第2話 ただの受験生
実技試験は中断された。
誰かがそう告げる声が、遠くで聞こえた。
けれど、俺にとって試験が終わったかどうかなど、どうでもよかった。
左腕は熱を持ち、右肩には鉛でも埋め込まれたような重さが残っている。
膝にも力が入らず、熱を吸い込んだせいか、
息をするたびに喉から胸の奥まで鈍く痛んだ。
まだ倒れるな。
せめて、彼女の前では。
そう思っていたはずなのに、身体は俺の言うことを聞かなかった。
「治癒班、急げ!」
慌ただしい足音が近づいてくる。
白い術式の光が視界の端で揺れ、職員が俺の肩へ触れようとした。
その瞬間、反射的に右手へ力が入った。
背の厚い片刃の長剣が、白石の床をわずかに擦る。
「動くな。治療する」
「……すみません」
声が掠れた。
自分でも驚くほど、喉が焼けている。
「でも、剣はまだ――」
「剣は置け。ゴーレムはこちらで確認する」
男の検査官が、ゴーレムから目を離さずに言った。
周囲では複数の職員が杖を構え、沈黙した巨体へ停止術式と防護術式を重ねている。胸部の赤い光は消えていたが、誰も警戒を解いてはいない。
「……まだ、何が残っているか分かりません」
「だから我々が確認する。お前は鞘へ戻せ」
一瞬、迷った。
だが、この状態で抜き身の剣を握り続けたところで、まともに振れるとは思えない。
俺は短剣を先に鞘へ収めた。
続いて長剣を戻そうとしたが、右肩へ力を入れた瞬間、鋭い痛みが走る。
「無理に動かすな」
職員の1人が長剣の背へ手を添えた。
奪い取ろうとはしない。
俺が自分で鞘へ収めるのを補助するだけだった。
刃が鞘の内側へ納まる。
それを確認してから、治癒班の女が俺の顔を覗き込んだ。
「意識はある? 私の声が聞こえる?」
「聞こえています」
「名前は?」
「ユアンです」
「所属は?」
「……受験生です」
女は一瞬、眉を寄せた。
「ただの受験生は、あの赤い光へ剣を差し込んだりしない」
「それは……俺も、そう思います」
答えた直後、胸の奥に鈍い痛みが走った。
小さく咳き込むと、喉がさらに焼ける。視界の端が白く滲んだ。
「もう喋らないで。左腕は火傷と裂傷。右肩にも強い負荷がかかっている。胸の痛みは、熱気を吸い込んだせいでしょう」
「骨は?」
「今のところ、大きな損傷は見えない。でも、だから動いていいわけじゃない」
「なら、まだ動けます」
「動かないで」
今度は、はっきりと強い口調だった。
当然だった。
俺は小さく息を吐き、黙る。
治癒術式の白い光が左腕を包み込んだ。
温かい。
だが、痛みが消えるわけではない。
裂けた皮膚が塞がっていく感覚は、むしろ気持ちが悪かった。
治癒術式は傷へ届いている。
けれど、どこか表面を滑っているような奇妙な感覚があった。
魔力のない身体では、普通の人間と同じようには作用しないのかもしれない。
裂けた皮膚は少しずつ繋がっていく。
それでも、肩の奥に残る軋みや、胸へ張りついた鈍い痛みまでは消えなかった。
治る。
ただ、今すぐすべてが元へ戻るわけではない。
今のところは、それで十分だった。
周囲では、受験生たちのざわめきが続いている。
「今の見たか?」
「魔力なしだったよな、あいつ」
「剣で魔法を逸らすなんて、聞いたことないぞ」
「いや、逸らしたっていうか、無理やり割り込んだんじゃ……」
好きに言えばいい。
俺の評価など、どうでもよかった。
問題は、ルビアだ。
俺は顔だけを動かし、彼女を探した。
すぐに見つかる。
ルビアは、少し離れた場所に立っていた。
銀髪は熱風でわずかに乱れ、赤い瞳はまだ俺へ向けられている。
長杖は、すでに職員へ返されていた。
空いた右手だけが、何かを堪えるように強く握られている。
目が合った。
彼女の表情は、すでに元へ戻りつつあった。
伏し目がちな赤い瞳。
冷静な横顔。
誰にも弱みを渡さない、フォルテア大公家令嬢の顔。
けれど、完全ではない。
ほんのわずかに、目の奥が揺れている。
それで十分だった。
生きている。
怪我もしていない。
それだけでいい。
「ユアン、搬送する。担架を」
治癒班が声を上げる。
「歩けます」
「歩かせない」
「でも――」
「君の意見は聞いていない」
正論だった。
職員2人が俺の左右へ回る。
