16 その時何が起こったか(後)
マティアス視点
王立魔法学園は大きく分けると中央棟、学園棟、寮棟、教員棟、研究棟の五つの建築物で構成されている。南の正門から前庭、中央棟、中庭、東に教員棟、西に寮棟、北に学園棟、さらに北に研究棟。他に演習場、馬場、厩舎、使用人棟等の諸々が点在している。五つの棟は1階の回廊で繋がり、移動の際は基本的に回廊を使用することになっている。あくまで基本であり、職員も生徒も天気の良い日は当たり前のように中庭を通って近道をしている。
学園棟から出てきた数人の女生徒、彼女たちの表情は硬く、どこか緊張感が漂っているように見える。彼女たちに囲まれて俯いている女生徒の表情は見えないが、特徴的な淡紅色の髪で彼女がアンジェリカ・フローベルであることが分かる。何気ない風を装い、距離を置いて後を追う。中庭を横切り、寮棟に向かうのかと思えば、素通りし寮棟の陰へと姿を消した。このままでは見失ってしまう、歩を早めて後を追おうとしたところで、背後から声が掛かった。
「マティアス殿下」
よりよって何でこんな時に…思わず舌打ちしたくなるのを堪えてゆっくりと振り返れば、呼び止めた男には見覚えがあった。膝を付き恭しく頭を下げているが、立ち上がればマティウスより軽く頭一つ背が高く、彼の役職には似合わないほど堂々とした体躯を持つ強面の男。
「ライナスか、なんだ?」
「申し訳ありません」
王立魔法師団研究所長――助手、ライナス・ディクレアは不機嫌さを隠さないマティアスの声に恐縮したように言葉をつづけた。
「所長がお呼びです」
「叔父上が…急ぐのか?」
「あの…」
口ごもり、逡巡する様子を見せるライナスに、マティアスが視線で促す。それに力を得たのか、控えめに続ける。
「私見で申し上げてよろしいのなら…そう急ぎではないかと…」
「なんだと?」
ピクリと片眉を上げ不快を露わにするマティアスは、第二王子らしい振舞いを放棄した。王立魔法師団長兼研究所長であるテオドール・オーキッドは現国王の弟であり、マティアスにとっては叔父にあたる。王弟であり、重職を兼務するテオドールはマティアスを気軽に呼びつけることができる数少ない人物である。
「先ほど窓から外を眺めていた所長が殿下を見かけたらしく…『あ~ちょっと呼んできて~』と」
それにしても気軽すぎではないだろうか。ライナスがテオドールの口調を真似なくとも、その様子が目に浮かぶ。ご丁寧に口調を真似られると、げんなり感が倍増するので止めて欲しい。そもそもマティアスがアンジェリカ・フローベルを気に掛けているのはテオドールに頼まれたからに他ならないのだ。ならばどちらを優先するかなど、自ずと知れよう。
「…ちっ、後で行くと伝えてくれ」
「かしこまりました」
第二王子殿下の舌打ちという珍しいものを目にしたライナスは、慌てて頭を下げ、小走りで去っていく。彼が悪いわけではないのになんだか八つ当たりのようになってしまい申し訳なかったかなと思いつつも、叔父上の口真似なんかするからだ、と責任転嫁をして僅かな罪悪感と折り合いをつける。マティアスが令嬢たちの向かった方向に踵を返すと背後から「いてっ」という声が聞こえた。振り返れば、回廊の段差に躓いている大きな背が見えた。ライナスは恵まれた体格に反比例するかのように運動はからきしで、一部から「無駄筋肉」と呼ばれているらしい。ちなみにライナス本人もそのことは知っている。テオドールがずけずけと本人に向かって言っているからだ。
気を取り直してアンジェリカ・フローベル達の後を追う。同じように寮棟の陰に回ったがその姿は既になく、どうやら見失ってしまったようだ。
(クソッ…叔父上のせいで…)
心中でテオドールに悪態を吐く。寮棟の裏には西門、馬車停め、使用人棟、前庭、裏庭がある。中庭から見れば寮棟の裏ということになるが、西門から見れば寮棟の正面になる。週末である風の日の今日は王都の屋敷に帰る生徒たちが行きかっており常より騒がしい。使用人棟、馬車停めも同様だ。となると残るは寮の前庭か、学園棟と寮棟に挟まれた裏庭。学園棟から直接西門に向かうなら裏庭は近道になるが、其処を通る生徒はほぼいない。中庭と違い人が通ることを想定されていない為、歩道が整備されてないからだ。芝や土の上を直接歩けば制服の裾や靴が露に濡れるし、下手をすれば泥で汚れる。貴族ばかりの学園で、そんなところを好んで通る生徒などいないのだ。反対に人目を避けたいのならば最も適した場所ともいえる。
裏庭に向かうべく、目をやると数名の女生徒が寮棟に向かって歩いていくのが見えた。その中には淡紅色の頭は見えなかった。アンジェリカ・フローベルはどうしたのだろう…疑問に思いつつマティアスが茂みを踏み分け裏庭に入っていくと開けた場所に座り込む人影が視界に映った。見覚えのある淡紅色の髪が揺れている。
「フローベル嬢」
マティアスの呼びかけに、俯いていた女生徒は驚いたように顔を上げた。
「マティアス様…」
