第3話 馬鹿みたい
ユアンの姿は、もう試験場の出口の向こうへ消えていた。
それでも白石の床には、点々と血の跡が残っている。
熱で焦げた布片も、赤い光を逸らした軌道をなぞるように散らばっていた。
彼が最後まで手放さなかった、背の厚い片刃の長剣だけは、
持ち主と共に消えている。
なのに、なぜか視線だけが出口へ引き戻される。
「……何なの」
声に出したつもりはなかった。
けれど、唇から小さく漏れていた。
本当に、そう思った。
身体強化を使った者に現れる魔力光も、足元の術式も見えなかった。
少なくとも、ルビアの目には。
それなのに、あの少年は飛び込んできた。
自分と赤い光の間へ。
まるで、そうすることが当然だとでもいうように。
ルビアは、無意識に右手を握った。
先ほどから、何かを堪えるように力が入ったままの手。
倒れかけた彼を見た瞬間、この手を動かしかけた気がする。
支えようとしたのか。
止めようとしたのか。
それとも、ただ触れて確かめたかったのか。
自分でも、はっきりとは分からなかった。
「今度は、遅れなかった」
あの言葉が、耳の奥に残っている。
意味など分からない。
初対面のはずだ。
少なくとも、ルビアの記憶の中に、あんな少年はいない。
黒髪。
青い目。
剣で赤い光を逸らした、意味の分からない受験生。
知らない。
知らないはずなのに。
自分の代わりに血を流した彼の姿を思い出すたび、胸の奥が落ち着かなかった。
それがまた、腹立たしい。
よく分からないことに気を取られても仕方がない。
そう切り替えようとした時だった。
「いや、違う。剣で止めたんじゃない。角度だ。たぶん、あの時、刃を寝かせて……いや、でも普通は腕か剣が先に飛ぶだろ。なのに、なんで――」
誰かが、すぐ近くでぶつぶつと呟いていた。
ルビアは視線だけを向ける。
そこにいたのは、赤髪の少年だった。
女性の中では背が高い方であるルビアと比べても、身長はほとんど変わらない。
短く切られた赤い髪の下で、茶色い目だけが忙しなく動いていた。
貴族らしい華やかさは薄い。
それでも、その目だけは妙に印象へ残る。
落ち着きがないのではない。
ずっと、何かを観察している。
彼の視線は、白石の床に残った焦げ跡、ゴーレムの胸部、
ユアンが運ばれていった出口の間を、休むことなく往復していた。
まるで、目の前に散らばった部品から、
今起きた現象を組み直そうとしているようだった。
黙っていようとしても、好奇心を抑えきれない顔をしている。
「あなた、誰」
ルビアは短く問う。
その瞬間、少年の視線がぴたりと止まった。
ようやく、自分が誰の近くまで来ていたのか気づいたらしい。
明らかに、しまったという顔をした。
「えっ……あ、えっと。ディムロー、です。受験生です。たぶん、あなたと同じ、です」
「私に何の用?」
「い、いや、用というほどでは……その、すみません。近づきすぎました」
ディムローは慌てて1歩下がった。
けれど、視線だけはどうしても出口と床の焦げ跡へ引き寄せられている。
「気になるの?」
ルビアが問う。
「え」
「さっきから、ずっと見ているでしょう」
ディムローは小さく息を呑んだ。
それから、恐る恐る頷く。
「……はい。気になります。かなり」
「何が」
「さっきの、あいつが」
その言葉に、ルビアの赤い瞳がわずかに細くなる。
ディムローは、すぐに両手を振った。
「あっ、悪口ではないです! 本当に違います! むしろ逆で。すごく変だったというか……いや、褒めているつもりです」
「貶しているように聞こえるけど」
「よく言われます」
ルビアは黙った。
本来なら、それ以上会話を続ける理由はない。
けれど、なぜか足が動かなかった。
ディムローは、その沈黙を許可と受け取ったのか、少しだけ声を落として続けた。
「気になっているのは、剣そのものだけじゃないんです」
「……何?」
「いえ、剣も変でした。左の短剣と、右の長剣。左右の剣を、同じ役割では使っていませんでした」
言葉が進むにつれて、ディムローの茶色い目に熱が戻っていく。
ルビアを前にしている緊張は消えていない。
けれど、それ以上に、見たものを話したくて仕方がないらしい。
「あいつは、正面から止めていません」
ルビアは、思わず彼を見た。
「どういう意味?」
「左の短剣で最初の角度をずらして、右の長剣の背へ乗せた。たぶん、押し返したんじゃありません。斜め上へ流したんです」
ルビアの指が、わずかに動く。
目の前へ、あの瞬間が蘇る。
血。
熱。
赤い光。
その間へ割り込んできた、黒髪の少年の背中。
「普通、あの赤い光へ剣を差し込めば、腕か剣のどちらかが先に持っていかれます」
それは、ルビアにも分かった。
あれほど圧縮された魔力攻撃を真正面から受け止めるなど、本来なら自殺に等しい。
「でも、あいつは止めていません」
ディムローは続けた。
「最初に少しだけ向きをずらして、それから長剣の背へ乗せて逃がした。あの長剣は、背が不自然なほど厚いんです。斬るためだけなら無駄が多い。でも、強い衝撃を刃へ乗せて流すなら意味がある」
ディムローは、ユアンが消えた出口を見る。
「剣の形と、あいつの動きが噛み合っていました」
「偶然ではないと?」
「少なくとも、その場で思いついただけの動きには見えませんでした」
ルビアは何も言わなかった。
ただ身代わりになったのではない。
自分が傷つくことを承知で、それでもルビアへ届かせない方法を選んだ。
