表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死の運命の弾き方  作者: タカツキビヨン


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

35/42

第0話・前半 あの子は、俺を知らない

7歳の時、俺は新聞の中で、死んだはずの少女を見つけた。


それは市場の裏手に捨てられていた、何日も前の新聞だった。


荷物を包むために使われたのか、端は破れ、泥と油で汚れている。

拾い上げたのも、記事を読むためではない。

夜の冷え込みを防ぐため、寝床へ敷けそうだと思っただけだった。


その頃の俺は、親の顔も知らない、貧民街の子供だった。


物心がついた頃には1人で、毎日を生き延びること以外、考えたこともない。


市場が閉まった後の清掃をし、荷車を押し、宿屋で水を汲んだ。

働けた日は余ったパンがもらえた。

仕事がなければ何も食べず、建物の隙間で朝を待った。


盗みはしなかった。

善人だったからではない。


一度でも盗人だと知られれば、二度と仕事を回してもらえなくなる。

捕まれば、子供だからと手加減されるような場所でもなかった。


今日だけ腹を満たすより、明日も働ける方がいい。

俺は、ただそれだけを知っていた。


だから、その日も新聞を持ち帰ろうとした。


何気なく開いた紙面に、1人の少女が載っていた。


銀色の髪。

赤い瞳。

整いすぎているほど美しい顔。


フォルテア大公家に生まれた、稀代の天才令嬢。

幼くして異常な炎の才能を示し、いずれ王国を支える魔法使いになるだろう。


記事には、そんなことが書かれていた。

けれど、俺は最初の一文すら読み終えられなかった。


少女の顔を見た瞬間、頭の奥で何かが砕けた。


知らないはずの景色が、濁流のように押し寄せてくる。


凍った海。


眩しい光に満ちた舞踏会。


静かな図書館で俺の顔を見た途端、初めて堪えていた涙を零した彼女。


黒い嵐の中で、それでも俺の隣に立とうとした姿。


俺を睨む赤い瞳。


不器用に緩む口元。


自分のことは信じられなくても、

俺のことなら信じられるかもしれないと、震える声で告げた彼女。


こんなに幸せだったことはないと、眩しい笑顔を見せてくれた。


明日は今日より幸せになれるはずだと信じ、何度傷ついても前を向き続けた。


俺を1人にしないために、とてつもない努力を重ね、最後まで隣にいてくれた。


そして。


幸せだったはずの世界が、どうしてか終わってしまったこと。


何が起きたのかは分からない。


最後の瞬間も、思い出せない。


なぜ彼女を失ったのかも。


なぜ自分だけが、別の世界で目を覚ましたのかも。


それでも、彼女と過ごした時間だけは残っていた。


名前は違う。

生まれた国も違う。

年齢も違う。


新聞に記されている少女の人生は、俺が知るものとは何一つ重ならない。


それでも。


間違えるはずがなかった。


「あの子だ」


声にした瞬間、喉が震えた。


見た目が似ていたからではない。

同じ銀髪だったからでも、同じ赤い瞳だったからでもない。


確かに顔は、記憶の中の彼女と同じだった。


幼い分だけ輪郭は柔らかい。

それでも、成長すれば記憶にある姿になると、疑う余地もなく分かった。


だが、それすら根拠ではなかった。


もっと深いところで。


理屈より先に、魂が理解していた。


あの子だ。


世界が終わっても。

名前も人生も変わっても。


彼女は、もう一度この世界に生まれていた。


生きている。


その事実を理解した途端、息ができなくなった。

新聞を抱えたまま、俺はその場に座り込んだ。


笑ったのか。


泣いたのか。


自分でも分からない。


ただ、何度も紙面の少女へ触れた。

汚れた指で写真を傷つけないように、恐る恐る。


見つけた。


もう一度、見つけられた。


その喜びの奥で、別の記憶がひどく冷たく疼いた。


世界は、なぜ終わった。

俺は、なぜ彼女を失った。

今度もまた、同じ結末になるのか。


答えはなかった。


だから、会いに行くことにした。



新聞に記されていたフォルテア領は、俺が暮らしていた小国から遥か遠くにあった。

大陸共通語が通じることだけが救いだった。


だが、言葉が通じても、7歳の子供が国境を越えられるわけではない。

金もない。地図もない。身分を証明するものもない。


新聞を見つけた翌日に出発できるほど、世界は優しくなかった。


俺は市場へ通い、交易商隊の荷札を読み、商人たちの会話を盗み聞いた。


街道の名を覚えた。

国境の位置を覚えた。

フォルテア領へ向かう商隊が、どの都市を経由するのか調べた。


何度も同行を頼み、何度も追い払われた。


ようやく雑用係としてついていくことを許された後も、扱いが良かったわけではない。


食事は大人たちの残り物だった。


荷車へ乗せてもらえることはほとんどなく、大人の歩幅を追って街道を歩いた。

遅れれば置いていくと言われ、雨の日も、足の裏から血が出た日も止まれなかった。


