『夢の国のストレイキャット』10
10
レッドヘレンの空を、灰色の雲が覆い始めている。町の中は依然として静まり返っていて、まるで呼吸を止めてしまったかのようだ。しかし、注意深く身を潜めなければ、道々を飛び交うあの大きな蠅――フライ・クライに見つかってしまう。
「よし。今」
フライ・クライの影が過ぎ去ったのを見て、ヨミチが合図する。小さなヨミチのあとに続いて十文字が、さらにその後ろから剣を構えたオボロが小走りに続く。
敵方の使い魔、町中にいるフライ・クライを倒すのは得策ではない。あれらは、おそらくそのままクレイヴン家の目になっている。不用意に撃破すればこちらの位置を知らせるだけだ。
「……」
事態は静かに、だが、徐々に深刻さを増している。
一時間前、ニューヨーク市地下鉄4系統の車両が走行中、突然停止した。急ブレーキではなく緩やかに停車したものの、運転士は気を失っているようで列車は線路上で立ち往生してしまった。奇妙な事に、乗客の中でも複数人、原因不明の昏睡に陥った者がいるという。
同時刻。
マイアミ・デイド郡の病院で、看護師、医師、入院患者の区別なく、五十名が一斉に昏睡状態に陥った。幸い、手術中の者などはいなかったようだが、五十名の意識は今も戻っていない……。
これらの情報は、つい先ほど、手掛かりを求めてインターネットに接続した際に得られたものだ。だが、魔術的な影響か、ニュースを見終えた途端、十文字のスマートフォンは圏外となった。これでは外部に助けを求める事も難しい。
(眠り……。人々を急襲する睡魔)
奇妙な符合だ。十文字は確信していた。今、この町の外で起こっている事件の原因はわからないが、十中八九、このレッドヘレンの町の住民を襲った現象と同じことが、外でも起きている。
すなわち、コンスタンス・クレイヴンの魔術。人々を眠らせ、夢に落とし込む魔術。詳細はわからないが、魔術の効果は町の外にも及び始めている。十文字たちはそう睨んでいる。
「――今だ。行くよ」
ヨミチが合図し、十文字たちはフライ・クライの目を避けて進む。目的の建物が見えてきた。
レッドヘレン公共図書館。中はところどころ現代風に改装されているが、建物自体は百年前に建てられたもので、田舎町にしてはいささか異彩な、英国風の様式を取り入れた歴史的建造物である。
「ここね」
ちらと建物に目をやり、それからヨミチは周囲を警戒する。
「わたしは外で見張る。オボロ、十文字を頼んだよ」
「りょーかい。そっちこそ、やばかったら呼びなよ。行けたら行くから」
「いらないっつーの。いいから麻來鴉の手掛かり、探してきてよ」
こんな状況でも、二人の使い魔はいつも通りだった。
「なるべく早く戻る。ヨミチ、気を付けてくれ」
「いいから、いいから。こっちは任せて」
言うや、黒マントに波打った金髪の少女は、ひらりと黒マントを翻し、ふわりと跳び上がったかと思いきや、一羽の鴉の姿へと戻り、建物の影へと消える。
「行こう」
オボロが促し、十文字は頷くと、図書館の重たい扉を開ける。
館内の明かりはついたままだった。中に人がいてもおかしくはないが、眠りの魔術のせいだろう、建物の中は静まり返っていた。
「ねえ、十文字。図書館なんかで一体何を探せばいいのさ」
ひっそりとした声で、オボロが十文字に問うた。ぱっと見は十代の子どもが、大柄な十文字のあとをつけてきているように見えるが、十文字は、オボロがこの佇まいでありながら、周囲への警戒を怠っていない事を知っている。
クレイヴン家の監視網を避けるべく、ろくな説明もなしに十文字は二人をこの施設まで連れてきた。町中を飛び回る奇怪な蠅――フライ・クライが、おそらくクレイヴン家の目と耳になっているはずだ。万が一にも、こちらの狙いを悟られるわけにはいかなかった。
「館内に、あの蠅はいないか?」
問いに答える前に、十文字はオボロに確認する。
「いないよ。この辺りに気配はない」
