第21話 聖女の手
魔法基礎理論の講義が終わった時には、
頭の中が知らない言葉で埋め尽くされていた。
魔力回路、術式核、変換効率、残留負荷。
理解できたものより、理解できなかったものの方が圧倒的に多い。
それでも、最後まで魔導板への記録だけは止めなかった。
今は分からなくても、後から調べればいい。
少なくとも、何を知らないのかは分かるようになった。
それだけでも、講義を受けた意味はあったはずだ。
俺は教室を出ながら、固まった肩を軽く回した。
右は問題ない。
左肩を後ろへ引いた瞬間、肩の奥から手首にかけて鈍い痛みが走る。
「……っ」
大した痛みではない。動かせるし、剣も握れる。
決闘魔法の時より、むしろ少し楽になっていた。
俺は左手首を回し、指を何度か開閉する。痺れは残っているが、この程度なら――
「ユアンさん」
柔らかな声に呼び止められた。
振り返ると、治癒魔法の教本を胸元に抱えたメルディ・トリステアが、
少し離れた場所に立っていた。
柔らかな金髪。
澄んだ青い瞳。
こうして正面から向き合うと、王女殿下の冷たく磨かれた金とはまるで違う。
日の光を含んだような、穏やかな色だった。
「何か?」
「少し、お時間をいただけますか?」
丁寧な言葉。柔らかい声。頼み方にも押しつけがましさはない。
けれど、その視線は俺の左手首へ向いていた。
おそらく、この傷のことだろう。
教室を出たところで、手首をかばっている姿を見られたらしい。
「いや、もうだいぶ治ってるよ」
俺は左手を軽く上げて見せる。
実際、嘘ではない。
試験場で倒れた直後とは比べものにならないほど動く。
日常生活にも、ほとんど支障はなかった。
メルディは穏やかに頷く。
「そうですか」
引いてくれると思った。
「では、治っているか確認してから決めましょう」
「……何を?」
「本当に問題がないかどうかを、です」
笑顔のまま返された。
話は、終わっていなかった。
「いや、そこまでしてもらわなくても――」
「先ほど、左肩を動かした時に顔をしかめていました」
「見てたのか」
「はい」
「少し痛んだだけだよ」
「痛くない方は、あんなふうに何度も動かして確かめません」
俺は左手を下ろした。
メルディは相変わらず、柔らかく微笑んでいる。
責めている様子はなく、怒ってもいない。
それなのに、なぜか逃げられる気がしなかった。
普段の彼女からは想像できないほど、治療に関しては譲る気がないらしい。
「動けることと、治っていることは違います」
静かな声だった。
けれど、妙に重みがあった。
何度も、同じように無理をする人間を見てきたのだろう。
そう思わせる声だった。
「少し診るだけです。問題がなければ、すぐに終わります」
「問題があったら?」
「治療します」
「俺の意思は?」
「もちろん尊重します」
メルディはにこやかに答えた。
「状態をご説明した後で」
そこまでは連れていく気らしい。
断る理由を考えようとしたが、今の彼女には何を言っても通りそうにない。
それに、治してもらえるなら、その方がいいのも事実だろう。
剣を取り戻した時、腕が動かないのでは話にならない。
「じゃあ、お願いするよ」
「ありがとうございます」
なぜ治療される側が礼を言われるのか分からなかった。
メルディは先導するように歩き出す。
俺も、その後をついていくことになった。
◇
メルディは近くにいた教官へ事情を説明し、空いていた実習室の使用許可を取った。
治癒魔法の授業で使われる、小さな部屋だった。
先ほどまで講義に使われていたらしく、
室内には薬草とポーションの匂いが薄く残っている。
壁際には淡い色の液体が入った小瓶が並び、簡易寝台が2つ、
診察用の椅子と身体の内部を映すためらしい術式板が置かれていた。
大げさな医療設備はない。
授業で軽傷者を診たり、治癒魔法の練習をしたりするための部屋なのだろう。
メルディは俺を椅子へ座らせると、正面に回った。
「左腕をお借りしますね」
「ああ」
差し出した腕を、メルディが両手で受け取る。
細い指が手首に触れた。
温かい。
治療のためだと分かっている。
分かっているのだが、思っていたより距離が近かった。
メルディは俺の手首へ視線を落とし、脈を確かめるように指先を添えている。
伏せられた青い瞳。
頬へ落ちる柔らかな金髪。
普段の穏やかな印象より、さらに静かに見えた。
聖女でも、聖邦の代表でもない。