前の世界で、もっと苦しい道を歩いたことはある。

死と隣り合わせの戦場も知っている。


それでも、経験があることと、8歳にも満たない身体が耐えられることは別だった。


足は痛んだ。


空腹で眠れない夜もあった。


寒さに身体を丸めながら、どうして自分だけがこんな場所にいるのかと、何度も思った。


そんな夜は、服の内側から新聞を取り出した。


汚れた紙面に残る、幼い少女の顔を見る。


もう一度、会える。


今度こそ、彼女のところへ辿り着ける。

そう考えるだけで、止まりかけていた足へ、また力が戻った。


目的地まで連れていってくれる商隊などなかった。


途中の街で降ろされれば、そこでまた働いた。

厩舎を掃除し、水を運び、食器を洗い、次の街へ向かうための金を貯めた。


そうして、いくつもの商隊を乗り継いだ。


一部の道は、1人で歩いた。


盗賊を避け、野宿できる場所を探し、

熱を出した時は納屋の陰で動けるようになるまで待った。


苦しくなかったわけではない。

何度も限界だと思った。


それでも、彼女もどこかで生きている。

その事実だけは、どんな痛みよりも強かった。


動けるようになれば、また歩いた。


何度も、新聞を開いた。

紙は少しずつ傷み、折り目も増えていった。


それでも、少女の写真だけは破れないように守った。


会えば分かる。

そう信じていた。


俺の記憶が戻ったのなら、彼女にも戻っているかもしれない。

顔を見れば思い出すかもしれない。

声を聞けば、何かが繋がるかもしれない。


俺が失った最後の記憶を、彼女なら持っているかもしれない。


その希望だけで、1年を歩いた。


8歳になった頃。


俺はようやく、フォルテア領へ辿り着いた。

大公家の本邸は、貧民街で育った俺には、1つの街のように見えた。


高い外壁。

巨大な門。

遠くからでも分かるいくつもの尖塔。


敷地を囲むように張り巡らされた魔力感知結界は、

夜になると淡い赤色の光を帯びていた。


簡単に入れる場所ではない。


魔力を持たない俺は、一部の感知術式へ反応しなかった。

だが、それだけだった。


透明になれるわけではない。

見張りの目は誤魔化せない。


鍵のかかった扉も、訓練された番犬も、巡回する護衛も、

俺を普通の侵入者として見つける。


魔力がないことは、警備に小さな穴を作る。

その穴を通れるかどうかは、別の話だった。


俺は数日間、屋敷の周囲に張りついた。


昼間は近隣の市場で雑用をし、食べ物を手に入れた。

夜になると外壁の近くへ戻り、使用人の出入りを観察した。


正門は使えない。


裏門も常に人がいる。


物資を運び込む時間。


厨房から灰を運び出す時間。


庭師が使う小さな通用口。


護衛が交代するわずかな間。


毎日同じように見えて、完全に同じ日はなかった。


一度目は、外壁を越える前に番犬の気配へ気づいて退いた。


二度目は、使用人用の通路まで入ったところで巡回が予定より早く戻り、

物資箱の陰で息を殺した。


見つかれば終わる。


捕まるだけならまだいいが、

大公家の敷地へ侵入した子供が、無事に外へ出られる保証などなかった。


それでも、退くつもりはなかった。


屋敷のどこかに、彼女がいる。

新聞の中で笑っていた少女が。


かつて俺が、何よりも大切にしたあの子が。


数日目の夕方。


厨房へ食材を運び込む荷車の影へ潜り込み、ようやく敷地の内側へ入った。

魔力感知の薄い場所は、すでに調べていた。


庭師が使う道を避け、植え込みの陰を選ぶ。

大人の足音が近づけば、地面へ伏せた。

話し声が消えるまで、呼吸さえ止めた。


8歳の身体は小さい。

その小ささだけが、今は役に立った。


屋敷の本館へ近づくつもりはなかった。

警備が厚すぎる。


まずは庭園と、離れにある建物を確認する。


彼女の姿を一度でも見つけられればいい。


遠くからでも構わない。

無事だと分かれば。


本当にこの世界にいるのだと、この目で確かめられれば。


そう思っていた。


庭園は、外から想像した以上に広かった。


手入れされた木々。


色とりどりの花。


水の流れる音。


貧民街とは、まるで別の世界だった。


新聞に書かれていた通りなら、彼女はここで何不自由なく暮らしているはずだった。


大公家の令嬢。

最高の教育。

最高の衣服。

最高の食事。


世界中から期待される才能。


少なくとも、外から見れば。


植え込みの向こうで、微かに音がした。


人の声ではない。


息を呑み、押し殺そうとして漏れたような、小さな嗚咽だった。


俺は足を止めた。


護衛か。

使用人か。

それとも。


音を立てないように枝を避け、ゆっくりと植え込みの奥へ進む。


庭園の外れ。


本館からは見えにくい、低い石壁の陰。


そこに、1人の少女がいた。


長い袖で顔を隠し、声を殺して泣いていた。

銀色の髪が、夕方の光を受けて揺れている。


俺は、その場から動けなくなった。


顔はほとんど見えない。

それでも、間違えるはずがなかった。


あの髪も。


細い肩も。