二人は一階フロアの奥まで来ていた。古い図書館の書架は背が高く、照明がついたままの館内にうっすらとした影を作っている。年季の入った図書の一冊一冊が、次に開かれるのは一体いつだろうか。町の住民たちは今、深い眠りに落ちているというのに。
「ちょっと。十文字」
「ああ、すまん」
思考が横道へと入ってしまっていた。
「〝秘密の書庫〟を探しに来たんだ」
「秘密の書庫ぉ?」
オボロが、いかにも十代の少年らしい声で言った。彼もヨミチと同じく、その正体は麻來鴉の使い魔たる鴉である。だが、長く付き合う中で、その事実をすっかり忘れる事もある。
「そうだ。お前も知っての通り、クレイヴン家は古くからこの土地に住んでいた。往々にして、そういう古い魔術師の家系は土地の権力者と繋がり、町中に秘密の場所を設ける。富裕層との秘密の社交場とか、公に出来ない信仰のための礼拝堂とかな」
「じゃあ……何で今回は書庫なのさ?」
どことなく不満げなオボロに、まるで甥っ子の相手をしているような気分になりながら、十文字はその問いに答える。
「事前に調べた限り、レッドヘレンの町は歴史上注目された事はない。アメリカのどこにでもある普通の田舎町だ。つまり、権力者だの富裕層だのと昵懇になる機会は、この町ではない。それに、クレイヴン家の魔術は催眠だ。仰々しい儀式を行う事もない。つまり、社交場も礼拝堂も候補から消える」
「……つまり?」
「考えてもみろ。クレイヴン家は研究者の一族だ。魔術にまつわる尋常じゃない量の資料を、保管し続ける必要がある。とくれば、自分の屋敷以外にも本の置き場が必要だ。つまり、書庫がさ」
オボロは、しばし眉根を寄せ、じーっと考え込んだあと、
「……え、つまり十文字の勘でここに来たの?」
極めて、不満げな声でそう言った。
「ちがーう。書物は魔術師の宝だろ。魔導書、技法書、教典、法典。古い魔術師の家系なら、必ずそれらを残すもんだ。で、町の中でそれに一番適しているのは」
「図書館ってわけね」
言って、オボロは、書架のほうへと視線を戻す。
「んで、そんなもの見つけてどうするのさ?」
「情報を得るんだ。事前に貰った資料じゃ、コンスタンス・クレイヴンの魔術については何も書いていない。でもクレイヴン家代々の書庫があれば、もしかしたら、対策が見つかるかもしれない」
んー、とオボロはまだ不満げだった。
「でも、秘密の書庫が見つかったとして、麻來鴉の事はどうやって探すの?」
「それも考えはある」
十文字は、カーペットの床に目を落とす。
「そうだな。書庫も見つけ出すが、まずは新聞を見たい。古いものだ」
「新聞?」
ますますわからない、という顔で、オボロは十文字を見た。
「とにかく、例の蠅に注意して進もう」
過去の新聞は、その紙面を縮小し、マイクロフィルムに収められている。マイクロフィルムビューアは一階フロアの北側奥にぽつんと置かれていて、周囲に人影はない。
「マイクロフィルムってどこにあるの」
「カウンターの裏だな」
レファレンスカウンターの裏側には小部屋があり、おそらく、マイクロフィルムはそこに収められているはずだった。
「えぇ……。何か泥棒みたい」
「言うな。カウンターの人がいないんだから」
おそらく、スタッフの出勤前にコンスタンス・クレイヴンの術が発動したのだろう。普段なら無論やるわけもないが、今は仕方がないと自分に言い聞かせて、十文字はカウンターの中へ入る。
「十年前の新聞のフィルムを探してくれ。オハイオ州の地方紙だ」
マイクロフィルムが収められた棚の見出しから、目的の新聞を探す。必要なのはこの町、レッドヘレンに関するニュースが掲載されているものだ。
「これは? 《デイリー・クラーク》」
ほどなくして、オボロがマイクロフィルムの収められたケースを書架から抜き出した。オハイオ州の地方紙。名前からして、おそらくレッドヘレンに関する記事も載っているだろう。