今、目の前にいるのは、俺と同じ年頃の少女だった。
そんな当たり前のことを、なぜかこの瞬間まで忘れていた。
「痛みますか?」
手首をゆっくり曲げられ、意識が現実へ戻る。
「少し」
「これは?」
今度は反対方向へ動かされる。
「さっきよりは」
「手首だけではありませんね。肩まで筋肉の張りが続いています。腱にも負担が残っているかもしれません」
メルディは手首から腕をたどり、肘の少し上へ指を添えた。
必要な診察だ。
そう理解していても、他人に腕の状態を探られる感覚には慣れない。
「表面の傷は、ほとんど治っています。ですが、無理に動かしましたね?」
「無理ってほどではないと思うけど」
「無理に動かしましたね?」
同じ声。
同じ微笑み。
だが、今度は疑問の形をしているだけだった。その奥に、妙な迫力がある。
俺は反射的に背筋を伸ばす。
「……はい」
つい、敬語になった。
メルディは小さく息を吐いた。
怒っているようには見えないが、呆れられている気はした。
「通常の治癒魔法では、患者の魔力の流れを目印にして、損傷した場所を探します」
メルディの指先に、青白い光が灯る。
柔らかな光だった。
「治癒そのものに魔力回路が必要なわけではありません。ただ、あなたには目印になる流れがないので、外から1つずつ確かめなければいけません」
光が俺の手首へ触れる。
だが、すぐには広がらなかった。
皮膚の下へ染み込もうとした光が、進む方向を探すように、その場で揺れている。
メルディの眉が、ほんの少しだけ寄った。
「……本当に、どこにも魔力の流れがないのですね」
「検査でもそう言われた」
「知識としては知っていました。でも、実際に治療するのは初めてです」
青白い光が一度弱まる。
それでも、メルディは俺の手首から指を離さなかった。
目を閉じ、静かに呼吸を整える。
「少し時間をください」
「難しいなら、別に――」
「難しいとは言いましたが、治せないとは言っていません」
即座に返された。
柔らかな声音のままなのに、迷いがない。
「目印がないのであれば、私が直接探します」
再び、指先に光が灯る。
今度の光は、先ほどよりずっと細い。
糸のような青白い光が、メルディの指から俺の手首へ流れ込んだ。
広がるのではない。
一筋ずつ。
筋肉の形を確かめるように。
腱の流れをなぞるように。
行き場を探しながら、何度も往復していく。
温かい。
けれど、ポーションを飲んだ時のように、無理やり身体を起こされる感覚ではない。
強張っていた筋が、少しずつ緩められていく。
傷ついた場所だけを選び、身体の回復を静かに促されているような感覚だった。
手首の奥に残っていた鈍い熱がゆっくりほどけ、
肩まで張りついていた重さも少しずつ薄くなる。
俺は思わず、メルディの横顔を見た。
彼女の表情から、普段の柔らかな笑みは消えている。
青い瞳は、俺の腕だけを見ていた。
呼吸は静かで、指先にも迷いがない。
魔力の流れという目印がないなら、自分で1つずつ探す。
言葉にすれば、それだけだ。
だが、今行われていることが簡単ではないことくらい、魔法に疎い俺にも分かった。
額に、ほんのわずかに汗が浮かんでいる。
それでも、メルディは手を止めなかった。
少なくとも、人を治療している間の彼女は、誰にも譲るつもりがないように見えた。
細い手だった。
剣を握れば、簡単に傷つきそうな手。
それでも今、その手は迷うことなく俺の傷へ触れている。
やがて、手首の奥に残っていた痛みが、目に見えて薄れた。
試すように指を動かす。
握る。
開く。
引っかかりはまだ残っている。
けれど、治療前とは比べものにならない。
肩を動かしても、返ってくる痛みはずっと軽かった。
「……すごいな」
思わず、声が漏れる。
メルディはまだ俺の腕を取ったまま、最後の確認をしていた。
「やはり、手首から肩まで負担が残っていました。治りかけだったから、ここまで軽くできただけです。私がすべて治したわけではありません」
「それでも、ここまで変わるのか」
思わず、治療を終えた彼女を見る。
「さすが――」
俺の手首に添えられていた指が、ほんのわずかに強張った。
青白い光も、一瞬だけ揺れる。
口元は、穏やかな形を保っていた。
けれど、その青い瞳の奥にだけ、今まで見たことのない影が落ちている。
言わずとも、続きが分かってしまったような顔だった。
俺は、口にしかけた言葉を飲み込んだ。