袖口からわずかに覗く、白い指も。


新聞に載っていた写真より、ずっと近い。

手を伸ばせば届きそうな場所に、1年間探し続けた少女がいる。


胸の奥から、息と一緒に何かが込み上げた。


会えた。


本当に、生きていた。


何度も頭の中で思い描いた。

彼女を見つけたら、最初に何を言うのか。


俺の記憶が戻ったこと。

世界が終わった後も、彼女を忘れなかったこと。

もう一度会うために、ここまで来たこと。


言わなければならないことは、いくらでもあった。


けれど、実際にその姿を前にすると、用意していた言葉は何ひとつ出てこなかった。


しかし、喜びより先に違和感があった。

季節は、厚い衣服が必要なほど寒くない。


それなのに少女は、

手首まで隠れる長袖と、身体の線を覆うような丈の長い服を着ていた。

上等な布地だったが、袖口には薄く焦げた跡があり、裾の一部も擦れている。


左手には、白い包帯が巻かれていた。


新聞の中では、完璧に微笑んでいた。

大公家の令嬢として、何不自由なく育てられているように見えた。


なのに、目の前の少女は、

人目のない庭園の外れに隠れ、声さえ漏らさないように泣いている。


どうして。

何があった。


疑問が頭を埋める。


それでも、まず確かめたかった。


彼女も、覚えているのか。

俺と同じように、あの世界の記憶を持っているのか。


「ルビア」


名前を呼ぶと、少女の肩が小さく跳ねた。


濡れた赤い瞳が、ゆっくりとこちらを向く。


顔を見た瞬間、最後に残っていた疑いまで消えた。


間違いない。


幼い分だけ頬の輪郭は柔らかい。

けれど、目元も、唇も、驚いた時にわずかに眉を上げる癖も、

記憶の中にある彼女と同じだった。


成長すれば、俺が知るあの顔になる。


ではない。


同じ顔なのだ。


時間だけを巻き戻したように、彼女がそこにいる。


泣いていても。

怯えていても。

俺を知らない目をしていても。


あの子だ。


「……俺だ」


声が、思ったように出なかった。


少女は包帯を巻いた左手を胸元へ寄せ、わずかに身を引いた。


「誰……?」


胸の奥で、何かが落ちた。


その瞳には、何もなかった。


懐かしさも。

喜びも。

ようやく俺を見つけたという安堵もない。


あるのは、知らない相手へ向ける警戒と、何かに怯えたような固さだけだった。


「俺を、覚えてないのか」


少女の眉が寄る。


「知らない」


否定は短かった。

迷いすらなかった。


「そんなはず――」


言いかけて、止まる。


何が、そんなはずはないのか。


俺の記憶が戻ったから、

彼女にも戻っているはずだと、勝手に信じていただけだった。


新聞を見つけてからの1年間、何度も想像した。


顔を合わせれば、彼女も俺を思い出す。

名前が違っても、声が違っても、俺だと分かってくれる。

俺が彼女を見つけたように、彼女も俺を見つけてくれる。


それは希望だった。

希望でしかなかった。


目の前の少女は、俺を知らない。


今の俺にとって彼女が何より大切でも、彼女にとって俺は、

大公家の庭へ勝手に入り込んできた見知らぬ少年でしかなかった。


少女が、また一歩だけ下がる。


「あなた、一体何者なの?」


「……ユアンだ」


少女は、その名前を聞いても何も変わらなかった。


当然だった。


ユアンは、この世界で与えられた名前だ。

前の世界で、彼女が呼んでいた名前ではない。


けれど、たとえ以前の名前を告げられたとしても、

今の彼女には何の意味もなかったのかもしれない。


覚えていない。

それでも、あの子だった。


その二つは、俺の中で少しも矛盾しなかった。


同じ魂を持っている。

それだけは、理屈も証拠もなく分かる。


けれど、俺が知る彼女の続きを、目の前の少女がそのまま生きてきたわけではない。


この子には、この世界で生まれてからの8年がある。


俺の知らない時間がある。

俺の知らない痛みがある。


それを理解した瞬間、再会できたという喜びとは別の痛みが、

ゆっくり胸の奥へ広がっていった。


「その手、どうしたんだ」


左手の包帯へ視線を落とすと、少女は咄嗟に腕を背中へ隠した。


「何でもないわ」


「何でもないわけないだろ。服も焦げてる。さっきまで、何を――」


少女の身体が小さく強張った。


問い詰めるつもりはなかった。

ただ心配だった。


それでも、今の彼女にとっては違う。


知らない少年に傷を見られ、理由を聞かれている。怖がらせても当然だった。


「ごめん。責めたいわけじゃなくて」


一歩、近づこうとする。


その瞬間。


「近づかないで」


足が止まった。


少女は赤い瞳を揺らしながら、左手を庇っていた。


反射的な言葉だったのだろう。

けれど、その一言は胸の奥へ深く刺さった。


1年間。


ただ彼女へ近づくために歩いた。

空腹にも、寒さにも、足の痛みにも耐えた。


ようやく辿り着いた先で、彼女から距離を求められた。


それが当然だと理解できるからこそ、何も言えなかった。


「……分かった」


声を絞り出す。