ほぼ接点のないアンジェリカに名を呼ばれ、今度はマティアスが驚いた。王と王妃に対しては『陛下』それ以外の王族に対しては『殿下』と呼ぶのが貴族としての常識である。マティアスは同等の以上の身分のものか、私的に親しく許可を与えている人間以外にそのように呼ばれることはなかった。もちろん、子爵令嬢に過ぎないアンジェリカ・フローベルはどれにも該当しない。常ならば周囲のものが不敬を咎めるが、生憎とここにはマティアスとアンジェリカしかいなかった。しかし、第二王子として、紳士としてマティアスは驚きを面には表さず、座り込んでいる女性に手を差し伸べることを選択した。
「……ありがとうございます」
マティアスはおずおずと腕を伸ばすアンジェリカの手を取り、立ち上がる動作に合わせて軽く手を引いた。
「きゃっ…」
草むらに足を取られよろめいたアンジェリカが体勢を崩し、マティアスの腕の中に倒れこんでくるのをとっさに抱き留める。先ほどの女生徒たちに何をされたのだろうか、まさか怪我でも?と思い至ったマティアスはできるだけ優しく声を掛けた。
「どこか怪我でも?」
「大丈夫です……っ」
マティアスを見上げたアンジェリカの薄紫色の瞳が潤んだかと思う間もなく、透明な涙が溢れ出した。女性を腕に抱くのは初めてではない。貴族として必須であるダンスは男女が身を寄せ合って踊るものだ。当然マティアスも令嬢たちとダンスを踊ったことはある。しかし、王子としての教育を受けているマティアスは気安く異性に接することが無い様に心がけている。その為、それ以外で異性と身を寄せ合うことなどない。ましてや、その女性が泣き出すなど、初めてのことである。女性に人気がありそれなりの付き合いをしているシエルならまだしも、性格的にも立場的にもその手の事に慎重にならざるを得ないマティアスは、今の事態に対処するには経験が少なすぎた。それでも、腕の中で泣いている女性を突き放すようなことはできず、黙ってアンジェリカが落ち着くのを待った。
キシリと、草を踏みしめる音がする。顔を上げたマティウスが、足元が露に濡れることなど気にも留めずこの近道を常用している婚約者の事を思い出したのは、本人を目にした時だった。
「ディアナ…」
「クラニティス様…」
状況を理解できないのか、呆然とした顔で二人を見ているディアナ。マティアスは腕の中にいる少女の存在を思い出し、ゆっくりと体を離すと、ディアナに向かって足を踏み出した。
「マティアス様」
背後から、引き留めるような声でマティアスの許した覚えのない名を呼ぶアンジェリカ。
「ディアナ…」
手を伸ばせば届く距離まであと数歩、近づいてきたマティアスに対してディアナは戸惑うような表情を見せる。が、それも一瞬で。その美しい面に淑女の微笑みを浮かべた。
「ごげんよう、マティアス殿下」
珊瑚色の形の良い唇から紡ぎだされる声は、柔らかく耳に心地よいはずなのに、マティアスは近づきがたい距離を感じ、足を止めた。
「失礼します」
マティアス、ついでその背後にいるアンジェリカに視線を向けたディアナは、優雅に、非の打ち所のない淑女の礼を取る。すっと背筋を伸ばし、踵を返すディアナに侍女が続く。
去っていく婚約者の背を見つめたまま、微動だにしないマティアスにアンジェリカが伺うように声を掛ける。
「マティアス様」
「………ない」
返ってきたのは感情の乗らない平坦な声。先ほどの優しい問いかけとのあまりの違いにアンジェリカは一瞬何を言われたのか理解できなかった。
「あ…」
「フローベル嬢、私は貴女にそのような呼び方を許してはいない」
「……っ、申し訳ございません、殿下」
ようやく自分の不敬に気づいたアンジェリカは慌てて頭を下げる。その所作は優雅さの欠片もなく、淑女のものとはとても言えない。その様子にマティアスは、目の前の少女が数か月前までは貴族社会とは無縁であったことを思い出す。それに、学園では在籍する生徒は身分に関係なく平等である。それでも身分による階級制度は歴然と存在しているのだが。貴族社会における経験の短さを考えれば、アンジェリカが建前を実態の差を理解していなくても無理はない。その彼女の態度を容認できないほどマティアスは狭量ではなかった。
「いや、怪我無ないなら良かった」
「あ、はい」
気遣いを感じさせる声に戻ったマティアスにアンジェリカはほっとしたように笑み浮かべる。柔らかな薄紅色の髪に縁どられた可愛らしい顔立ち、大きな薄紫色の瞳、アンジェリカが可憐に微笑めば年頃の男子生徒は目を奪われるだろう。しかし、マティアスはその笑みに何の感情も呼び起こされなかった。
「失礼する」
自分を見つめるアンジェリカに、マティアスは第二王子の笑みを返す。背にアンジェリカの視線を感じながら、ゆっくりとその場を去る。木立に入りアンジェリカの視界から自分を姿を見えないようにすると、歩を早める。ディアナの後を追いかけたマティアスが目にしたのは、学園を後にする公爵家の馬車だった。
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