少なくとも、ディムローの説明を聞く限りでは。
あの短い瞬間に。
「……なぜ、そんなことが分かるの」
「そういうのを見るのが好きなので」
即答だった。
あまりにも迷いのない返答に、ルビアは少しだけ眉を寄せる。
ディムローは、そこでようやく我に返ったように背筋を伸ばした。
「す、すみません。勝手に喋りすぎました」
「続けなさい」
「え」
「途中でやめられる方が気になるわ。確認に必要なことなら、最後まで話しなさい」
「……はい」
ディムローは小さく頷いた。
「魔導具でも、剣でも、杖でも、術式でも。作られたものには、だいたい癖が残ります。どんな使い方を想定したのか。どこへ負荷を逃がすつもりなのか。そういうものが、形に出るんです」
「癖」
「はい。あの長剣は、綺麗に斬るためだけの剣には見えませんでした。たぶん、重いものを受けた時に、正面から止めずに流すための形です」
ルビアは何も言わなかった。
ディムローの言葉を聞いた瞬間、あの背中がもう一度よぎった。
赤い光と自分の間へ、当然のように割り込んできた背中。
ただの衝動ではなかった。
何度も考え。
何度も試し。
あの瞬間のために、身体へ刻み込んだ動きだったのかもしれない。
あれがただの偶然ではなかった。
そのことが、なぜか胸の奥へ重く残った。
「……馬鹿みたい」
ルビアは、小さく言った。
その視線は、ユアンが消えた出口へ向いている。
ディムローが一瞬、固まった。
「え、ええと……あいつが、ですか?」
「死ぬかもしれないのに、そんな剣を持って、あの光の前へ飛び込んでくるなんて」
「それは……はい。普通に考えたら、かなり危ない、いや、正気ではないです」
ディムローは慎重に言った。
さっきまで剣の話になると止まらなかったくせに、
ルビアの機嫌を損ねないよう言葉を選んでいることだけは分かる。
「でも、少なくとも何も考えていなかったわけではないと思います」
「どうして」
「動きが、剣の形と合っていたので」
ディムローは床へ残った焦げ跡を見る。
「あの場の勢いだけなら、あの角度にはなりません。何度も似た動きを練習していないと、たぶん無理です」
ルビアは何も言わなかった。
練習。
その言葉が、胸の内へ残る。
あの少年は、何のためにそんな練習をしていたのか。
「……理解できないわ」
「それは、俺もです」
ディムローは即答した。
ルビアが視線を向けると、彼は慌てて背筋を伸ばす。
「あっ、すみません。ですが、俺もあいつの考えまでは分かりません。ただ、剣と動きを見る限り、偶然だけではないと思っただけで」
「あなたは、彼を知っているの?」
「いえ。全然知りません。名前も、さっき聞こえただけです」
「なのに、よく喋るのね」
「いやあ……本当に、悪い癖で。すみません」
ディムローは、今さらのように小さく頭を下げる。
その様子に、ルビアは少しだけ目を細めた。
不思議な少年だった。
大公家の令嬢を前にして明らかに怯え、何度も言葉を詰まらせるくせに、
剣や術式の話になると恐怖より好奇心が先に出る。
臆病なのか、大胆なのか分からない。
「それに、たぶんルビア様も気になって――」
途中で、ディムローはヒュッと口を閉じた。
ルビアは何も言っていない。
怒鳴ってもいない。
ただ、伏し目がちな赤い瞳で静かに見ているだけだ。
それだけで、ディムローは寿命でも縮められたような顔をした。
数秒の沈黙。
遠くでは、職員たちがゴーレムの周囲へ結界を張り直している。
検査官の声。
受験生たちのざわめき。
その中で、ルビアはゆっくりと息を吸った。
「私は、確認を待っているだけよ」
「……はい。そういうことにしておきます」
「あなた、死にたいの?」
「ち、違います。怒らせたくはないです。燃やされたくもありません」
その言い方が、あまりにも率直だった。
ルビアは一瞬だけ言葉に詰まり、それからわずかに視線を逸らした。
笑ったわけではない。
けれど、先ほどより少しだけ、空気の張りが薄くなる。
ディムローは、それ以上踏み込まなかった。
ただ、最後に小さく呟く。
「あいつ、もう一度見たいですね」
ルビアは答えなかった。
けれど、その言葉に反応しなかったわけではない。
彼女の視線は再び、ユアンが消えていった出口へ戻っていた。
ユアン。
検査官が呼んでいた名前が、不意に頭へ浮かぶ。
覚える必要などないはずなのに。
言いかけた言葉も、胸の奥へまだ引っかかっている。
ありが――
最後まで言えなかった。
助けてほしいと頼んだわけではない。
彼が勝手に飛び込み、勝手に傷ついただけだ。
無謀で。
意味不明で。
ルビアの意思など、何も確認しないまま。
それでも。
あの赤い光が自分へ届かなかったのは、彼が代わりに血を流したからだった。
何の理由も告げず。
何の見返りも求めず。
まるで、それ以外の選択肢など最初から存在しなかったように。
理解できない。
理解したくもない。
けれど、何も感じなかったことにはできなかった。
ユアン。
今度は意識して、その名を胸の内で繰り返す。
覚える必要などない。
そう思ったのに、忘れられる気はしなかった。
ルビアは右手を見下ろした。
長杖を握っていた指先には、もう熱の赤みは残っていない。
それでも、別の熱だけが残っている気がした。
腹立たしいほど、消えない熱が。
「……お礼くらい」
誰にも聞こえない声で、ルビアは呟いた。
「言い直す機会は、あるでしょう」
その視線は、いつまでも試験場の出口から離れなかった。