「ここから動かない。だから、教えてくれ。何があった」


少女は答えなかった。

唇を結び、涙の跡を隠すように顔を背ける。


その時、遠くで足音が響いた。


複数ではない。

けれど、迷いなくこちらへ近づいてくる。


「ルビア様!」


女の声だった。


少女の顔が強張る。


泣いていた時よりも、はっきりと。


涙を拭い、背筋を伸ばそうとする。

震えていた肩を無理やり止め、包帯の巻かれた左手を袖の中へ隠す。


ほんの数秒前まで泣いていた少女が、大公家令嬢の顔へ戻ろうとしていた。


その変化が、あまりにも早かった。

まるで、何度も繰り返してきたかのように。


「待ってくれ」


俺は声を落とした。


「また来る。今度は、ちゃんと話を――」


「来ないで」


少女はもう一度言った。


先ほどより、小さな声だった。


拒絶というより、怯えに近かった。


その言葉に、胸を内側から強く締めつけられた。


1年間、ただ彼女へ辿り着くために歩いてきた。

その彼女から、もう来るなと言われた。


立ち止まって理由を聞きたかった。

違うのだと伝えたかった。


けれど、今は隠れる方が先だった。


ここで俺が見つかれば、困るのは俺だけではない。

彼女が何を恐れているのか分からない以上、

俺の感情だけでその危険を増やすわけにはいかなかった。


俺が来ることそのものを恐れているのか。

俺が見つかることで何かが起きるのを恐れているのか。


そこまでは分からない。

聞き返す時間もなかった。


植え込みの向こうから、濃い色の使用人服を着た女が現れる。


俺は身を低くし、石壁の裏へ滑り込んだ。


枝が腕を擦る。

痛みは感じなかった。


息を殺し、葉の隙間から庭園を覗く。


「こちらにいらしたのですか、ルビア様」


女は少女の前まで来ると、まず周囲を見回した。


視線が植え込みへ向く。

俺は地面へ身体を押しつけた。


「何をなさっていたのです」


「……少し、風に当たっていただけよ」


声が違った。


先ほどまで泣いていた少女の声ではない。

幼いながらも、大公家の令嬢として整えられた、静かな声だった。


「お一人で離れては困ります。奥様がお待ちです」


その言葉を聞いた瞬間、ルビアの指先がわずかに震えた。


女は気づいているはずだった。

けれど、何も言わない。


焦げた袖にも。

包帯を巻いた左手にも。

赤く腫れた目元にも。


触れようとしなかった。


「……分かったわ」


ルビアは短く答えた。


歩き出す前に、一度だけ植え込みの方へ視線を向けた。

俺の姿が見えていたわけではないと思う。


それでも、反射的に身体が固まった。


赤い瞳が、葉の隙間を通り過ぎる。


そこに懐かしさはなかった。


ただ、見知らぬ少年がまだ隠れているのではないかと、確かめているように見えた。


やがて、ルビアは使用人に連れられて庭園を離れた。

銀色の髪が、夕暮れの向こうへ消える。


俺は、しばらく動けなかった。


会えた。


見つけた。


確かに、あの子だった。

けれど、彼女は俺を知らなかった。


それだけなら、まだよかった。


記憶が戻っていないだけかもしれない。

急に現れたから、怯えさせただけかもしれない。


今度、落ち着いて話せば。

前の世界のことを伝えれば。


何か思い出すかもしれない。


いくらでも理由を作れた。


作らなければ、1年間抱えてきた希望が、その場で完全に壊れてしまいそうだった。


だが、それ以上に気になった。


焦げた服。

左手の包帯。

俺が近づいた時の怯え方。

使用人に見つかった瞬間、泣いていたことを隠した速さ。


あの子に、何が起きている。


俺はルビアたちの足音が完全に消えるまで待ち、侵入してきた道を戻った。


そうして敷地の外へ出た頃には、空は暗くなり始めていた。


その夜は、ほとんど眠れなかった。

路地裏の壁へ背を預け、何度も新聞を開いた。


紙面の中で、ルビアは笑っている。

汚れ一つない服を着て、大公家の天才令嬢として紹介されている。


今日見た姿とは、何もかもが違った。


新聞に嘘が書かれているとは限らない。


最高級の服も、食事も、教育も与えられているのだろう。

けれど、それが彼女を幸せにしているとは限らない。


前の世界で、俺は彼女を知っていた。

少なくとも、そう思っていた。


けれど、今の彼女について、俺は何も知らない。


何をされているのか。

何を怖がっているのか。

なぜ泣いていたのか。


俺が知っているのは、魂の奥で彼女が「あの子」だということだけだった。

それだけで、助けられるわけではない。



俺は再び大公家の周囲へ張りついた。


最初の目的は、もう一度ルビアと話すことだった。


けれど、庭園に彼女は現れなかった。


同じ時間に待っても。

場所を変えても。


姿を見つけることはできない。


代わりに、使用人たちの会話を拾った。


市場へ出入りする料理人。

訓練棟へ薬品を運ぶ下働き。

焦げた布を処分する使用人。


誰も、俺の知りたいことをまともには話さない。


それでも、断片はあった。