双剣を取り上げることはせず、鞘へ収まっていることだけを確認した。
俺は支えられながら、それでも自分の足で立とうとする。
立ち上がった瞬間、膝から力が抜けた。
視界が揺れ、白石の床が急に近づく。
その時、周囲の慌ただしい足音に混じって、1つだけ静かな音が近づいてきた。
それから、香りがした。
焦げた布と血の臭いの中に、青薔薇を思わせるブルーの香りが、かすかに混じる。
ルビアだった。
彼女は、いつの間にか俺のすぐ近くまで来ていた。
触れてはいない。
支えてもいない。
ただ、倒れかけた俺の正面に立っている。
「無理をする必要はないわ」
声は冷たかった。
けれど、空いた右手だけが、何かを堪えるように強く握られている。
俺は笑おうとして、失敗した。
頬の傷が痛む。
「必要あったよ」
ルビアの眉が、わずかに動いた。
「どこに」
「君が無事か、ちゃんと見たかった」
赤い瞳は、理解できないものを見るように俺へ向けられていた。
それでも、今度は目を逸らさなかった。
「……見れば、分かるでしょう」
「うん。だから、よかった」
「よくないわ」
思わず、俺は彼女を見た。
ルビア自身も、自分がそう言ったことに少し驚いたようだった。
それでも、すぐに表情を戻す。
「試験場で突然飛び出すなんて、正気とは思えない」
「正気だったら、間に合わなかったと思う」
「そういうことを言っているんじゃないわ」
「じゃあ、何に怒ってるんだ?」
ルビアは答えなかった。
その沈黙が、少しだけ懐かしかった。
懐かしさを覚えているのは、俺だけだ。
彼女にとって、俺は今も理解できない他人でしかない。
それでも、完全に聞き流されなかったことだけは分かった。
「……君は」
掠れた声が漏れる。
「本当に、無事なんだな?」
ルビアは、わずかに目を伏せた。
「ええ」
短い返事だった。
それだけで、ようやく息を吐けた。
「なら、いい」
「よくないと言っているでしょう」
「それより、礼の1つくらい聞きたいところだけどな」
わざと軽く言った。
立っているだけでもつらく、喉も焼けている。
それでも重くなりすぎた空気を少しだけずらしたかった。
ルビアの唇がほんの少しだけ開く。
「……あ」
一度、閉じる。
けれど、彼女は視線を逸らし、再び唇を開いた。
「ありが――」
「話は後だ」
男の検査官が割って入った。
「ユアンは治療室へ運ぶ。ルビア・フォルテア、君にも確認したいことがある。しばらく待機しろ」
ルビアの言葉は、そこで途切れた。
赤い瞳が、割って入った検査官へ向く。
その端に、ほんの少しだけ恨めしそうな色が浮かんだ。
「私は、試験を終えました」
「分かっている。だが、異常発生時に最も近くにいた当事者の1人だ」
「原因も分からないまま、事故と決めるつもりですか?」
その言葉に、周囲の空気がわずかに張り詰めた。
職員たちも、受験生たちも、誰も口を挟まない。
先ほどまで命を狙われていた少女が、今度は学院側へ静かに説明を求めている。
検査官は短く息を吐いた。
「決めてはいない。だから当事者全員から確認する」
「なら、最初からそう言ってください」
ルビアはそれだけ言い、視線を俺へ戻した。
ほんの一瞬。
何かを言いたそうにして。
けれど、言わなかった。
俺も、何も言わない。
今ここで言葉を重ねれば、彼女がようやく口にしかけたものまで遠ざかる気がした。
治癒班に支えられ、俺は試験場の出口へ向かう。
受験生たちが道を開けた。
さっきとは違う沈黙だった。
嘲笑ではない。
侮りでもない。
理解できないものを見る沈黙。
魔力ゼロ。
剣で、あの赤い光を逸らした男。
好きに見ればいい。
歩きながら、ふと視線を横へ向ける。
赤髪の小柄な少年が、こちらを見ていた。
いや。
見ているのは俺ではない。
右腰の長剣――その厚く作られた背だ。
少年の唇が動く。
――変な剣。
俺は、わずかに息で笑った。
その通りだ。
変な相手と戦うために作らせた剣なのだから。
そこで、視界が再び白く滲んだ。
今度こそ、足から力が抜ける。
「おい、支えろ!」
職員の声が遠のく。
最後に見えたのは、ルビアの赤い瞳だった。
彼女はまだ、俺を見ている。
その唇には、言い終えられなかった言葉だけが残っていた。




