、少し遅い?
軽い口調だった。
責める意図も、嘲る意図もなかった。ただ、気づいた事実をそのまま口にしただけ。
だからこそ、耳から離れなかった。
追いつかれた。
自分より後ろにいたはずの少女が、クラス3へ上がり、
自分の魔法を受け止め、遅れにまで気づいた。
そして、最終順位は2位。
1位ではなかった。
冷脈晶を選べば、長く戦える。
今より安定して炎を使え、次の術式が遅れる危険も減るかもしれない。
けれど。
それは、自分に足りないものが耐久力だと認める選択だった。
炎へ身体が追いついていないと。
自分には弱点があると。
それを認め、補うための素材。
ルビアの視線が、冷脈晶から離れる。
その先にある、緋天核へ移った。
封印容器の内側で、赤い光が明滅している。
小さな核。
だが、そこへ閉じ込められた炎は、今にも容器を内側から焼き破りそうなほど濃い。
「そちらは勧めません」
管理官が言った。
ルビアは緋天核を見たまま尋ねる。
「なぜ?」
「あなたの炎は、現時点でも出力が高すぎます」
「高すぎる、……ですか?」
「現在のクラスで扱うには、という意味です」
管理官は慎重に言葉を選んだ。
「緋天核は、一定以上の魔力を流した時にだけ作動します。その際、炎の収束率と密度、瞬間出力は確実に上がりますが、消費する魔力も、身体へ残る負荷も増えるでしょう」
「制御できれば問題ないでしょう」
「高い出力を維持できることと、その負荷が後に残らないことは、必ずしも同じではありません」
「なら、何が問題なのですか?」
「今の記録だけで、原因まで断定することはできません。ただ、これ以上の出力を加えることが、あなたにとって最適とは限らないということです」
素材庫の空気が、わずかに冷えたように感じられた。
ルビアの表情は変わらない。
けれど、右手の指がゆっくりと握られた。
身体が耐えられない。
足りていない。
追いついていない。
同じ意味の言葉が、違う形で何度も向けられる。
大公家では、弱さを見せることは許されなかった。
痛みを訴えることも。
苦しいと口にすることも。
炎を使えないと言うことも。
フォルテアの娘として育てられたのなら。
家の期待を背負う者であるなら。
誰より強くなければならない。
足りないものがあるのなら、補うのではない。
押し潰す。
さらに大きな力で。
遅れが生まれるのなら、遅れが生まれる前にすべてを焼けばいい。
長く戦う必要がないほど。
最初の一撃で、誰にも追いつかせなければいい。
「冷脈晶を選べば、今より安定します」
管理官が、もう一度告げる。
「記録を見る限り、こちらの方が長期的には――」
「必要ありません」
ルビアは遮った。
声は静かだった。
迷いもなかった。
「私は、長く戦うためにここへ来たわけではないので」
「では」
ルビアの白い指が、緋天核の封印容器へ伸びる。
赤い光が、指先を照らした。
「これにします」
管理官の表情がわずかに曇る。
「本当に、緋天核でよろしいのですか」
「ええ」
「緋天核を選んだ場合、現在お使いの長杖へ交換式の副核として組み込みます。一定以上の魔力を流した時だけ作動するよう調整しますが、取り外しや再調整には学院の設備が必要です」
「構いません」
「冷脈晶の方が、あなたの現在の状態には適している可能性があります」
ルビアの赤い瞳が、静かに管理官へ向いた。
「それだけの記録で、私に何が必要か決めるのですか?」
管理官は黙った。
ルビアは再び緋天核へ視線を戻す。
「必要なのは、負担を減らすことではありません」
赤い瞳へ、核の炎が映り込む。
「誰にも届かせない力です」
白い指が、封印容器へ触れた。
緋天核の内側で、圧縮された炎が強く脈打つ。
冷脈晶は、隣の容器で静かに白い霧を巡らせていた。
ルビアは、そちらを見なかった。
自分を補うものではなく、自分をより強くするものを選んだ。
身体を守る青ではなく、より強くなるための赤を。
その選択は、ひどくルビアらしかった。