「次は持続時間を延ばすらしい」


「まだ8歳でしょう」


「奥様がお決めになったことよ」


「この前も治療師を呼んでいたじゃない」


「声が大きい」


会話はそこで途切れた。


訓練。

持続時間。

治療師。


頭の中で、庭園にいたルビアの姿と繋がる。

数日かけて、訓練が行われる日時と場所を絞った。


本邸から少し離れた、半地下の訓練棟。

外周には複数の結界が張られている。


正面からは入れない。


だが、建物の裏側には、熱と煙を逃がすための細い排気口があった。


人間が通れる大きさではない。

それでも、外から内部を覗くことはできる。


俺は、その日を待った。

話せば、何か思い出すかもしれない。


そう思っていた。


同時に、あの傷が何だったのか確かめたかった。


酷い訓練ではあるのだろう。

大公家の天才として、厳しく育てられているのかもしれない。


けれど、貴族の教育がどれほど厳しくても、限度はあるはずだった。


そう思っていた。

俺は、まだ何も分かっていなかった。


指定された日の早朝。


再び魔力感知の薄い場所から敷地へ入った。

前回より警備が増えているように感じた。


俺の侵入が知られたのかもしれない。


それとも、訓練日だけ警戒が強まるのか。


分からない。


巡回を避け、庭園の外周から訓練棟へ回り込む。

湿った地面へ腹這いになり、低い石垣と植え込みの隙間を進んだ。


半地下にある細い換気窓。

内部から、赤い光が漏れている。


声が聞こえた。


「もう一度です」


女の声だった。


低くも、高くもない。

怒りを含んでいない、静かな声。


俺は慎重に身体を起こし、窓の隙間から中を覗いた。


広い訓練室だった。

床と壁には、幾重もの防護術式が刻まれている。


中央に、ルビアが立っていた。


両腕には、黒い金属製の拘束具が取りつけられている。

手首と前腕を囲む金属枠が、腕の外側を走る細い支柱で繋がっている。


さらに、その支柱から伸びた短い鎖が、

左右の床に埋め込まれた固定環へ結ばれていた。


指と肘は動かせるが、手首の動きは金属枠に制限されている。


鎖にも、杖を胸の前へ構えられるだけの余裕しかない。


腕を大きく引けばすぐに張り、それ以上は動かせず、

術式陣の外へ逃れることもできない。


床に刻まれた赤い術式線は、左右の固定環を通って拘束具へ繋がっていた。


炎が制御を外れれば、術式が鎖を引き絞り、

両腕を構えた位置へ固定する。そのための訓練器具なのだろう。


左手首側の金属枠には、古い焼け跡が残っていた。


ルビアは、その拘束具をつけたまま杖を握っていた。


昨日までの包帯は外されている。

代わりに、左手の皮膚には赤黒い火傷の跡が残っていた。


息が止まった。


少女の正面には、赤い髪を結い上げた女が立っている。

顔立ちはルビアと似ていた。


母親だと、説明されなくても分かった。


その少し後ろには、記録板を持った魔法使いと、治療師らしき男が控えている。


誰も、ルビアの傷を見ていない。


いや。


見えている。

見えているのに、止めようとしない。


「お母様……」


ルビアの声が震えた。

庭園で俺へ向けたものよりも、ずっと幼い声だった。


「手が、まだ痛いの」


「治療は済んでいます」


母親は淡々と答えた。


「動作に問題はないと報告を受けました」


「でも……」


「杖を構えなさい」


ルビアは動かなかった。

赤い瞳に、涙が溜まっていく。


「今日は、もう……」


声が途切れる。

それでも、どうにか言葉を続けた。


「もう無理です。ちゃんとしますから……明日は、もっとちゃんとするから」


胸の奥が締めつけられた。


「今日はもうやめて……、いい子にするから……」


母親の表情は変わらない。


「良い子であることと、訓練を終えることに関係はありません」


「お願い……」


「泣けば許されると、誰が教えたの?」


その問いに、ルビアの表情が崩れた。


声を殺そうと唇を噛む。

けれど、幼い身体では抑えきれず、嗚咽が次々に漏れた。


記録係は筆を止めない。

治療師だけが一度、ルビアの左手へ目を向けた。


「杖を構えなさい」


もう一度。


同じ声で命じられる。


怒鳴りもしない。

苛立ちすら見せない。

ルビアの泣き声を、術式の雑音と同じように処理している。


飛び出せ。


頭の中で声がした。


あの女の手を止めろ。


拘束具を壊せ。


ルビアを連れて逃げろ。


窓枠へかけた指に、限界まで力が入った。


爪が掌の皮膚を破る。

血が滲み、握り締めた拳の隙間から溢れた。


痛みが走る。

それでも、手を緩めなかった。


怒りに呑まれかけた頭を、その痛みで無理やり現実へ引き戻す。


考えろ。


俺が何をしたいかではない。

何をすれば、この子のためになる。


何が最善なのかを考えろ。


今ここで飛び出せば、俺の怒りは少しだけ晴れるかもしれない。

だが、その後に苦しむのは誰だ。


訓練室の中には、母親だけではない。


護衛。

魔法使い。

治療師。