「それで、どこから見るの?」
「まずは一月からだ。順に見ていく」
「ねえ、まさか。一年分見るつもり?」
不審そうなオボロの問いに、十文字は首を横に振った。
「すぐに終わるさ。俺の勘が当たっていればな」
やっぱり勘じゃん、と嘆息するオボロに周囲を見張ってもらいながら、十文字はマイクロフィルムをビューアに入れてクランクを回す。
デイリー・クラークにはオハイオ州のいくつかの町の時事についての記事が掲載されている。レッドヘレンはそのうちの一つに過ぎない。辛抱強く、ビューアのクランクを回して記事から記事へと視線を移していく。レッドヘレン町長の娘の結婚式に関する記事や、この町の出身であった作家の死亡記事、いくつかの施設の改修工事に関する記事。それから水道工事。事故、川の氾濫、また結婚式。故郷に錦を飾ったスポーツ選手の記事。水道工事。名物コラム。風刺コミック。選挙。新たに建てられた病院について。そしてまた、水道工事……。
意外な事に、フレッド・クレイヴンの名もそこかしこに見られた。御多分に漏れず、クレイヴン家もまた富裕層であり、社会貢献活動には意欲的だったというわけだ。レッドヘレンの町の道路や建物の補修工事には、大小の差はあれどクレイヴン家の援助がある。
記事を探す。水道工事――水道工事――水道工事。記事の内容は短い。八月二日から十日までの間、シャーレイ通りから郊外にかけて水道工事を行う。これは長年懸念されている水道管の老朽化対策によるもので、工事期間中、いくつかの区画で一時的な断水が発生する――……。
「……想像通りだ」
「何の事?」
無機質な静寂。まるで石の中にいるかのようだ。危機的状況だというのに現実感がない。町が、音を失っているせいで。
「地下さ。コンスタンス・クレイヴンが何故麻來鴉を地下に落としたのか、ずっと気になっていた」
オボロが不可解そうに眉根を寄せる。
「あの地面に穴を開ける魔術の事? 成り行きじゃないの。戦闘中ってそんなもんでしょ」
子どもの姿とはいえ、オボロは戦士だ。戦う事にかけては十文字よりはるかに知見がある。だが。
「コンスタンス・クレイヴンの言葉を思い出してみてくれ。彼女は『これで魔女は私の手の中』と言った。彼女は麻來鴉を始末するのではなく、確保したんだ」
「え。じゃあ、下水道か何かに落としたって事……? うげえ……」
オボロがげんなりした顔で言う。つられて十文字も顔をしかめる。
「ちーがーう。確保したにも関わらず、ペンデュラムは地下に麻來鴉がいる事を示した。たぶん厳密には、クレイヴン家はまだ麻來鴉を確保できていない。魔術で地下に移して、そのあと回収するつもりなんだ。で、最初から回収するつもりなら、下水道なんて行き辛い場所には落とさない。もっと行きやすい場所を選ぶはずだ。おそらくはクレイヴン家の屋敷から行き来しやすい、たぶん直通の場所――」
「……どこ?」
「地下通路があるんだ。クレイヴン家専用の」
十文字は水道工事の記事を指差した。
「この水道工事。この月だけですでに八回目だ。いくら老朽化とはいえ、こんな小さな町でいくら何でも多すぎる」
「場所の問題じゃないの? あちこち工事してるんでしょ。古い町だし、水道が壊れた嫌じゃんか」
十文字はポケットからレッドヘレンの町の地図を取り出し、広げて指をさす。
「シャーレイ通り、庁舎前、メイスン通り、ヒバリー通り……。確かに一見場所はバラバラだ。だがこの年の工事が最初に始まったのはここ。町と郊外の森とを繋ぐドッドソン通りだ。それも、かなり森に近い位置から工事を始めている。町と郊外の森との間にあるものといえば……」
「クレイヴン家の屋敷ってわけね」
オボロはふーん、というふうな顔をしてみせた。
「その後の工事は、このスタート地点を起点に町を一周するように続き、九月の終わりにまたドッドソン通りに戻って、以降水道工事の記事は見当たらない。最初の記事にはこうある。『この水道改修計画は、町の名士であるフレッド・クレイヴン氏の援助によって実現した』と」
