10 恐れ
キアラン視点
「それでは、行って参ります」
笑顔で挨拶をするディアナを抱きしめ、額に唇を落とす。
明朝でも十分始業には間に合うのに、と引き止めれば、一週間も休んだから早めに戻って授業の準備をするのだという。病み上がりなのに無理をしなければいいのだが。
「無理はしないで、何かあったらすぐに帰ってくるんだよ」
「まったく、お兄様は心配性ですね」
「そうだよ、心配なんだ。無理はしないと約束してくれるね?」
困ったように眉尻を下げてディアは笑う。
「返事は?」
「はい」
学園では何かあったときにすぐに駆けつけられない。
常にそばにいられない自分がもどかしく、腹立たしいが、カイとルシィに任せるしかない。
「頼む」
「「かしこまりました」」
ディアナの背後に控えていた二人に目を向ければ、心得たように頷き、礼で答える。
何をとも、誰をとも、言うまでもない。
再び上げた顔には決意のようなものが伺えた。
エントランスに横付けされた馬車に乗り込んだディアナが窓から顔を覗かせる。
その頬を指の背で撫で、軽く口づける。
動き出した馬車を見送りながら、ほんの数日前の出来事に思いを馳せる。
あの日、指を伝った冷たい頬の感触が蘇り、心臓が嫌な音を立てる。
……そう、何かあってからでは遅いのだ。
知らず知らずのうちに拳を固く握りこんでいた。
* * * * * * *
カラーン
カラーン
カラーン
三の刻を告げる神殿の鐘が王都に響き渡る。
本日の執務はこれで終了。
机の上に広がっていた書類を手早く片付けて、席を立つ。
王国宰相を務める父は週に五日王宮に出仕している。
立場上、王都を離れることができず、領地の政はすでに公爵位を父に譲り隠居を決め込んでいる祖父に任せている。
本来なら宰相補佐である私も父と同様に出仕するべきなのだが、公爵家の継嗣である私は領地の政についても学ばねばならず、少々特殊な出仕形態をとっている。
父を補佐する為に王宮に上がるのが週に三日。館で領地の管理に関する仕事に携わるのが週に二日、風の日と陽の日。
風の日は他の日よりも早く執務を切り上げる、ディアナが帰ってくる日だから。
サロンに行って、お茶でも楽しみながら愛しい妹の帰りを待つことにしよう。
私は軽い足取りで執務室を後にした。
華やかな香りが鼻をくすぐる。温かい紅茶を口に含み、香りの次は舌触りを楽しむ。
中庭に面したサロンには陽光が溢れ、開放的な雰囲気を醸し出している。
緑あふれる中庭に目にやり、間もなく帰宅するであろう私の天使に思いを馳せる。
(ディア…)
王立魔法学園に在籍しているディアナは平日は学園の寮に入っていて、週末、風の日か星の日に館に帰ってくる。
彼女を一番に出迎えて、一緒にお茶を楽しむのが、風の日の一番楽しい時間だ。
そうしてディアナと週末を過ごし、月の日には再び学園へと送り出す。
(そろそろか)
早く可愛いディアの顔が見たい、ホールで出迎えよう。
飲みかけのティーカップをテーブルに戻して、席を立つ。
サロンの扉に手を掛けたところで、常にないざわめきが耳に届いた。
「お嬢様、お屋敷に着きましたよ、もう大丈夫です」
「カイ、そっと運んで」
ホールに入ると同時に目に入る光景に呆然とする。
バタバタと駆け寄るメイドたち、その中心にいるカイの腕には青褪めた顔のディアナが抱かれていた。
「ディア!?」
ディアナを取り囲んでいたメイドたちがさっと道を開ける。
足早に駆け寄ると、カイはディアナを抱えたまま私を見上げ、そっと膝を付いた。
つられるように私も膝を付く。
「…………」
くったりと力なくカイの胸に頭を預けるディアナ。
常ならば輝くような頬は蝋のように白く、確かめるように手を伸ばせば、ひやりとした感触が指を伝った。
薄紅色の愛らしい唇も今は色を失い、けぶる睫毛に彩られたアイスブルーの瞳は瞼に覆われ閉ざされている。
――ディア
足元から這いがる闇が私を覆う。
心臓がどくどくと嫌な音を立てて存在を主張する。
――怖い
冷たい頬、物言わぬ唇、閉じられた瞳。
――ディア
目の前が暗くなる。
――怖い
赤い、赤に塗れた手、動かない。
――嫌だ、嫌だ、嫌だ、
決して失ってはならないものを失ってしまう。
――ディア、ディア、ディアッ!!
「キアラン様…」
控えめな呼びかけに我に返り、顔を上げれば、カイが気遣うような瞳を私に向けていた。