外にも巡回がいる。


8歳の俺が飛び込んだところで、数秒も保たない。


捕まった後に何が起きる。


大公家の敷地へ侵入した正体不明の子供。

その子供と話したルビア。


あの家の人間は、誰を責める。


考えるまでもなかった。


俺が助けようとして失敗すれば、その罰を受けるのは彼女だ。


だから動けない。


理解している。

理解しているのに、身体の内側だけが暴れ続ける。


掌から落ちた血が、窓枠を濡らした。


唇を噛む。


鉄の味が口の中へ広がった。


それでも、声を出せなかった。


ルビアが杖を構える。


涙で濡れた赤い瞳が、正面の標的を睨む。


「術式を開始しなさい」


小さな手が震えた。


杖先に炎が灯る。


最初は弱い光だった。


母親が指を動かすと、床の術式が赤く輝く。


床の術式から拘束具へ魔力が流れた。

左右の鎖が同時に張り、ルビアの腕を構えた位置へ縫い止める。


「出力を上げなさい」


炎が大きくなる。


「もっとです」


「……はい」


「聞こえません」


「はい……!」


ルビアが泣きながら叫ぶ。


炎が標的へ放たれた。


轟音。


訓練室全体が赤く染まる。

防護術式が熱を受け止め、壁を走る光が激しく明滅した。


たった8歳の少女が放ったとは思えない炎だった。


記録係が数字を読み上げる。

母親は結果だけを見ていた。


「前回より出力が低下しています」


「左手が……」


「言い訳は求めていません」


ルビアが俯く。


「もう一度です」


訓練は続いた。


2回目には、炎を放ちながら何度も息を詰まらせていた。


3回目には嗚咽さえ途切れ、呼吸のたびに、声にならない悲鳴だけが喉から漏れていた。


頬は涙と汗で濡れ、銀髪が肌へ張りついている。

杖を握る手は震え続け、ときおり指が柄から外れかけた。


それでも母親は止めない。

記録係も数字を読み上げ続ける。


治療師だけが険しい顔をしていたが、

訓練を中断させる権限はないのか、動けずにいた。


この場所では、それが普通なのだ。

その事実が何よりも恐ろしかった。


やがて、訓練室の扉が開いた。


ルビアが、わずかに顔を上げる。


一瞬だけ、赤い瞳に光が戻った。


入ってきたのは、背の高い男だった。


フォルテア大公。

ルビアの父親。


「お父様……」


泣き疲れた声に、ほんの少しだけ安堵が混ざる。


だが、大公は娘の前で足を止めなかった。

泣き腫らした顔にも、火傷の残る左手にも視線を向けず、記録係の前まで歩く。


「結果を」


挨拶すらなかった。


記録係が慌てて板を差し出す。


「最高出力は、前回比で約7パーセント上昇しています」


「持続時間は」


「低下しています。後半は術式構築にも遅延が見られました」


大公は数値を一度確認した。


それだけだった。


「なら、成果とは呼べない」


ルビアの赤い瞳が、ゆっくり伏せられる。


「……はい」


父親は、娘が返事をしたことにすら反応しなかった。


「次回までに、出力を維持したまま持続時間を戻せ」


その命令はルビアへ向けたものなのか、

母親や記録係へ向けたものなのかさえ曖昧だった。


大公にとって重要なのは、誰が苦しんでいるかではない。

要求した結果が出たかどうかだけだった。


母親が確認する。


「本日は、まだ予定の工程を終えていません」


大公は振り返らない。


「予定どおり進めろ」


それだけを残し、訓練室から出ていった。


扉が閉まる。


ルビアは、もう父親の方を見なかった。


泣き声も止まっていた。


諦めたのではない。

泣いても何も変わらないと、また1つ覚えたのだ。


「再開します」


母親の指示で、床の術式が再び赤く光った。

左右の固定環が低く鳴り、緩んでいた鎖がわずかに巻き取られる。


赤い術式線が、特に傷の残る左手首側の拘束具へ強く集まっていき、

最初の炎で傷んでいた金属枠が、低く軋んだ。


ルビアは反射的に両腕を引いた。


じゃらり、と鎖が鳴る。


「もう、やめて……」


拘束具は外れない。

杖先へ炎が集まり始めると、金属の温度も上がっていった。


「熱い……」


左腕を引く。


じゃら、じゃら、と鎖が床を擦る。


「お母様、熱い……外して……」


「集中を切らさないで」


母親は記録板を見たまま答えた。


拘束具へ流れ込む魔力が強まる。

赤く熱を持った金属枠が、ルビアの手首へさらに食い込んだ。


「痛い……!」


ルビアが腕を振る。


じゃらじゃら、と激しい音が訓練室へ響いた。

炎が揺らぎ、標的の周囲へ火が散る。


床の防護術式が赤く明滅した。


「外して! お母様、お願い!」


泣き叫ぶ声に重なるように、鎖の音も強くなる。


じゃらっ。

じゃらじゃらっ。


ルビアが身体を捩るたび、金属枠と鎖が激しくぶつかり合った。


「どんどん熱くなってる……! 痛い、痛いの……!」


「出力を維持しなさい」


「できない……!」


「できます」


「無理……! 腕が、焼ける……!」


声が裏返る。


呼吸は乱れ、頬は涙と汗で濡れていた。