「露骨だ」
オボロは呆れたように言った。
「水道に限らず、フレッド・クレイヴンはこの町のために援助を惜しまなかったようだ。おそらくは、事実上町を我が物としておくために」
フレッド・クレイヴン。魔術師であり、研究者。
最初のイメージと、実際の人物像は違うのかもしれない。戦闘の腕で名を上げるでもなく、ただひたすらに先祖代々の研究を引き継いだ男。地脈の上に存在するこのレッドヘレンの町が、これまでほかの魔術師や呪術師に攻め込まれなかった理由がわからなかったが、術者からすれば一目瞭然だったのではないか。すなわち、この町はすでにクレイヴン家の堅牢な要塞であり、攻め込むにはリスクがある……。
しかし。仮にそうだとすると――
「……あった」
クランクを回して進んだ先に、探していたもう一つの記事があった。
あまり気持ちのいい記事ではなかった。
※ ※ ※
郊外で強盗殺人か
二十日正午、レッドヘレン郊外にある住宅に何者かが押し入り、キャナリー・クレイヴン(三十)さんと娘のコンスタンス(八)に暴行したうえ逃走した。キャナリーは病院で死亡が確認され、コンスタンスは頭部に重傷を負った――
※ ※ ※
「コンスタンス・クレイヴンの事件の記事だね」
オボロが、少しだけ沈んだ声で言った。
「そうだ。フレッド・クレイヴンはコンスタンスが生まれてからの十年間、一時的に魔術師としての活動をしなくなった。研究の手を止め、著作を出す事もなく、引退状態だった」
市井の人間として生きるつもりだったのだろう。妖しげな魔術の世界を捨て、一人の人間として家族を持ち、娘を育てる。フレッド・クレイヴンが魔術というこのあまりにも特異な世界に対してどういう思いを抱いていたのかは知らないが、きっと、どこかに倦んだ気持ちがあったのだろう。
「だが、彼はこの事件以来、再び魔術の道に戻ってくる。意識が戻らなくなった、娘のために……」
一体、それはどれほどの絶望であったのか。
妻を亡くし、目を覚ます事のない娘を抱え、フレッド・クレイヴンは何を思ったか。考えるまでもない。持てる全てを投じてでも、自分の娘を再び日の元に出したいと願ったはずだ。
――疑問が、二つある。
一つは、何故フレッド・クレイヴンは、魔術師としては引退状態であったにも関わらず、町の改修工事に援助を続けていたのか。
無論、町に対し貢献する事は、体面の意味からも続ける必要があっただろう。『地下通路』の存在にしても、十文字はほかの先行事例から想像しているだけで、本当に地下にそんなものがあるのか、根拠はない。
改修工事に、魔術的な意味はなかったのだろうか。いや、それにしては、あまりにも手を回し過ぎている。いくら町の名士とはいえ、少々過剰だ。
意味はある。おそらく。ほぼ確実に。そしてそれはクレイヴン家の魔術に直結しているだろう。何故なら、魔術師の家系にとって、魔術とは単なる家業ではない。それは血に基づく、呪いめいた宿業なのだ。フレッド・クレイヴンはそれでも八年間縁を切っていたようだが、逃げ切れるつもりだったかどうか……。
そして、もう一つ。
仮にも魔術師の屋敷に忍び込み、二人を加害せしてめて逃げおおせた人物とは、一体どこの誰だったのか。
「――十文字」
さっきまでとは違う、小さく、だが鋭さを感じる少年の声に、十文字は思わず背後を振り返った。
「……動くな」
浅黒い手に握られた、鈍い光沢の銃口が、十文字のほうへと向いていた。
見知らぬ人物だった。着古した感じのあるブルーの制服。若くはなくとも鋭い眼光。筋骨隆々とはいかないまでも、一般人とは違う体つき。
警官。
「そのまま両手を挙げて、ゆっくりとこちらを向け。日本人」
白髪が存分に混じった髪の、黒人の警官が、有無を言わさぬ語調で言った。