それでも母親は拘束具を見ない。

炎の大きさと、術式の安定だけを見ている。


ルビアは泣きながら腕を引き続けた。

じゃらじゃらじゃら、と、鎖が途切れなく鳴る。


その音は、助けを求める悲鳴そのものだった。


鳴り響くたびに、俺の心臓を内側から強く殴られているようだった。


今すぐ窓を破れ。

今すぐ中へ行け。


身体の奥で、その衝動が鎖の音に合わせて何度も膨れ上がる。

あと1度でも彼女が痛いと叫べば、理性など捨てて飛び込んでしまいそうだった。


それでも、足は動かせない。


俺がここで動けば、その代償を払わされるのは彼女かもしれない。

分かっているからこそ、窓枠を掴んだ手へさらに力を込めることしかできなかった。


治療師が一歩だけ前へ出かける。

しかし、すぐにその場で足を止めた。


拘束具の金属が、赤から白に近い色へ変わっていく。

熱で歪み始めた枠が、左手の外側から手首へ食い込んだ。


「熱い……お母様……!」


じゃらっ。


「外して……!」


じゃらじゃらっ。


「お願い……! 痛い、痛い……!」


鎖の音は、さらに速く、激しくなった。


8歳の子供が痛いと叫んでいる。

自分の子供だぞ。


腕が焼けている。


それなのに、誰も止めない。


俺の視界が赤く染まった。

今すぐ窓を破りたかった。


中へ飛び込み、あの女を殴り倒したかった。


勝てない。


分かっている。


殺される。


それでも構わないと、一瞬だけ思った。


だが。


俺が死んだ後、彼女はどうなる。


拘束具は外れるのか。

訓練は終わるのか。


違う。


侵入者によって集中を乱したと、さらに責められるだけだ。


俺の衝動で、彼女の痛みが増える。

その可能性がある限り、動けなかった。


やがて、ルビアの腕から少しずつ力が抜けていく。


じゃらじゃら、と鳴っていた音が。


じゃら、じゃら、と途切れ始める。


泣き叫ぶ声も掠れていった。


「熱い……」


小さく腕を引く。


じゃらり。


「痛い……」


もう一度。


じゃら。


それが、最後だった。


鎖の音が止まった。


ルビアの左腕は拘束具の中で力なく垂れ、指先も動いていない。

ついさっきまで泣き叫んでいた少女が、急に静かになった。


安堵したわけではない。

赤い瞳は、自分の左手を見つめたまま大きく開かれている。


呼吸だけが浅く、速い。


何が起きたのか理解できていないように見えた。

けれど、痛むはずの腕が突然何も感じなくなったことを、幼いルビアも恐れている。


少なくとも、俺にはそう見えた。


「……あれ?」


唇が震える。


「痛く、ない……」


その声は、助かった者の声ではなかった。

悲鳴よりも小さく、悲鳴よりも深い恐怖に震えていた。


その声で、治療師が動いた。


「解除してください。すぐに!」


ようやく拘束具へ停止術式が流れる。

だが、金属はすぐには開かなかった。


赤熱した拘束具は形を保てず、

左手の外側から手首にかけて、熱で歪んだまま食い込んでいた。

厚い金属枠の一部は飴のように曲がり、接合部から赤い火花が散っている。


治療師が補助術式を重ね、変形した拘束具を無理やり広げる。

金属が軋み、ようやく左腕が解放された。


ルビアの身体が崩れる。


治療師が抱き止め、その左手を見た瞬間、顔色を変えた。


拘束具と接していた左手の外側から手首にかけて、

白い肌は赤を通り越し、黒褐色に焼けている。

特に薬指と小指側はひどく、一部は炭化したように変色していた。


焼けた皮膚から、細い煙が上がっている。


「これは……」


治療師の声が掠れた。

すぐに白い治癒術式を展開する。だが、光は傷へ触れたところで不安定に揺れた。


「重度の熱傷です。深部まで損傷しています。この場の治癒だけで、どこまで治せるか分かりません」


母親は、娘の腕ではなく記録係を見た。


「術式は何秒維持できましたか」


その横で、記録係が答える。


治療師は信じられないものを見るように一瞬だけ母親へ目を向けたが、

すぐにルビアの腕へ視線を戻した。


「今は記録より処置が先です。すぐに治療室へ運ばなければ、感覚だけでなく手の機能そのものが残らない可能性があります」


「指は動くの?」


母親が遮った。


心配ではない。

確認だった。


治療師は唇を強く結び、意識の朦朧としたルビアへ声をかける。


「ルビア様。聞こえますか。指を、少しだけ曲げてください」


ルビアは、自分の左手を見ていた。


黒く焼けた皮膚。

力なく垂れた指。


自分の身体の一部が、知らない何かへ変わってしまったような目だった。


薬指と小指が、ほんのわずかに震える。

遅れて、他の指も弱々しく曲がった。


「……動作自体は、かろうじて可能です」


治療師は安堵することなく、黒く焼けた左手を見つめたまま続けた。


「ですが、深部の神経まで損傷している可能性があります。このままでは指や手首に恒久的な麻痺が残るだけでなく、左手そのものを正常に動かせなくなるおそれがあります。損傷が前腕まで広がっていれば、治癒後も腕全体の動作に障害が――」


「動くなら問題ありません」


母親は言った。


治療師の手が止まりかける。


「今は動いているだけです。直ちに処置を始めなければ、今後も動く保証はありません。感覚障害だけで済むかどうかさえ――」


「すぐに訓練へ戻れるよう、処置をしてください」


それだけだった。


治るように、ではない。

痛みが残らないように、でもない。


また訓練ができるように。


母親が求めたのは、それだけだった。

訓練室の中で、誰も反論しなかった。


ルビアは治療師に抱えられながら、自分の左手を見続けていた。

赤い瞳から、涙が次々に零れている。


けれど、もう声は出ていなかった。

泣くのを堪えているのではない。


悲鳴を上げるだけの力さえ、身体に残っていないように見えた。


口元だけが小さく震え、息を吸うたびに喉から掠れた音が漏れる。


怖いと。

助けてほしいと。


声にできないまま、ただ泣いていた。


俺は窓から離れた。


これ以上、見ていられなかったからではない。

このままでは、本当に中へ飛び込んでしまうと思った。


音を立てずに来た道を戻る。


足元が何度も縺れた。

植え込みの枝が服へ引っかかる。


振り払う。


誰かの声が遠くで聞こえた。


見つかるわけにはいかない。

頭では分かっている。

それでも、何度も振り返りそうになった。


ルビアを置いてきた。


また。


目の前で苦しんでいるのに。


俺は何もできなかった。


敷地を抜け、外壁から十分に離れた林へ入ったところで、足が止まった。


静かだった。

訓練室からは、もう何も聞こえない。


その静けさの中で、さっきまで鳴り続けていた鎖の音だけが耳の奥に残っていた。


じゃらり。


じゃらじゃら。


じゃらじゃらじゃら。


何度も。


何度も。


消えてくれなかった。


俺は近くにあった木の幹を殴った。


鈍い音がした。


もう一度。


さらにもう一度。


樹皮より先に、拳の皮膚が裂けた。


血が滲む。

痛みはあった。


だから何だと思った。

あの子が受けていたものに比べれば、こんなものは痛みですらない。


何度殴ったのか分からない。

拳が腫れ、指が動かしづらくなっても止められなかった。


それでも足りない。


握れなくなった手の代わりに、前腕を木の幹へ叩きつける。


鈍い衝撃が骨まで響いた。


もう一度。


木の表面へ血が擦りつく。


腕が痺れ、肘から先へまともに力が入らなくなっても、

身体の内側に溜まったものは少しも消えなかった。


「くそ……!」


初めて、声が出た。


「くそっ……!」


木を殴っても、あの女は止まらない。


血を流しても、ルビアの左手は元に戻らない。


分かっている。


それでも、何かを壊さなければ、自分の内側が先に壊れそうだった。


拳も腕も、もう思うように動かなかった。


それでも止まれず、額を木の幹へ打ちつけた。


ごつ、と鈍い音が頭の内側に響く。


もう一度。


視界が揺れる。


それでも足りず、3度目に額を押しつけるように打ちつけたところで、

ようやく身体から力が抜けた。


「何で……」


額を木へつけたまま、掠れた声が漏れる。


何で覚えていない。

何で俺だけが覚えている。

何で、ようやく見つけた彼女が、あんな場所にいる。


何で俺は、また間に合わなかった。


膝が折れた。


身体が崩れ、木の根元へ座り込む。


血に濡れた両手が、土の上へ落ちた。

腕は痺れ、額の奥では鈍い痛みが脈打っている。


それでも、訓練室で見たものに比べれば、何ひとつ足りなかった。


俺には、何もできない。


前の世界の記憶があっても。

剣の振り方を知っていても。


彼女を誰より大切に思っていても。


8歳の身体では、あの家へ勝てない。

正面から助けに入れば、殺される。


連れ出したとしても、彼女は俺を知らない。

俺についてくる理由がない。


何より。


俺が飛び出したせいで、彼女がさらに罰を受ける可能性さえある。


違う世界でも、もう一度彼女に会える。

そのことだけを支えに、ここまで来た。


空腹にも耐えた。

寒さにも、足の痛みにも、何度追い払われても耐えた。


1年間かけて、ようやく辿り着いた。


会えさえすれば、何かが始まると思っていた。

俺が覚えていれば、彼女へ手を伸ばせると思っていた。


それなのに。


目の前で泣いている彼女へ。


腕を焼かれている彼女へ。


手を伸ばすことすらできなかった。


俺は血に濡れた手を握ろうとした。

けれど、指はほとんど動かなかった。

痛みだけが、確かだった。


あの子は、まだあの家にいる。

明日になれば、また杖を握らされる。


また泣く。

また、痛いと訴える。


そして、いつか。


訴えることさえ、やめてしまう。

その未来が、何よりも恐ろしかった。


俺は俯いたまま、動けなかった。


世界が終わった理由も分からない。

前の世界で、最後に何が起きたのかも思い出せない。


けれど、1つだけ分かった。


今のままでは。


俺はまた、彼女を失う。


今度は、世界が終わるよりも前に。


俺の知らない場所で。


少しずつ。


彼女自身の手によって、自分を諦めるように仕向けられて。


その事実が、今まで受けたどんな傷よりも痛かった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